ミズ・クレンゲルの誤算 ②
(ルーシー・タガート……)
その姿を思い出すと、ミズ・クレンゲルの眉間に深いしわが刻まれた。
まず何より彼女が自分の年齢の半分近くの歳であることが気に入らない。
“若さ”は、ミズ・クレンゲルが、長い間こだわったものであり、今は少しずつ失いつつあるものだった。
それを備え、同じ男性を射止めんとするルーシー・タガートがとにかく憎らしくてたまらない。
──実際には、ルーシーは、逆にその点を引け目に感じているが……彼女に『お嬢ちゃん』などと言って嘲ってはいても、若い時代には、若さを大いにひけらかしてきたミズ・クレンゲルには、本当のところでその気持ちは理解のできないことだった。
彼女の恋敵ルーシー・タガートは、赤毛が艶やかで、肌は健康的に張りがある。手足はすらりと長く、身は引き締まっていて、それなのに、出るところは出ているといううらやましい体格。
その背筋はいつでも凛と伸びていて、強い眼差しは勇ましく、なびく髪はまるで彼女のたてがみのようだった。ミズ・クレンゲルがいくら嫌味を言っても、その姿勢が変わることがないのもまた小憎らしい。
堂々としていて、決して弱気な様子を見せず、強気に見返してくる目が、とにかく癪に障る。
それはけして、彼女の年齢を小馬鹿にしているふうではない。だが、自分より遥かに年下のくせに、真っ向から、まるでジヴの前では、自分もミズ・クレンゲルも同等であると主張するような目には納得がいかないのだ。
あんな娘が“自分の男”を狙っているなど、なんて自分は運がないのだろうと、ミズ・クレンゲルの艶やかな唇からは、荒々しいため息が溢れる。
そもそもルーシー・タガートの父親は将軍で、さらに母親は商魂逞しくあの家はかなりの金持ちだった。
そんな恵まれた家の娘が、何故よりによって、爵位もなく、歳も離れたジウを狙うのだろう。
ルーシー・タガートの父は侯爵位。その娘ともなれば、他にいくらでも良い婚姻が望めるはずで。いくらでも縁談はあるはずなのだ。(※ミズ・クレンゲルは、ジヴのそばで乙女化したルーシーと会うことがほとんどで、ルーシーの跳ねっ返りぶりをやや甘く見積もっている。実際は彼女の逞しさに気後する男性が多く、ルーシーにはあまり縁談はこない)
片や自分は最初の結婚で夫に逃げられた身。
そのことを思い出した彼女は、己の惨めに感じ、一層苛立ちが募った。
あんな小娘は大嫌いだし、その彼女を家に招いたジヴも憎らしい。
(こんなのは、浮気も同然よ……! そりゃあ私たちはまだしっかり言い交わした仲ではないけれど……申し入れは何度も親類たちからしてもらっているのだから……ジヴだって私の立場に配慮して当然じゃない!)
