黒猫のいたずら
家の中から金切り声が聞こえる。と、ほぼ同時に、その家の外でも素っ頓狂な声が上がった。
「あ、あれっ⁉︎ な、なんか今の声……怪奇現象起きた、みたいな反応じゃありませんでした⁉︎」
クレンゲル家の扉に張り付いて聞き耳を立てているのはエリノア。その戸惑った目はすぐにそばの暗闇に走る、と、そこには緑色の髪の少年が一人。
穏やかな顔をした少年は、じっとクレンゲル家の中の様子を伺うような目をしていたが……その目が不意にエリノアを見て、笑う。
「どうやら──横槍が入りましたな」
「横、槍……⁉︎」
「対象を眠らせようとしましたが……何者かによって阻止されました。まあ……考えるまでもなく、グレンでしょう」
「⁉︎」
言ってやると、途端エリノアは愕然とクレンゲル邸を見上げる。そんな娘の目を、メイナードは愉快そうに見ている。
と、目一杯に見開かれた目が、嘘でしょう⁉︎ と言いたげに、メイナードの元へ返ってくる。
「あ、あの子また何かしでかしたんですか⁉︎」
「そのようです。……このまま混乱状態の対象に外に出られても面倒なので、念の為屋敷を封印いたしました」
どうやらグレンはミズ・クレンゲルを屋敷の外には出さぬようにしているらしいが……そのせいで、内部でパニックになった誰かが、扉や窓ガラスをバンバンと激しく叩く音がする。このままでは屋敷に被害が出る。
「どうなさいますかエリノア様、あの者、出してやりますか?」と、メイナードがエリノアに尋ねようとした瞬間、エリノアたちが見ていた窓ガラスの向こう側に、サッと黒い影が横切って行ったのが見えた。一瞬見えた、獣の頭の輪郭と、その中に浮かび上がっていたニンマリと笑うような口の形にエリノアが息を呑んだ瞬間に、また屋敷の中から大きな悲鳴が上がる。暗闇をつんざくような女の高い声にエリノアは跳び上がった。
「ッヒィ⁉︎」
「? おや?」
彼女はそのままメイナードに飛びついて、彼の両耳をビチッと塞ぐ。どうやら……子供に聞かせるべきものではないと思ったらしい。もちろん……メイナードは子供などではないが。
ちなみに。ミズ・クレンゲルが表で待たせていた馬車の御者も、彼女の家の女中、そして周辺住民も。皆とっくにメイナードが夢の世界にいざなったあと。ミズ・クレンゲルの必死の悲鳴を聞くものは、エリノアたち以外にはいない。
「ちょ……ど……っ、グ、グレ……グレン!」
想定していないことが起こってしまったエリノアは、メイナードの聴覚を守ったまま真っ青である。
こんなはずではなかった。
エリノアは単に、メイナードにミズ・クレンゲルを調べてもらった結果、彼に『急ぎ対象を外出禁止にしたほうが良さそうだ』と進言され、その通りにしてもらっただけである。
急げと言われたから、慌ててここへやって来て、実は彼女がジヴを襲いそうだなんていう不穏な話も、ここに到着してはじめて聞かされた。
しかしエリノアは、別にご婦人を脅かそうとか、怖い目に遭わせようなんてことは考えていなかった。
ただ穏便に、ジヴの元へはいけないよう、家から出ないで貰えば済むと思っていて……。彼女にも、周辺住民同様ただ眠っていて貰おうと考えていたのだ。
と、そこへクレンゲル邸を見上げていたメイナードの声。
「──おや? 今度は灯りがすべて消えましたな……」
「うっ⁉︎」
見れば、先ほどまでは幾らか灯りもあったクレンゲル邸は、内部が真っ暗になっている。一階も、2階も同時に灯りが消えたところを見ると……おそらくこれも人間技ではない。おまけに、屋敷の中からは、再びのけたたましい悲鳴。
エリノアは──……怒りと、焦りでめまいがした。
どうやらグレンは……この中で大いに楽しんでいるらしい……。
「あ、あの子ったらっ! ど、どうしてこう……やってほしくないことばっかりするの……⁉︎」
いや、小悪魔猫は確かに『いたずらします』と堂々宣言していた訳だが。しかし当然のことだがエリノアだってそちらには対処したつもりだった。エリノアは、その対処を頼んだ者の名を慌てて呼んだ。
「テオ! テオ!」
大きな声で虚空に呼びかけると、すぐに間延びした声が返ってくる。
「エリノア様、お呼びですかー? あれ? 待ち合わせは、ここでしたっけ?」
空間を渡り、ニコニコと姿を現した聖剣はエリノアの顔を見ると、はて? と首を傾げたが……それどころではないエリノアは、彼に向かって飛びついた。※テオ嬉しそう。
「テオ! グレンを止めておいてってお願いしたよね⁉︎」
あれはどういうことだとクレンゲル邸の中を指し示すと、キョトンとしていたテオティルは、平然と言う。
「? 主人様。私、お願いされておりません」
「へ⁉︎ で、でも確かに……離宮で……」
