一世一代の気持ち
ジヴから話を聞いたルーシーはとても戸惑ったが、彼の説明によると、家人たちは今は部屋で付き添いをつけてゆっくり過ごしているらしい。
だが、複数の人間が、同時に同じ夢を見たとは。ルーシーは、難しい顔をして、なんだか(魔法や人外の匂いがする……)と、思った。
魔法が庶民たちには縁遠く、魔王がシスコンという力のもとに勇者に屈した現在のこの世界では、それらを思い浮かべるものはあまり多くないかもしれない、が……。
彼女は座っていた長椅子の上で紳士のほうへ身を乗り出す。
「ジヴ様、なんだか変です。これは呪いとか、魔法の類かも。私、その道のプロ(※魔王とか……魔物とか……)を知っております。ジヴ様さえよろしければ連れて参りますわ」
一度確認してみませんか、と申し出る。その念頭にあったのは、いつも勇者の離宮でブツブツ小言を漏らしている白い犬。……聖剣はやめておこうと思った。あのトンチンカンさでジヴを戸惑わせたくない。
と、そんな令嬢の申し出に、ジヴは「ありがとう」と、穏やかに感謝の眼差しを向ける。
「では、もし少し休ませて、家の者たちの様子が改善しなければお願いしても?」
にこりと微笑まれたルーシーは、心配そうではあったが、彼の役に立てそうなことが見つかってとても嬉しそうだった。はい! と、気持ちの良い返事を返す令嬢に、ジヴはにっこりと卓上の茶と茶菓子を勧める。
「では、様子を見る間は私と一緒に過ごしてください」
「え……」
今日はひとまず帰ろうと思っていたルーシーは、ジヴが綺麗な指先で茶菓子の乗ったケーキスタンドをそっとこちらに押したのを見て、少し戸惑ったようだった。
彼の家が大変な時に、その主人たる彼に時間を使わせていいのだろうか。迷惑にならないだろうかと表情が曇っている。が、「本当に……よろしいのですか……?」と恐る恐る問いかけると、ジウは朗らかに頷く。
「ええ、もちろんです。そうして下さると、私も嬉しいです。私一人では満足していただけるおもてなしができるか自信がありませんが、是非」
ジウの表情は、ゆったりと落ち着いて、特に憂いは見られなかった。それを見たルーシーは、ホッと胸を撫で下ろす。どうやら彼の家の者たちの状況は、心配するほど悪くはないらしい。ルーシーは素直にジヴの言葉を喜んだ。
せっかく貴重な機会を貰いジヴの屋敷に来たのである。その意中の人物から、こう積極的に一緒に過ごしてほしいと請われて嬉しくないはずがなかった。
そして、その貴重な機会を危うく失いかけたことが、ルーシーの背中を押した。どんな思いをして獲得した機会も、ともすると、こうして不意に失くしてしまいかねないと痛感したゆえのことだった。
その、とルーシー。
「はい」
短く話しかけると、ジヴの優しい目が彼女に向く。
ルーシーは、ジヴの向かい側で改めて身を正すと、ソワソワと耳元に髪をかけたり、膝の上で両手をモジモジさせながら、やっとの思いというふうに、つぶやく。
「私は……」
それは普段の雄々しい彼女からは想像もできぬようなか細い声だった。視線はテーブルの上の茶器に落ちていて、そんな令嬢の物言いたげな様子に、ジヴがおや? と不思議そうな顔をした。
「……ルーシー君?」
「その……私は…………ジヴ様が、傍に、いてくださるのなら……それだけで……とても、満足です……」
そう言って、ルーシーはジヴから視線を逸らしたまま、照れ臭そうに、幸福そうに微笑んでいる。
──こんな令嬢の様子を──……。
もし今エリノアが見ていたら、黄色い叫びを上げて悶え狂っただろう。
タガートが見ていたら、きっと父は普段のツンの激しい娘とのギャップに呆れ。ブレアだったら、無言で石のように押し黙り。グレンが見ていたとしたら、ゲラゲラ大笑いしたこと間違いなしで、きっと奴は憤慨したエリノアに追いかけられた。