……“言い交わした仲ではない”どころか、肝心のジヴには何度もやんわりと断られているのだから配慮も何もないのだが……。
彼女は、なまじ男女の仲という理屈で割り切れないものを知っているだけに。親類たちの後ろ盾もあり、年頃も近い自分なら、ジヴを押し切ってしまえばどうとでもなると思っている。
(そう……先手を打ってしまえばこっちのものなのよ……)
ミズ・クレンゲルは、鏡台の中の自分にニッコリと微笑みかけ、軽い足取りで部屋を出た。
ジヴは真面目な性格だ。ゆえに、もしたとえ彼の気持ちがルーシー・タガートに傾いていても、自分と身体を重ねてしまえば。きっと彼は観念して自分を妻に迎え入れるに違いない。
すでにジヴの家の使用人たちには金を握らせて、今夜の彼の晩餐では彼にたくさん酒を飲ませて酩酊させるよう言ってある。おまけに今彼女のハンドバックの中には、親類たちに手に入れてもらった媚薬もあった。
酒に酔っているところに、忍びこみ、グラスにそれを入れるのは簡単なこと。
買収した使用人たちには、自分を屋敷に招き入れたあとは朝まで邪魔をせず、頃合いを見計らって寝室に何食わぬ顔で入ってくるようにと言いつけてあった。
──もちろん、ジヴが自分と深い仲になったことを、言い逃れができないようにするためである。
「ふふふ……」
ミズ・クレンゲルは上機嫌で玄関まで歩いてくると、そこかかっている壁がけの鏡で、また己の姿を入念に確認する。──と、不意にその顔が、何かに気がついて、あらと愉快そうに笑った。
「……そういえば……あの薬が効いてしまったら、ジヴにはこんな私の顔や髪の細部まではわかりっこないのね。せっかく着飾ったのに、残念だこと」
その口調には、少しも悪びれる様子がない。
意中の相手に薬を盛るという行為にも、周りとグルになって騙し打ちをしようという行為にも、彼女の顔にはなんら罪悪感は感じられなかった。
それも彼女の理屈からすると当然のことで。今回ジヴが、自分に無断で屋敷にルーシー・タガートを招いた件は、それだけひどい行いだと思っていた。
この裏切り行為には、自分が悲しみ打ちひしがれ、思い詰めて何をしようとも。彼にも、世間からも、許されて当然という考えで。
──そんな彼女の頭には、彼の元へは己が勝手に押しかけ続けてきたのであって、自身にはなんら権利などあるはずもないという事実など、思い浮かびもしない。
鏡の前ですっかり身支度を確認し終えた彼女は、玄関のドアを見る。あいにくと、たった一人だけこの家にいる女中は、他の仕事でもしているのか姿が見えなかった。
ミズ・クレンゲルは嫌気がさした。前の夫が出て行ってしまってから、残された僅かな財産と、実家からの援助で細々と暮らしている彼女には、複数の女中を雇う金などない。自分には、扉を開けてくれる女中すらいないのかと思うと、こんな暮らしにげんなりした。
(ま、でもそんな生活も、明日には変わっているはずよ)
ジヴと既成事実をつくってしまえばこっちのもの。明日の昼頃には、自分は彼の妻となり、この家よりも何倍も大きな彼の屋敷の女主人の座に正式に収まっているはず。
そう思い直すと気持ちも晴れて。ミズ・クレンゲルは、ニコニコと扉のドアノブを握り、それを回した。──が……。
「……あら……?」
ふとミズ・クレンゲルの顔が曇った。片眉が持ち上がり、気難しそうな表情が滲み出る。
握りしめたドアノブが固かった。
いくら力をこめようとも、それはびくともせず、一向にノブが回らないのだ。
「? どうなっているの? 壊れているの……?」
彼女は顔を不快そうに歪めて舌打ちする。
「モリーったら……ちゃんと家の手入れをしていないのね⁉︎ まったく……あとで叱っておかなければ……!」
そう吐き捨て、キッと廊下を振り返った彼女は、苛立ちのこもった声で怒鳴る。
「モリー! モリー‼︎ ちょっと来て! ドアが開かないのよ! なんとかしてちょうだい!」
いつものように厳しい口調で呼び付ければ、きっと純朴な顔をした女中は転がるようにやってきて、命令を聞くはずだった。
しかし──家の中は何故かシンとしている。女中が駆けつける気配は──ない。
