ミズ・クレンゲルの誤算 ①
「……ほう、それでそれがしのところにおいでになったと?」
エリノアの言葉を聞くと、その少年は、ほ、ほ、と、まるで歳をとったフクロウのように、愉快そうに笑った。
丸い顔に、ぱっちりと大きな瞳。顔の作りはまだまだ子供だが、眉目は不思議と大人びている。その上にしだれ落ちる髪は、森の茂みを思わせる緑色。
それがまったく自分や、愛する弟ブラッドリーにそっくりなもので。エリノアは、彼を見ていると、いつもだんだん変な落ち着かない気持ちになってくる。
この少年の世話を、せっせと焼いてしまいたくなるような、ウズウズした気持ちがむくむく湧いてきて──。
しかしそんなことはしてはならないと彼女はグッと堪える。
いつでも彼女の弟ブラッドリーは、姉の弟愛を独占することを切望しており……この自分たち姉弟にそっくりな魔物に、その座を奪われるのではとハラハラしているらしい。
そんな心配は無用と何度も言い含めるのだが……。エリノアのほうも、メイナードのこの姿を見ると、つい頬が緩む。だって、その顔は、愛する弟にそっくりなのだ。しかしそんなエリノアを見ると、ブラッドリーは、彼女がメイナードに特に何もしなくても、大いにひがむ。悲しげな目に、涙を浮かべてむくれられると、エリノアも弱い。
だからエリノアは、この欲求をなんとしても堪えねばならなかった。
今回も、うっかりこの元老将を『かわいい』などと言ってしまわないように、グッと腹に力を込めながら。エリノアは少年に向かって両手を差し出した。その手には抱えられるくらいのカゴが乗せられていて、木のつるで編まれたカゴの中には、みずみずしい果物が山になっていた。
少年メイナードの子供らしからぬ穏やかな眼差しが、いかにもおかしそうにそれを見る。
「メイナードさん! お願いします! どうか! これで一つ、ルーシー姉さんの恋路を応援していただけませんでしょうか⁉︎」
魔物の少年は、必死の形相で献上品を差し出してくる勇者がおかしくてならなかった。
「ほ、ほ、ほ。しかし何故それがしの元へ? 他にも手を貸す者はおりましょう」
エリノアの周りには、ヴォルフガングやグレン、それに聖剣といった面々が常に控えている。雄牛のエゴンは口はうるさいが、武には長けていて、身は幽体と。色々使い道はあるように思えた。だが、それは老成した彼であればこそ采配可能なこと。到底彼のようにはできぬエリノアは、すがるような目で訴えた。
「それは……あの子たちは高い能力がありますよ? でも……考えてみたら、今回の件に関わりのある方達はみんな人間でいらっしゃるわけで……できれば穏便に済ませられる人選をしたいって言いますか……」
初めこそグレンでもいいかと思い頼ってみたが、前回も、何やら領地がどうこう言ってうまいこと話を逸らされた。つまり、グレンは結局エリノアをからかうのには積極的だが、興味のないことにはてんで乗ってこない。
「それにあれ以来、グレンにこの話をしようとすると、あの子サッと逃げちゃうんです……『めんどくさ〜い♪』『僕は後方支援に徹しますから他当たってください〜♡』とか言って……」
黒猫に振られたエリノアは、しょんぼりと肩を落とす。
その顔が、幼くなった自分より子供のように見えて、メイナードはまたおかしくてたまらない。
エリノアは、必死に言った。
「ルーシー姉さんは大事な人なんです! お願いします!」
「なるほど……」
勇者の必死な様子に心打たれたというわけではなかったが、メイナードはふむと頷いた。
実は彼は、エリノアにこっそり呼び出された時点で、魔王のひがみに晒されている。……まあつまり、メイナードがブラッドリーに叱られないようにと配慮したつもりのエリノアは、エゴンというスパイの存在をすっかり忘れていた。
雄牛は当然ブラッドリーに、姉が弟にバレないようにとこっそりこっそりメイナードを呼び出した不審行動を報告し、この件はとっくに魔王も承知済み。
もちろんメイナードはその主君には壮絶に睨まれた。が、ブラッドリーの解釈はこうだった。
『……ま、姉さんに可愛がられるのが僕の役目だからな……。お前はせいぜい姉さんに道具のように使われればいいよ! ふん!』……だ、そうだ。
憎々しげに吐き捨てる言葉は悪辣だったが、顔にははっきりと、『姉さんに頼られやがって!』と、書いてあった。悔しげな顔は、まるで子供。メイナードのほうはといえば、そんな主君の様子も含めて、トワイン姉弟が面白くて仕方ない。
まあ、それは置いておくとしても。つまり、このエリノアの頼み事は魔王のおすみつき。
おまけにメイナードにすれば、この事態は彼にとっては格好の気晴らしでもあった。
最近、姉と離れて暮らす魔王はたいそう機嫌が悪い。気晴らしのように、姉に隠れ、しかし姉を悲しませない程度、という範囲内で腹黒い領地経営を開始しており……。これは本性が木霊であり、気性が穏やかで残虐性を持ち合わせないメイナードにとってはあまり面白みのあることではない。
ゆえにエリノアには幸いなことに、メイナードは、ありがたくこの愉快そうな勇者の企み事に乗り気になった。
