エリノアの精神安定剤
「だって……ルーシー姉さんのことを考えると、とてもじっとはしていられなくて……離宮にいると、失敗ばかりでバークレム書記官にちくちく言われるし……そうでなくても昨日からルーシー姉さんへの心配と、グレンのせいで胃が痛いのに……」
床に這いつくばる勇者は痛みを思い出したのか、脇腹を押さえて痛たたた……と、なお床に伏す。
そんな娘の申告には、自分の息子の名もしっかり含まれていたにも関わらず。婦人はそれはまるきりスルーで「ああ、ソル・バークレムですか」と、猫顔をいやそうに歪めた。
ソル・バークレム。言わずと知れた、生真面目なブレアの、さらに生真面目な書記官殿。
彼と少々因縁(?)のあるコーネリアグレースは、ふんと鼻を鳴らす。
「確かにあの男は厄介ですねぇ。あの男が頻繁に出入りする根城なんかによくお住まいになれますこと。あたくしならどんな豪邸でもごめんです。あたくし、小姑はしたいお年頃なんです、小姑されたくはありません」
「…………」
嘲笑われるように感心されたエリノアは、どっちもどっちじゃないかと心底思った。しかしまあ、今はそんなことどっちだっていいのである。
はぁぁ……と、エリノアは擦り切れそうな息を吐く。
「ルーシー姉さん……大丈夫かな……」
エリノアは、己のため息のこぼれ落ちた床を雑巾でゴシゴシ擦る。
義理姉の人生が掛かった今日という日を思うと、気を揉みすぎて、とてもではないがじっとしていられない。
怖くて言葉になどできないが……もしルーシーがジヴに振られて泣いていたりしたらどうしよう。
自分に失恋した義姉を慰められるだろうか。
「あああっ、気になるっ、そして怖い! そろそろお茶会はお開きになった頃⁉︎ ハ、ハラハラして……あ、あ、手が……手が止まらない!」
「……エリノア様……そんなに床を擦ってしまうと摩擦で板が発火しません? なんだか暑苦しい聖の気が蔓延してくるようで迷惑なんですが……。まあ、そんなに心配なさっておいでなら、御令嬢を慰める手立てを先に準備しては?」
呆れた様子のコーネリアグレースの提案に、しかしエリノアは、うう……と床の上で雑巾を握りしめる。
「いえっ、それだと結果を聞く前に振られると決めつけているみたいだから……!」
苦悶の表情のエリノアに、ではと婦人。
「成就すると信じ、祝いの用意でもいたします? アンブロスの温室には我が夫が色々収集しておりますから、花ならいくらでも提供できますわよ」
婦人の申し出に、エリノアは困った様子で怯んでいる。
確かにそれは素敵な提案だ。しかし……。
「でも……それだと、もしダメだった時に、浮かれた花束を見て姉さんが傷つくかも……」
エリノアは、ついに床磨きの手を止めて、腕を組みうんうん唸り始めた。
なんともまあ、忙しそうなことだなぁとコーネリアグレース。
「ええと、ええと……いっそのこと……どちらも用意する……? お花を用意して、美味しいお茶の準備と、ルーシー姉さんの好きなお菓子を作って……こっちは慰め用みたいだし、こっそり……あああ⁉︎」
床に向かってぶつぶつ言ったかと思えば、頭を抱えて天井に向かって叫ぶ。
どうやらよほどルーシーが心配で、ソワソワして落ち着けないらしい。察したコーネリアグレースは、ふっと大人な表情を見せる。
「青春ですわねぇ……」
まあ、婦人としてはエリノアが右往左往するところを眺めつつ茶を啜るのは愉快だが。
「しかし、このまま放置してはきっと陛下に鬼怒られる案件……。もう……仕方がありませんわねぇ……」
仕方ないと言いながら、例の小悪魔黒猫にそっくりの顔でにんまりした女豹婦人は、背中の愛用の黄金の金棒を手に取り、それを軽やかに天井に向かって掲げる。
「いでよ! エリノア様の──あら嫌だ! 天井が低すぎるわ!」
「──へ?」
大柄なコーネリアグレースが思い切り金棒を掲げると、天井にそれがゴリッと当たり、婦人の猫顔が煩わしそうな顔をした。パラパラ落ちてくる木屑と、ぷりぷり憤慨する婦人に気がついて。エリノアが顔を上げる。
「ちょ……コーネリアさんいったい何を……、⁉︎ て、天井割れてますけど⁉︎」
「あらおほほ、さすが庶民の家は天井が低うございますわねぇ、おほほあら嫌だ、せっかくお掃除したのに木屑が」
「…………………」
笑う婦人をエリノアが微妙そうにじっとり見ている。と、婦人はわざとらしくこほんと咳払いし仕切り直す。今度は床に対してやや水平に金棒を持ち上げた。
「うふ、気を取り直しまして。──出でよ! エリノア様の精神安定剤〜♪」
「せ?」
はぁ? という顔のエリノアの前で、婦人はそぉれと金棒を振る。──と、途端居間の天井に禍々しい色の黒煙の渦が生まれる。
エリノアがギョッとした瞬間に、室内は黒煙に満たされ真っ暗闇に。
「わ、わぷっ⁉︎ ちょ、こ、コーネリアさん⁉︎」
黒煙に巻かれたエリノアは慌てる。一瞬にしてコーネリアグレースの姿さえ見えなくなった。一体何事だとエリノアは闇の中でもがくが、迫ってきた煙を吸い込んでしまいむせてしまう。
「ゲホッ! ちょ、こ、コーネリアさ──け、煙!」
こんな黒煙が家の外に漏れ出たら、ご近所は大迷惑である。火事と間違われるかもしれない。
おまけに現在勇者であり、王子の婚約者となったエリノアにはたくさんの護衛がついている。
──本日の護衛責任者は──……トマス・ケルルである…………。
(…………)
エリノアの頭の中に、ちーんと滑稽な音が響く。
脳内で、彼女に笑いかけるのは、思考が花畑な、ちょっぴり低身長で筋肉とヒゲがチャームポイントながさつ騎士。
……やばい、あの人がここに加わると変なことしか起こらない気がする!