ミズ・クレンゲルの顔が怪訝そうに歪む。
「……? モリー? なんなの……? どこかへ出かけているの……?」
いや、こんな日の暮れた時間にそんなはずはなかった。
彼女の女中はとても臆病だったし、それに彼女は、失敗するとすぐに罰を与える女主人を怖がっていて無断で外出するはずなどない。たとえ屋根裏の自室で眠っていたとしても、絶対に飛び起きてすぐに駆けつけるはずだった。──それなのに。
慌てて階段を降りてくる音どころか、その気配すらも感じないのはどうしたことだろう。
「……なんなの……? あの娘ったら……」
ミズ・クレンゲルは、すっかり不機嫌になって廊下を戻り始める。
もしかしたらどこかで女中が体調でも崩し、一人で倒れているのかも……なんてことも考えもしなかった。
ただ腹が立って。今すぐ不忠でぐずな女中を叱りつけてやりたいと思ったが──そんなことをしていてはジヴの家に着くのが遅くなってしまう。
彼女は憤りながらも仕方なく、女中を呼びつけることを諦め、台所のそばにある使用人用の勝手口まで戻ることにした。
「まったく……表に馬車を待たせているのに……」
ブツブツ言いながら勝手口までやってくると、薄暗い廊下の隅にある扉のドアノブを握る。
「え……?」
そこでミズ・クレンゲルの顔がポカンとした。
「なに……? ど、どういうこと……?」
どうしてなのか、玄関の扉同様、こちらのドアノブも固くピクリとも動かない。不審に思った彼女は、今度は両手でドアノブを掴み、力一杯捻ろうとする。が、やはりドアノブは固く、ほんの少しも動かない。
ミズ・クレンゲルは訳が分からなかった。いくらドアノブが壊れていたとしても、少しも動かないなんてことがあるだろうか。しかも、玄関と、勝手口の両方が。
そうなると、作為的なものを感じて、呼んでも駆けつけてこない女中を怪しく感じた。
「まさか……モリーが……?」
そこで彼女はハッとする。
もしや自分の女中も、自分がジヴの家の者にしたように、誰かに買収されたのか。
今晩の計画も、モリーが誰かに漏らし、それを防ごうとした誰かが自分をこの家に閉じ込める気なのかもしれない。
そう思うと、犯人は一人しかいない気がして、ミズ・クレンゲルの顔が、怒りに赤らむ。
「っさてはルーシー・タガートね⁉︎ モリー! 裏切ったの⁉︎ 許さないわよ!」
怒鳴るが、返ってくる言葉はない。
「っせっかくジヴとあの家の財産を手に入れる機会なのに……! 失敗したら、絶対に許さないわ!」
──と、悔しげに呻いた時だった。不意に、周囲がポッと明るくなった。
「⁉︎」
ミズ・クレンゲルは、ギョッと目を瞠る。
どうやら台所のほうの灯りがついたらしい。今彼女がいる廊下と台所との境には扉はなく、ミズ・クレンゲルが立っている場所からは、その中がよく見渡せる。見ると、台所の作業台の上に置いてあったろうそく立てのろうそくに、小さな灯りが揺れていた。
──だが、おかしなことに、そこには誰の姿もない。
「──え?」
しかし、もしこの家に彼女の他に誰かがいるとすれば、それは女中のモリーしかいない。もしや作業台の向こうに彼女が隠れているのだろうかと思ったミズ・クレンゲルは、台所のほうへ不機嫌な声を放る。
「モリーなの……? 悪ふざけはやめてちょうだい!」
しかし、やはり辺りはシンとしている。作業台の後ろからもモリーが出てくる気配はなく……。ミズ・クレンゲルは、なんだか急に、家の中が不気味に感じられて。薄寒いものを感じた彼女は、慌てて、今度は台所にある窓に飛びつくように駆け寄った。
「!」
しかし、ここも鍵が開かない。留め金がありえないくらいに固く、いくら外そうとしても、指が痛くなるほどに力をこめたが無理だった。
「な……何故なの⁉︎」
狼狽えた彼女は、よろめきながら、他の窓や、庭へ出るガラス戸にも向かった。しかしそのどれもが固く閉ざされ、いくら力をこめても僅かな隙間すら作ることが叶わなかった。
ミズ・クレンゲルは真っ青になって唇を戦慄かせた。
「な、なんなの⁉︎ これはどういうこと⁉︎ モリー! モリー! 助けてちょうだいモリー!」
金切り声で女中を呼ぶが……やはり答える声はない。




