満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。では、満足しない豚と満足した愚者ならばどちらの方がよいだろうか。 その⑦
『攻撃が止んだから接近戦に持ち込む。気を付けて!』
頭に響くイマジナリーチエの声を聴いて、アレン・ノブレス・ヴィンセント──貴族の生まれである僕はそれに従う。
人の命令に従うことが大のキライだったが、大好きなチエの言いなりになるのはウェルカムだ。
僕はイマジナリーチエの返事をせずに小さく頷いて、接近してくる本物のチエから逃げるように移動する。
僕が弓で相手が剣なら、圧倒的に近接戦闘が不利だ。
『神速』は弓矢を使用した近接戦闘の方法を持っているけれど、それを僕には合わないということで教えてくれなかった。僕も遠距離特化の戦い方が得意だと自負しているので、教えてもらう必要はないのだけれど援護してくれる仲間が誰もいないと、逃げ惑いつつの攻撃しかできない。
『安心して。私がついてる』
僕の不安を感じ取ったのか、イマジナリーチエは僕の視界の横で応援してるよ──などと言わんばかりに、両手の拳を握りしめている。その姿が可愛い。
『私なら隙さえあればすぐに詰める。それが攻撃のチャンスだから』
「ならば」
イマジナリーチエのアドバイスを基に、僕はチエを倒す準備を押し進める。まぁ、それほどの準備も必要ないのだが。
「──」
チエの方へと強く弓を引き、いつでも発射できる状態を作るが、まだ放たない。
それを待っていましたと言わんばかりに、チエは僕の弓の突き進む方向から外れるようにしつつ走ってくるけれども、そんなことをする意味はない。何故なら、チエにはまだ見せていない技があるからだ。
「──〈蛇行弓〉」
その言葉と同時に、一直線に矢が放たれ──
「──ッ!」
──ない。
矢は、まるで命を宿したかのように空中で歪んだようにくねった動きでチエを追尾するように進んでいく。
特殊能力で動いているわけではなく、これもれっきとした弓の構え方や放ち方が関連している。
カーブをかけるとボールが変な軌道を描いたりする──というのと同じようなものだ。
『これなら私は対処できない!』
イマジナリーチエがどこか嬉しそうにそんなこと口にするのと同時、本物のチエの肩に突き刺さるのは一本の弓。苦悶の表情を浮かべながらも、チエはその小さな体躯を突き動かして僕の方に迫ってくる。
「──〈星月夜〉〈星月夜〉〈星月夜〉」
僕が放つのは〈星月夜〉の三連発。容赦というものを知らない僕の辞書は、思うがままにチエに向けて弓を放つ。
〈星月夜〉は、時空の歪みを通って相手の下に矢が届く攻撃だ。2本は、チエの前方に迫り、後方はチエの後方から迫る。
三方向から迫る矢は、2本は防げども最後の1本は防げまい。
僕の想定通り、チエはその剣を大きく振るい前方から迫る2つの矢を弾くけれども、後方の矢には全く気付いていないようだった。僕の矢は頭蓋をも打ち破る。チエの頭にその矢が刺さり──
「──ッ!?」
『嘘ッ!』
僕はその衝撃に喉を鳴らし、イマジナリーチエは自分のことなのに信じられないと言わんばかりに驚く。
チエが、突発的にしゃがんだのだ。後方から矢が迫っていることは気付いていないようだったのに、チエはその場にガバリと着ている服を翻しながらその場に屈んだ。
その上を超スピードで矢が通り過ぎ、それは部屋の壁に突き刺さる。
「──なんで避けれるんだ」
『わかんない。どうしてだろう……』
どうやら、イマジナリーチエもわからないらしい。火事場の馬鹿力みたいなものだろうか。
納得はいかないけれど僕は、迫ってくるチエの対処をしなければならないのでその弓を引いて次なる矢を放つ準備をする。
「──〈橙菖蒲〉!」
僕のそんな声と同時に、今度は時空の歪みを通らずに3本の矢がチエの方へと迫っていく。
先程後方から飛んできたのもあり、後方に少しは注意を向けるだろう──という算段だ。それなのに──
「よいしょ!」
僕の攻撃を全て見透かしたように、後方のことは一切気にせずに3本の弓を回避してそのまま僕の歩へ迫ってくる。
「そんな!」
『焦らないで大丈夫!私がついてるから!』
ことごとく作戦が失敗する僕を落ち着かせようと、イマジナリーチエはそんな言葉を投げかけてくる。
僕はその優しいくちどけの言葉に必死に耳を傾けて、彼女の指示を仰ぐ。
『私だったら、〈絶断〉で攻撃して一気に勝負を付ける!だから横の斬撃に注意して!』
そのアドバイスに返事どころか頷くことさえせず、僕はチエが放つであろう〈絶断〉に備える。
放たれるのが横の斬撃なら、攻撃前に弓に矢を当てて止めてしまえばいい。そうして生まれる隙で、チエにカウンターを入れることはこの僕になら可能だ。だって僕は、『神速』の一番弟子だ。
「──行くわよっ!」
そう口にして僕に近付き、〈絶断〉を食らわせようとしてくるチエ。だったはずなのに──
「──〈表裏一閃〉!」
「──ッ!」
横──ではなく縦の斬撃が僕の体を襲い、頭の先から一刀両断される。
僕は、弓を投げ出すようにして後方に倒れて、体の中心から血が抜け出て行く感覚を覚える。
「やった!栄、勝ったよ!」
そう口にして何もない方向を見て喜んでいるチエの姿を床にへばりつきながら見た僕は、その時初めてチエの頭の中にも僕と同じようにイマジナリーの存在がいたことに気が付いた。
『──ごめん、アレン!私のせいで、私が間違っちゃったこと言ったせいで!』
謝らないでくれよ。
そう口にすることはできない。もう口と喉が斬られているから。
泣きそうな顔をしてイマジナリーチエは僕に抱き着く。
──間違いなくチエは僕の天使だ。
あなたの未来が見たかった。