エリノアは、煙の中で焦燥感に駆られた。
「コ、コココーネリアさん! 今すぐ煙を消して! 今日の護衛、騎士トマスなんです!」
叫ぶと、煙の向こうからやや遠い声が聞こえる。
──あら〜それはたぁいへん! 早くなんとかなさいませぇ〜♡
「⁉︎」
返ってきたのは、恐ろしく他人事な言葉であった。唖然としたエリノアは、目をまんまるにして(煙が目にしみる)いる。
「⁉︎ な、なぜ⁉︎」
まったく意味が分からない。精神安定剤とは⁉︎
だが、分からずとも……とにかくこのままではまずかった。
ただでさえ、質素ながらも静かな住宅街であったところを、『勇者の家』とかいってひっきりなしに観光客が来るような騒々しい場所に変えてしまい(ルーシーらが)、ご近所さんには迷惑をかけた(もちろんご近所さんたちも潤っている)のである。
そんなところへきて、火事騒ぎなど。
「も──申し訳なさすぎて胃が燃えるっ!」
……こういう時に、聖なる力を有した勇者として、それらしき力を使うことや聖剣を頼ることも思い出せず、闇雲に突っ込もうとしか考えられないところがエリノアらしかった。胸元には(大抵眠りこけてはいるが)魔王の与えた(押し付けた)護衛(?)のエゴンもいるというのに……。頼めば煙くらいはどうにかしてくれるのではないか……なんてことも全然考えなかった。
エリノアは、叫んだかと思うと、一寸先も見えぬような闇の中へ跳んだ。──先ほど聞こえたコーネリアグレースの声は分厚い煙に阻まれよく聞こえなかったが、それでも傍にはいるはずである。そもそもこの家はそんなに広くない。
声が聞こえたほうへ思い切ってダイブし、闇をかき分けるように手を伸ばす。と、その指先に何かが触れる。温かで、柔らかい。
「! 捕まえた!」
エリノアは黒煙の中で手に触れたものを思い切り掴む。
「コーネリアさん! これ今すぐ消してください! ボヤと間違われて騎士トマスに踏み込まれちゃう! 大騒ぎになったら、私がバークレム書記官に叱られるんですよ⁉︎」
そんなことになったら、またブレアに心配そうな顔をされてしまうし、今はエリノアに厳しい書記官にも、『……まあ、姉さんはおっちょこちょいなところを直す必要があるしね……』とか言ってエリノアを叱るソルを見逃しているブラッドリーが、今度こそ彼を消すとか言い出すかもしれない。鬼のように怒る弟の顔を想像してしまったエリノアは、コーネリアグレースにしがみついたまま呻く。
「だ、だめよブラッド! バークレム書記官はあれで結構優しいのよ! 私が立派な淑女になれるように身を粉にしてくれていて──だって、王宮の他の方々は、ブレア様を含めてみんな私に甘いから──‼︎」
おびただしい汗を額に流しつつ、そう声を張り上げた瞬間に。煙の中から彼女の耳に届いたのは、呆れて高笑いする婦人の声。……などではなく。
「……すまん」
抱きしめた身体から、直接響くように低く静かに伝わってきた声に、エリノアの肩がビクッと跳ねる。
「…………え……?」
女豹婦人を捕まえていた、はずのエリノアは。ポカンとしてその身から頭を離して、その主を見上げた。それは、エリノアが聞きまがうことのない声だった。




