令嬢の小鹿の足と、ジヴの屋敷の異変
ルーシー・タガートは、あまり失敗を恐れる性質ではない。
これまでの人生色々あったが(魔王と喧嘩したり、魔物と戦ったり共闘したり)、強豪並みいる武闘大会ですら、肝の座った彼女はなんとも思わなかったのである。
──ただ一度、ブレアとの舞踊の練習会の際、己が失敗したせいで父が窮地に陥るのではと猛烈に怯えたことはある。だが……まああれは、彼女の捻くれたファザコンが原因なので、多めに見てあげてほしい。
いくら彼女が高慢でも、愛するパパは大切なのである。
ま、それはともかくとして。
そんな彼女にとっても、この日はさすがに緊張せずにはいられなかったわけだ。
いや、すでに前日の晩から落ち着かず、夕食も朝食も喉を通らなかった。
そんな調子で、訪れたジヴ・ハーシャルの屋敷。ルーシーは、ある意味とても怯えながらそこへやってきた。
だってとルーシー。
片想いの相手の家に招かれるなど、こんな機会は滅多にない。何か失敗して、二度と招いてもらえなくなったら……ジヴに嫌われでもしたらと思うと気が気ではない。なにせ今、彼女はガチガチに緊張していて、とてもではないが、いつもの実力を発揮できる状態にはないのだ。
おぼつかない己の足を見下ろしながら、ルーシーは嘆く。
(こんなに緊張するなんて、思わなかった……。ミズ・クレンゲルのこともあるし、毅然としていなくてはいけないのに……)
きっと彼女は今日も邪魔をしにくるはずだ。が、自分がこのような有様で、あの強力な恋敵に勝てるのだろうか。
まったく、女の恋の争いというのはややこしいとルーシーは思った。
これが拳で争うのならば負けないが……こと、意中の相手に好かれるよう、恋敵を出し抜くようにと張り巡らされる女たちの駆け引きは、どこか戦いの戦術と似ている。だが、大抵の争いでは溢れるパワーと天才的喧嘩技術で押し切ってきたルーシーには、あまり戦術というものには馴染みがない。
おまけにルーシーは長らく父しか目に入っていない令嬢だった。つまりジヴが初恋である。
圧倒的に、ミズ・クレンゲルたちに比べると恋愛経験値も、駆け引きの経験も足りないのだった。
(……いえ、でもここまで来たら絶対に負けられない……)
ジヴを射止められるかどうかはまた別として、とにかく自分という人間を悔いなく彼に見てもらいたかった。
「……ジヴ様……」
見上げる二階建ての屋敷は貴族たちの屋敷に比べると少しこじんまりしている。花壇なども華美には整えられていない。だが、慎ましやかで、こざっぱりとしていて、とても好感が持てた。
(いよいよ、ジヴ様のお宅の中に入ることができるのだわ……)
緊張しつつも、ルーシーは静かに感動した。
実は彼女はこの屋敷の前までは何度も来たことがある。いや、ストーカーじみていると自分でも分かっているが、どうしてもジヴの住んでいるところを見てみたかった。
といっても、もちろん外出の際にわざと遠回りをして、この屋敷の前を数回通っただけ。訪問したことはない。この中に入ることは、ルーシーにとっては憧れだった。
ルーシーは、緊張の面持ちでその敷地内へ踏み込んだ。
──と、連れてきたお供が、後ろから彼女を見て恐々とした声をかけてくる。
「お、お、お嬢様……あ、足が、ブ、ブルブルしてますよ……⁉︎」
お供の青年は見たことがなかったのだ。いつも鬼神がごとく勇ましい彼女の足が、こんなにも子鹿のように震えるところを。
(※ちなみに、アグレッシブすぎる彼女のお供はいつも活きのいい青年である。足が速くないと令嬢には追いつけないし、力がなければ拳に訴えようとする彼女を止められないから)
お供の指摘に令嬢は、彼を振り返って、ぴぃっ! と、嘆き叫んだ。
「わ、分かってるわよ! いいのよ! ジヴ様のところに辿り着けさえしたら!」
そんな足腰小鹿状態でなんとかハーシャル家の屋敷を訪れた令嬢は。屋敷の扉が開かれた時、驚きで、危うく足を捻って挫くところであった。
「っ⁉︎」
「いらっしゃい」
戸口の向こうに現れた、背が高く、すらりとした身にブラウンのベストとジャケットをまとった髭の紳士。
てっきりジヴの家の使用人に出迎えられるのだろうと思っていたルーシーは、自分に微笑みかけるハシバミ色の瞳を見て大いに驚いた。
大抵の場合、出迎えは使用人が任され、主人は居間で客を出迎えてくれることが多い。だから今日もきっとそうなのだろうと少し油断していた。
あまりに驚いて、一瞬ジヴに見入って戸口に立ち尽くしてしまったルーシーだが。自ら扉を開けてくれた紳士は、優しい声で彼女を中に促した。
