天からの助け?
ミズ・クレンゲルは、何かの気配に息を呑んだ。
ハッと振り返ると、重苦しい暗闇の中で何かがゆっくり蠢いていた。
「!」
思わずたった今叩いていた扉に背を擦り付けるように後退る。背中にざらりと木戸の感触が当たり、外出用のドレスの擦れる微かな音がした。いつもの彼女なら、シワの一つも気にするところだが……。暗がりを凝視した彼女は、今それどころではなかった。
屋敷の中は、真っ暗だった。
先ほど唐突に家の中を照らした灯りは、今はもうない。
外からの明かりのみが薄く廊下を照らしているが、厚い雲が月を隠すと少し先にある物すら見えない。おまけになまじ月明かりが射し込むために、それが消えた時の闇は余計に濃く感じた。
その淡い光が去った廊下を、何かがゆっくり彼女に近づいてきていた。
それは視線をやると、彼女が見ることのできる視界のギリギリの際を、するりするりと逃げていく。
目で捉えようとしても、けして正体は明かさず。しかし、その一部だけを、わざとらしく見せつけるようないやらしい動きは、彼女をいたぶろうとしているようでゾッとした。
(何⁉︎ なんなの⁉︎)
と、その時暗がりから鳴き声が聞こえた。
……──にゃあ
静けさの中に、ぽつりと落とされたような甘い声。
それを怯えに身を縮めて聞いていたミズ・クレンゲルの口からは、はっ⁉︎ と、安堵の息が漏れる。
「ね……猫……?」
言うと同時に、ドッと疲れが押し寄せてきたような気がして足がよろめいた。
その正体を知って、緊張が一気に解ける。木戸に背中を預けて長いため息をついた彼女は、ここでやっと自分の髪やドレスが台無しになっていることに気がついた。ジヴを誘惑するために、せっかく綺麗にしたのにと思い出すと、今度は憤りが湧いてくる。彼女は小さな獣の声がした暗闇を睨み、決して外ではできないような形相で歯軋りする。
彼女は猫など飼ってはいない。
大方野良猫か何かが入りこんだのだろうが……おかげで時間を取られたし、身だしなみも台無しだ。
「まったく……! 出ていらっしゃい! 懲らしめてやる!」
ミズ・クレンゲルは確信して、勝手口の横に立てかけてあった箒を掴む。
きっと、一度明かりがついて消えたのも、あれらのせいだったのだ。
いるはずの女中はやはり居眠りでもしていて、自分の声に慌てて起きてきたのだろう。そうして彼女が慌てて灯した灯りを、迷いこんだいたずらな猫が倒して消してしまった。おそらくそんなところなのだ。
女中が未だに声をかけてこないのは、きっと自分のせいで驚き恐怖している主人を見て、それを己のせいだと白状したくないから。叱責を恐れてその辺りに隠れているに違いない。あの憎らしい猫も、女中がこっそり屋敷に招き入れたのかもしれない。そう考えた彼女は、安堵から一転、烈火の如く怒りを感じ、闇の奥に怒鳴る。
「モリー! モリー‼︎ さっさと出てきて猫を捕まえなさい!」
そして扉を開けさせて、早くジヴの屋敷へ向かわなければ。せっかく彼と既成事実を作る舞台を整えたのに、これでは機会を逃してしまう。
身なりはすっかり乱れてしまったが……。
(どうせジヴは酔っているはずだから、もう構やしないわ……)
ドレスも髪も表で待たせている馬車の中で整えればいいと思った。迷い猫は捕まえさせておいて、あとでキツく罰を与えよう。
──しかし、何故か待てど暮らせど女中がやってくる気配がない。家の中は相変わらず静かだった。
「? モリー? 何をしているの? 早く来なさ──」
厳しい口調で言いかけた時、台所のほうでまた小さな灯りがついた。それを見たミズ・クレンゲルは、ホッとして。やっと観念したかと女中の姿を探す。
「モリー、やっとなの。早く──……」
と、その瞬間、婦人の顔が再び恐怖に凍りついた。
灯りに照らされて、ほんの一瞬だけ、廊下の向こうの部屋へ、何かがさっと滑りこんで行くのが見えた。
女中ではない。──猫でもなかった。それよりは二回りほど大きな何か……。