正直彼はルーシーという人間の娘の恋路には何も興味はないが、そのことで右往左往するエリノアに付き合うのは、きっと楽しいだろうと思った。
メイナードはにっこりと微笑む。
「それで……エリノア様は、それがしに何をせよと?」
彼女が一生懸命差し出すカゴの中から、りんごを一つ手に取って穏やかに問うと、その顔がパッと嬉しそうな顔をする。
「はい! ここは穏便に、確実性を狙っていきたいと思っています! あ──りんご剥きましょうか⁉︎」
「いえいえ結構。ほほ……穏便に、確実にですか(ほほほ、これは愉快なことになりそうじゃ)」
そうしてエリノアが意気込んだ、同日の夕刻。
さて、こちらは件のミズ・クレンゲル宅。
華やかなしつらえの寝室。窓際に置かれた鏡台の前に、その気合の入った婦人はいた。
すでに日は傾いているというのに、まるでこれから出かけようとするような支度をして、彼女は鏡の中を覗き込んでいる。
後ろで束ねた髪をひと撫でして、肩にかかった巻毛の具合に満足そうに微笑む。
若々しさはないが、相応の美しさを兼ね備え、さらに年月をかけて磨き込んできたことがよくわかる婦人であった。その自信は、表情にも不適に現れている。
不意に彼女は、パッとかぐわしい香りのする香水を己の上に振り撒き、その霧に身を潜らせた。
そしてまた満足げに、まるでそこに目当ての男でもいるかのように、怪しく目を細める。
「──完璧」
鏡の中の外出用の帽子を被った自分は、十分魅力的に思えた。これならばとミズ・クレンゲル。
きっと、あの若く生意気な娘にも引けを取らないし、目当ての紳士から視線を奪うには十分だろう。外出着の下には、美しくも丁寧な細工の下着をしっかり着込んである。
それを思い出し、ミズ・クレンゲルは妖艶に微笑む。
明日は、あの娘が、ジウの家に招かれた日。
彼女は美しく紅を引いた唇でふっと笑う。
「……思うようにはさせないわよ、タガート家のお嬢ちゃん」
わざとらしく子供のように呼ぶつぶやきは、明らかに彼女に敵意があり、軽んじてもいる。その綺麗な形の鼻がフンと鳴る。
(あんな小娘に、私の夫となる男を奪われてなるものですか)
何を隠そうこの方、もうすっかりジヴが自分のものと決め込んでいるのである。
はじめはお節介な親類たちにせっつかれたことにはじまるが、数年前それまではほとんど顔を合わせることのなかったジヴと対面した彼女は、彼の紳士的な態度でもてなされ、すっかりその気になった。
彼は別れた夫とは比べ物にならないくらい彼女に優しかった。
ただ、ジヴにとってそれは単に、昔多少世話になった叔母が、突然家に連れてきた女性に対して礼儀にかなうよう接しただけであった。だから彼は、先方らが胸の内にそのような考えを持っているなどとは、微塵も思いもしなかった。
それなのに、叔母は『一人では寂しいでしょう』『早くいい人を見つけなければ』などと言って、しきりにミズ・クレンゲルを見ていた。
だがそうは言われても。ジヴはその頃、仕事や新しい研究のことで忙しく、寂しさなどを感じる余裕などなかった。急かすような叔母の話にも、少しもピンとこなかった。
そもそも彼は、貴族だが、財産を受け継ぐ見込みのない身だったので、若い頃からほとんど貴族の女性たちからは相手にされなかった。ゆえに、あまり結婚をするという頭を持っておらず、しかもその頭の余白は仕事がしっかり埋めてしまっていた。
だからミズ・クレンゲルのことも、単なる遠縁の女性としか思わなかったし、その後の親類たちが勧める彼女のと婚姻も、はっきり言えば気乗りがしなかった。
けれども、ミズ・クレンゲルはといえば。紳士的な振る舞いながら、つれないジヴにすっかり参ってしまって。どうあっても彼を射止めたいと思うようになってしまう。
だからせっせと彼の元に通い詰めたし、外堀を埋めるようなこともしてきた。
ジヴの実家を継いだ兄らにも、彼を説得してくれるよう手紙を何通も出し。彼の家の使用人たちには、彼に隠れて、いずれは自分が女主人になるのだと散々言い含めてきた。
それでもジヴはなかなか折れてはくれなかったが……。彼女のほうでは、そんな生活が一、二年も経つと、こんなに尽くしたのだから彼は当然自分のものだと考えるようになる。
この頃には、老いの力を見事に魅力に変えたジヴの落ち着いた身姿に、引き寄せられる女たちもあったが……。ミズ・クレンゲルの、親類たちを味方につけた周到なやり口には、すごすごと引き下がる者がほとんど。
これならば、ジヴがどんなに頑固でも、いずれは彼も折れるに違いないと彼女は目論んでいたのだが……。
そんな順調に思えたジヴの妻の座への道筋に、突然思いがけず若い娘が飛び込んできた。
それが、名高き将軍家の、勇ましきツンデレファザコン嬢。
──我らがルーシー・タガート姉君だったわけである。
お読みいただきありがとうございます。
やっとエリノアが正しい人物に助けを求めたような気が……笑
夏休みの家族に執筆用に使っていたエアコン付きの部屋を取られてしまい……(泣)朝でも茹だるほど暑いですね!笑
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