とにかく、この時のルーシーは、本当に可愛らしかった。
いつもの雄々しさはすっかり鳴りを潜め、そこにいたのは、はっきりとした恋する乙女であった。
そんな彼女に言葉を贈られたジヴは、驚いたように数回瞳を瞬いた。
令嬢の顔は分かりやすく耳まで上気していて、声は今にも消え入りそうである。
ジヴは日々仕事に夢中で、あまり女性を側には寄せ付けないし、これまで結婚もしなかったが、若い頃はそれなりに恋もした。
ルーシーの様子を見て、彼の胸には、ふと忘れていた感情が瑞々しく蘇った。俯いた彼女を見ていると、なぜかとても面映い。次第に顔に熱が集まってきたように思えて。その感覚には、ジヴ自身も驚いた。
彼は、これはもしや……と、何かに気がついたようだった。
紳士は静かに、真っ赤な顔の令嬢を見つめる。
「……これは……参りましたね……」
そうして訪れたしばしの沈黙に、ルーシーは緊張顔で暴れる心臓の痛みを堪えていた。
ルーシーにも、今はっきり、ジヴに自分の気持ちが伝わったことが感じられた。彼の反応が気になって仕方がないのに、どうしても顔が上げられない。すっかり静かになってしまった居間の中の沈黙が重くて。身体はとても熱いのに、冷や汗が出た。
──断られるだろうか。それとも、さりげなく流されるとか。
──言わなければよかった? ……いえ、でも……今日は妻にしてくださいと言いたくて来たのだから……。
ルーシーは、気が気ではなくて、思わずこわばった膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。
彼を戸惑わせることも、断られる可能性が高いことも、随分前から想定内のことだった。
なにせ自分と彼とは親子ほどに歳が離れている。そうであっても仕方がない。
(……それに、私、本当に粗暴者だし……)※自覚ある。
(裏ではファザコンヤンキーとか言われてるし……)※知ってた。
ルーシーは、ふっと諦観の思いに駆られる。
自覚はあるし、知ってもいるが、それでも己の中から溢れ出る体育会系気質と、拳を止められぬ己には呆れてため息が出る。……いや、さすがに近年ではルーシーの雄々しさは王都にも広まりきっており、彼女に喧嘩を売るような相手はミズ・クレンゲルたちのような恋敵ばかりで。実際にルーシーの拳の餌食になるような者は、武術の稽古の相手か、武闘大会出場者くらいのものだが。
しかし、家族に何かあれば、彼女は拳を止める気はさらさらないわけで。たとえそれがジヴの前であったとしても、きっとルーシーはためらわないだろう。
悲しい哉、それが自分という人間で、そんな自分が、世の殿方たちに畏怖されていることも分かっている。
今目の前に座る恋しい紳士も、そんなルーシーのことを知っているかもしれない。そんな妻は、たとえ年齢が近くてもごめんだと思われているかもしれない。
そこでルーシーはハッと青ざめた。
(あ……もしかして、そんな凶暴娘の求愛を断ったら、殴られるかも、とか……ジヴ様を怖がらせてしまっていたらどうしよう……⁉︎)
確かにあり得るそんな可能性に気がついて。ルーシーと愕然としてジヴを見た。これは、自分の配慮が全く足りていなかった。だからこんなに長い時間、ジヴが黙り込んでしまっているのかもと思ったルーシーは、慌てふためいて長椅子を立ち上がる。
「あ、あの! わ、私、けしてジヴ様に乱暴なことなどいたしません……!」
両手を組み、懺悔するような悲壮な顔で訴えて。──と、その時だった。
それまで何かを考え込むような目で、ルーシーを黙って見つめていたジヴが、少しだけ戸惑ったような表情で口を開いた。