ミズ・クレンゲルは、耳元で己の心臓の音を聞きながら、一瞬見えたものをゆっくりと思い起こす。
小さな頭に、丸い大きな腹。脚は長いものが数本。──蜘蛛の足のような形だった。
(あ、頭が──……)
それを思い出した瞬間、彼女は身の底から震えが湧き上がってくるような気がした。
目撃した“何か”の小さな頭は、髪の長い人間の女の形をしていた……。
「っ⁉︎」
途端、再び彼女の背が勝手口の背によろめき当たる。
あまりに恐ろしくて悲鳴が喉の奥に詰まったように苦しかったが、髪が長かった異形の姿を思い出すと、あまりの気味の悪さに吐き気がした。喉を迫り上がってきた吐き気は、そのまま嗚咽となって彼女の口から飛び出していた。
──と、不意に廊下の向こうでカサリと音がする。
「っ⁉︎」
途端、恐怖に駆られた婦人は背後にあった勝手口に飛びついて、必死の形相で扉を激しく打つ。
助けを求めて叫んだつもりだったが、あまりに恐ろしくて、喉からはヒステリックな喚き声が出ただけだった。
──と、その声に重なって、突然誰かの笑い声が聞こえた。
「っひ⁉︎」
驚いたミズ・クレンゲルは、ドアノブを握ったままその場に腰を抜かして、ガタガタ震えた。
それは少年の声のようで、ゲラゲラと腹を抱えて笑い転げるような声だった。声は反響するように、あちらこちらから聞こえてくる。廊下の先からするのかと思ったら、二階から響いてくるようでもあって。しかし次の瞬間には、耳元で嘲笑うような声が聞こえる。
己の住まいの中で、覚えのない者の声がするなどという状況は、ただでさえ恐ろしい。
それなのに、次々と場所を変えて向かってくる笑い声は、彼女にほらもっと怖がれと煽っているようだった。怖がらないならもっと酷いことが起こるよと迫ってくるようで──……。
「⁉︎」
と、その時ミズ・クレンゲルの喉が引きつった。
いつの間にか──足元に腹を見せた蜘蛛が転がっている。大きさは中型の犬程もあり、その黒い四肢は、死んだように動かない。
ぐったりとした様には怖気が走り、ミズ・クレンゲルは混乱してパニックに陥った。腰を抜かしたまま慌てて逃げようとすると、その時唐突に、蜘蛛の身がブルリと震えた。
思わずギョッと身を縮めて息を殺す。と、彼女の怯えた眼差しの先で、蜘蛛のまるく盛り上がった腹の向こうに、ぐっと白い何かが持ち上がる。青白い──女の顔が、ポカンと口を大きく開けて、生気のない暗い双眸でミズ・クレンゲルを見ていた。その瞳は、腐敗しきった沼の底のようにねっとりと彼女に絡みつく。大きく開けられた蜘蛛女の口の中で、鮮明に赤い血のような色の舌が蠢くのを見て──……。
ミズ・クレンゲルは、もうとてもではないが、正気でいることなどできなかった。
「ぃ、っやぁあああああっ⁉︎」
思わず頭を抱えて拒絶の絶叫を上げる。と、同時に、化け物のものらしいけたたましい奇声が周囲に響き渡り、それが彼女の精神をさらに追い詰めた。
ミズ・クレンゲルは、もうダメだと思った。恐ろしさのあまり、今にも気を失ってしまいそうだ。
今夜はジヴとの甘い夜になるはずが……まさかこんな恐怖に見舞われるなんて……。
自分はこのまま化け物の餌食となり死ぬのかと思うと、怖くて、怖くて。
──が。
混乱していたミズ・クレンゲルには分からずとも仕方のないことではあったが。実はその奇声は彼女の背後から上がったものだった。
「ぅ、ぉ、ぎゃああああああ⁉︎ ⁉︎ ⁉︎」
奇声を上げた娘は、開かれた扉口にうずくまったミズ・クレンゲルの向こうに、奇怪な頭を持つ蜘蛛を見て悲鳴を上げた。
──が、真っ青な顔の彼女は、ミズ・クレンゲルが“化け物の奇声”と誤解したほどの絶叫をあげながらも、その不気味な化け物の身体に跳びかかる。
「この馬鹿!」
「⁉︎」
厳しい怒声に、泣き喚いていたミズ・クレンゲルが顔をあげる。