「よくおいでになられましたね、ルーシー君」
「ぁ……お──お招き、ありがとうございます……」
うろたえながらも、なんとかそう返す。
玄関には彼以外の者の姿はなく、彼だけがそこに立っていた。
ルーシーはとてもびっくりしていたが、出迎えてくれた紳士の顔を見ると……もう緊張は蕩かされて気持ちは羽が生えたように舞い上がった。強張っていた表情も、あからさまにうっとりと変わり……。その激変に、背後ではお供が信じられないものを目撃してしまったという顔をしているが……。そんなことは知ったことではなかった。
ルーシーは感激した。まさか、ジヴが自ら出迎えてくれるなんて。
そうしてルーシーは、うっとりしたまま、彼に屋敷の中へエスコートされる。夢見心地の彼女は、あまりジヴ以外を見る余裕はなかったが、屋敷の中も、外観同様あまり華美ではなく、至る所に本が並んでいる。内装は歴史を感じさせる作りだが、手入れがよく行き届いていて調度品も趣味が良かった。
居間に案内されると、ジヴはルーシーを来客用の長椅子に座るよう促した。しかし彼は着席せずに、側に置いてあったカートの傍へ歩いて行って……どうやら茶の用意をしているらしい。ポットと茶器を手にやってきて、ようやくそこにある肘掛け椅子に座ったジヴは、申し訳なさそうな顔をする。
「行き届かなくて大変申し訳ない。実は……このような日に、手伝いの者が数人倒れてしまいまして」
自らの手で茶を淹れてくれながら、ジヴは困ったように眉尻を下げている。
ルーシーがどういうことですかと尋ねると、屋敷の幾人かの女中や使用人が、具合が悪いと言って部屋を出られない状態なのだという。あまりにも気の毒だから他の使用人もそちらの世話をさせていて、ほとんど表には出てこれないのだと彼は言った。
それを聞いたルーシーは、心配そうな目をしてジヴを見た。
「まあ……それはお困りでしょう。私がいいお医者様をお連れしましょうか? それに身の回りの者がいないのはご不便でしょう? タガート家の者を数人よこします」
ルーシーはすぐに居間の出入り口のほうを見て、その扉の向こうにいるはずのお供を呼ぼうとした。が、ジヴは彼女の気遣いにありがたそうな目をして、しかし「大丈夫です」とにっこり笑う。
「お気遣いありがとう。でもご心配なく。家の者たちは医者に診せましたし、私も大体のことは自分でやれますから」
「そう、ですか……? でもお困りのことがありましたら、ぜひおっしゃってくださいね!」
ルーシーが熱心にそう懇願すると、ジヴはやはり嬉しそうに表情を和らげた。
そんなジヴを見惚れていたルーシーは。ふと、違和感を覚える。
そういえば……ミズ・クレンゲルはどうしたのだろうか。
そのような事態に、この家の女主人気取りの彼女が出てこないはずがない。
(あの強気な女性なら、ジヴ様が困っていると知ったら……私を押しのけてでもここに来そうな気がするけれど……)
疑問に思ったルーシーは、思い切ってジヴに尋ねた。
「あの……今日は、ミズ・クレンゲルはいらっしゃってはいないのですか……?」
と、ジヴが数度瞬きをする。
「ミズ・クレンゲル、ですか? ……ああ、いいえ。今日は彼女の姿は見ていません」
「そう、なのですね……」
頭を振るジヴに少しだけほっとしながらも、ルーシーはここで一気にミズ・クレンゲルとの仲を聞いてしまいたかった。だが、それをぐっと飲み込んで、令嬢は言った。
「でも……そのようなご事情でしたら、私、今日は失礼いたします……」
屋敷が大変な時に、ジヴを煩わせてはいけない。
ルーシーは心の中ではとてもがっかりしながら、テーブルの上のジヴが淹れてくれた茶の器を手に取った。
(本当は、ゆっくり味わいたかったわ……)
そう思うと残念すぎて涙が出そうであった。器を両手で包み込むように持ち、心の中ではグスンと嘆きながら、彼女はそれを一気に飲み干そうとした。が、ジヴは驚いたような顔で、彼女を制す。
「おや、まだいらっしゃったばかりではないですか。本当にお気遣いなく、当家なら大丈夫ですから」
お茶もゆっくり飲んでくれと言われて、ルーシーは戸惑う。
「でも……」
ルーシーのためらいを感じたのか、ジヴはそれが……と切り出す。
「どうやら家の者たちは、病ではなさそうなんです」
「? 病では……ない……?」
ルーシーが不思議そうな顔をすると、ジヴはええと頷き、そして少し難しい顔でその事情を語り始めた。
お読みいただきありがとうございます。さて、やっと可愛いルーシー回です。
そしてジヴの屋敷は一体どうしてしまったのでしょうか♪