テオティルの返答に戸惑うエリノアに、後ろからメイナード。
「……申し上げにくいのですがエリノア様……。本日夕刻ごろ、私が報告を持って返った時、その者の気配はエリノア様の離宮にはありませんでした。その者は女神の大樹のそばにあったようですよ」
「ど──どういうこと……?」
メイナードの証言に、エリノアは眉間にシワを寄せておろおろしている。
と、今度はテオティルがあどけない顔で言う。
「ええと……離宮の者が、『エリノア様が、“ハイパー可愛い黒猫ちゃんは放っておいていいから、女神の大樹の前で、お利口(おりこ〜う)さんにお留守番しておいて♡”、ですって』と、伝言を伝えに来たので……」
「ハ、ハイパー⁉︎ わ、私そんなこと言ってな──……」
と、叫んだ瞬間、エリノアの顔が、そこでハッとした。言葉が消え、その目は見開かれたまま、横目でメイナードをギギギと見る。と、もじゃもじゃ頭の少年は、生温かい顔で微笑んでいた。
「ふふ。どうやらエリノア様──……グレンにたばかられましたな」
「⁉︎」
おそらくこんな顛末だろうと、メイナード。
離宮の侍女に伝言を託したのは、エリノアに化けたグレン。
エリノアに化けて、テオティルのところに行っても、聖剣にはすぐ偽物と見抜かれる。ゆえに、そこに自分の変化など見抜けぬ離宮の侍女を挟んで、聖剣を呼び出した。
そして、エリノアが、『グレンを見張っておいて!』と、頼んだのもまた、その魔物だったのだろう、と。
「……、……、……、……」
それを聞いた途端エリノアは、がっくっと、音がしそうなほどの勢いで地面に崩れ落ちた。
四つん這いですっかり沈み込んでしまった娘に、メイナードは気の毒そうに苦笑いしながら問いかける。
「どうなさいますか? 策を変更して奴を捕らえに参りますか? しかしそれがしは今手一杯ですから……誰か他のものでも呼び寄せましょうか?」
メイナードは、自分は屋敷の封印と、人間たちを眠りの中に閉じ込めておくことで忙しいとエリノアを、少し困ったような眼差しで見上げた。その言葉には、うなだれたエリノアの後ろでほやほやした顔で立っているテオティルなど、カケラもあてにしていない節がのぞく。
──が。
……その実、メイナードにとっては、複数の魔術を使い分けることなど訳のないことではあった。だが彼はあえてそうエリノアに尋ねる。
この元老将は、彼からかいつまんだ話しか聞かされていないエリノアとは違い、ミズ・クレンゲルの強引で呆れた計画のほぼすべてを把握している。
温厚に見えて、実はしっかり魔物の性を持ち合わせ、冷酷な面もある彼は、自分勝手な人間に対する同情心などカケラもない。
彼はただ魔王の命じたように、魔王の姉のしたいように働くだけと割り切っていて。ゆえに、積極的にはグレンを止める気もない。元老将は、何食わぬ顔で勇者に判断を仰ぐ。
「ヴォルフガングを呼び寄せるか、エゴンでも投入してみますか?」
言うとげっそりしていたエリノアがヨボヨボと顔を上げる。
「え……それもなんだかとてもややこしいような……」
メイナードの提案に、エリノアは躊躇する。頭の中に、クレンゲル邸の中で暴れ回る黒猫と、それをイライラした顔で追いかけ回す白犬と、ドスドス走り回る雄牛が思い浮かび──即断は無理だった。
「っアニマルすぎる! と、というか、それは、よそのお宅でやらせてはいけないことのような……⁉」
──と、名指しされたエゴンがペンダントの中から不平を漏らす。
『は? ワシ? いや、ワシは遠慮しておく。どうにもワシは、あの身に突き刺さるような女の金切り声が苦手でなぁ……。それにグレンのやつの相手をするのは疲れるではないか……あやつはちょこまかしておって戦い甲斐もない。おまけになんだかんだ言って、あやつの背後にはコーネリアグレースが控えておるからしてだな……まあ……大抵グレンのやつがどつかれておるわけだが……』
「ほ、ほ、ほ。エゴン、それは怠慢ぞ」
「⁉︎ ⁉︎」
面倒臭い……と。乗り気ではない様子のエゴンを嗜めたメイナードは、戸惑うエリノアへ穏やかな視線を移す。
「──さて、ではどうなさいますかな? エリノア様?」
その声は、どこか楽しげだ。
「ぁ──え、ええと…………」
魔物の目でひたりと見つめられ、対応を求められたエリノアの目が、幽霊屋敷ばりに悲鳴の上がるクレンゲル邸を見上げる。
屋敷の中からは、ミズ・クレンゲルが逃げ惑っているらしい物音や、ガラス窓や戸を破ろうとする激しい騒音が響いてくる。どうやらミズ・クレンゲルは相当取り乱しているらしい。
けれども、ジヴと、大切な義理の姉を思うと、彼女にはここを出ないで欲しい。
「ぅ、うーん……」
エリノアの口から困り果てた唸り声が漏れる。
──どうするエリノア。