その時彼女が目撃したものは──真っ青な顔をした娘が、スカートを翻しながら己の上を飛び越えて、目の前に迫っていた蜘蛛の化け物のほうへ身を躍らせて──。そのまま、不気味な蜘蛛女の頭をヘッドロックで締め上げているという……壮絶な場面であった……。
「ひっ⁉︎」
娘が細い腕で顎を持ち上げた瞬間、蜘蛛女の口からだらりと赤い舌がこぼれ落ち、それを見たミズ・クレンゲルは腰を抜かしたまま後ずさる。
「ヒィいいいいいい!」
「──おや」
「⁉︎」
と、不意にその背が何かにぶつかって止まる。
ギクリとしたミズ・クレンゲルが怯えた顔で上を見上げると──。
そこにあったのは、目の眩むような美青年の顔であった。
「⁉︎」
思わずミズ・クレンゲルの身が凍る。
そんな彼女を、彼女にぶつかられた青年が、銀の髪を垂らして笑う。怯えきっていたミズ・クレンゲルには、それがまるで天から差し出された救済のように思われた。
青年は、目の前で身をすくめている婦人に、鮮やかな橙色の瞳で微笑みかけた。
「どうやら魔物に弄ばれたようですね。大丈夫ですか?」
その顔は、あまりにも無邪気。美しさもさることながら、魔を寄せ付けないような清廉さに。ミズ・クレンゲルは思わず涙した。彼女からすれば、まさに、地獄からいきなり天国に救い上げられたような心地であった。青年の、神聖さすら感じる美貌に、すっかり恐怖を忘れて惚けた彼女は、オドオドと問う。
「あ、の、貴方様は、いったい……ど、どなた……ですか……?」
すると青年は一瞬キョトンとして、ああ、と、ミズ・クレンゲルの出てきた戸口の中で、蜘蛛の化け物とすったもんだしている娘を見た。
「あの方ですか? あのお方は勇者エリノア様ですよ」
「──え?」
地面にへたり込んだミズ・クレンゲルは唖然として、家の中を見る。──が、暗闇の中でも主人を見失わない聖剣の目とは違い、彼女には、暗い屋敷の中へ消えていったエリノアの姿はよく見えなかった。
ただ、家の奥の暗闇からは、「あんた……! 今日こそは懲らしめてやる!」とか、「なんなのその怖すぎる格好は⁉︎」といった、威勢の良い怒声が響いてくる。その合間には、ゲラゲラ笑う化け物の声も聞こえて──ミズ・クレンゲルは恐ろしさを蘇らせて、そんな化け物に果敢に向かっていく“勇者エリノア”にひどく感動した。──と、婦人はハッとする。
「な、ならば──貴方様はもしや……いつも勇者様のそばにおられるという──⁉︎」
彼女は目を見開いて、傍に立つ青年を目を見上げる。と、平然とした青年からは、軽い返事が返ってくる。
「ああ、私ですか? 私は勇者様の聖剣です」
「!」
恐怖から一転。見た目だけで言えば、申し分のない美貌の青年テオティルに、ペカー! と、微笑みで照らされたミズ・クレンゲルは。もちろん彼の言葉を疑わなかったし、この瞬間に、あれだけ何年も執着したジヴのことも、憎き恋敵のことも。その一切合切を忘れた。
「せ、聖剣様……っ♡」
「?」
婦人は顔を真っ赤にして、両手を組み、熱っぽい瞳で一心にテオティルを見上げているが……。当の本人のテオティルは、もちろん婦人のいきなりの高揚の意味が分かるはずもない。聖剣はただ、いつものようにキョトンと首を傾げるだけだった。
──その背後では──……。
不気味な姿に化けた魔物──グレンのあまりの気持ち悪さに、泣きべそ半分、怒り半分のキレ気味娘が、クレンゲル邸の中で、そこにあった箒を掴み、一生懸命魔物を追いかけ続けていた。
「馬鹿! あんたはいつもやりすぎなのよ!」
「やだー♡ 姉上様ったらこわぁい♡」
「アホなの⁉︎ あんたのその格好のほうがよっぽど怖いわよ! ま、待て! 逃げるな!」
「にゃははははは〜♪ もーほらほらこっちこっちぃ♡ 姉上様ったらぁ、相変わらずどんくさぁい♡ 早く捕まえてくださいよぅ♡」
「む、むぎぃいぃっっっ‼︎」
夜闇のクレンゲル邸に、勇者の怒声が響き渡る。
もちろんメイナードは、助けてくれなかった……。
お読みいただきありがとうございます!
事情によりチェックは後ほど致します!