「……ルーシー君」
「! は、はい!」
その静かな声に、ルーシーは、ハッと肩を揺らし直立不動。恐々と紳士を見る。
すると、柔らかな髪色の彼は、まだ戸惑いの滲む瞳。その目を見たルーシーは、ああ伝わったんだなと感じた。恥ずかしすぎて、思わず頭が下がりそうになるが、それでもなんとか背筋を伸ばし、深呼吸をして。緊張顔で彼の次の言葉を待った。
そんな彼女に、紳士は静かに、慎重な口調で言った。
「私は……もし、今君と何も話し合わずにお帰ししてしまったら、後悔しそうだと思うのです」
その言葉に、ルーシーは、額に汗の滲む顔で「え?」という表情。
と、ジヴは苦笑するような、少し恥ずかしそうな表情で、己の首元の後ろへ片手を回す。
「いや、遠回しで申し訳ない。随分思いがけないことでしたのでね……私も戸惑っているのです。なんと言っていいものか……」
「こ、こちらこそ、申し訳ありません……急に不躾なことを……」
恥ずかしすぎるらしく、ルーシーは消え入りそうな声。だが、ジヴは「いいえ」と微笑む。
そこで再びジヴは一瞬言葉をためらってから。ルーシーの瞳をじっと見つめた。その口元からこぼされた戸惑うようなため息を、ルーシーは恐ろしいような気持ちで聞いていた。
「……、……君のためを思うと、私はここで、それはやめておきましょうと言ったほうがいいと思うのです」
──その言葉を聞いて。ルーシーの目の前は一気に暗くなったようだった。
覚悟はしていたつもりだが、辛かった。
だが、彼女はこわばっていた口の奥で、グッと奥歯を噛んで、声を絞り出す。
「……わ、私のことを、考えてくださって有難うございます。でも、構わないんです」
ここでルーシーは、少し俯いてしまっていた顔を上げ、精一杯の気持ちでジヴの瞳を真っ直ぐに見た。
「私が望むのは、ジウ様が私と“一緒にいたい”と思ってくださることです。でも、そう強引にしたいというのではありません。望んでいただけたら、お傍に置いていただきたい。……そうでないのなら、構いません。私のことを考えていただくまでもなく、来るなとおっしゃっていただければ、私は…………」
そこまで言うと、胸の奥から悲しさがグッと迫り上がってきて。その煽られるような辛さに思わず瞳に涙が滲んだが──ルーシーは凛とした顔のまま、泣かなかった。
「でも、どうか、しばらくの間はジヴ様のことを遠くからお慕いしていることだけはお許し願えたらと存じます……。ご迷惑は、お掛けしませんので……どうか……」
ルーシーは言葉を絞り出す。胸のうちは、終わってしまったという悲しさで満たされていた。
(でも、やり切らなきゃ……)
ルーシーは、下がりそうになる顎をグッと持ち上げ、初めての言葉をジヴに贈る。
悲しさの中にある毅然とした表情は、美しくすらあった。
「ずっとお慕い申し上げておりました。ジヴ様の穏やかでお優しいところが大好きです。聡明でいらっしゃるところを心から尊敬しております。ジヴ様のことが……大好きなんです……男性として……」
もっと伝えたいことは山ほどあったが、今はそう言うだけで精一杯だった。どうしても滲み出てきた涙が重く感じられて、頭が下がって行ってしまう。
でも、やっと言えたという気持ちもあった。
ずっと、歳の離れた彼に、異性として好きだと打ち明けたかった。切なかったが、そのささやかな晴れやかさが、彼女になんとか根性を振り絞らせて、ルーシーは口角を持ち上げてジヴを見た。
「聞いてくださってありがとうございます。ご自宅にお招きくださって、今日は本当に嬉しかったです!」
泣き笑いではあったが、感謝のこもったそれは、極上の微笑みであった。




