満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。では、満足しない豚と満足した愚者ならばどちらの方がよいだろうか。 その④
満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。
──これは、19世紀のイギリスの哲学者であるジョン・スチュアート・ミルが己の質的な功利主義を主張する際に使用した言葉だ。
質の低い幸せで満足するよりも、不満足であってもいいから質の高い幸せを求めるべきだ──とミルはこの例を通して述べている。
量的な幸せではなく、質的な幸せを説く彼ではあるが、彼の言葉には一つの疑問が残る。
その疑問が愚問であることは百も承知であり、論外だけに論点がズレていることは重々理解している。したうえで、疑問を投げかけたい。
満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。
──では、満足しない豚と満足した愚者ならばどちらの方がよいだろうか。
***
「待てよ」
──『閃光』と『焦恋魔』の間で行われた「勝負」は、2人の間で決められた規則に則り、『焦恋魔』の勝利となった。
その勝利は、誰の目で見ても明らかであり、どれだけ『閃光』を応援していた人でも潔く負けを認められるほどの快勝。智恵の勝利が納得できない人間は、「満足しない豚」と罵ってもいいほどだ。
──そんな満足しない豚である『閃光』は、智恵のことを呼び留める。
「──何?」
「まだだ」
「もう勝負は終わった。ちゃんと傷口から血は流れてる!それともそれは血じゃないって言うの?」
『閃光』が、勝負に負けたときに駄々をこねるのはいつもだ。麒麟を討伐した時だって、『閃光』はウダウダと自分の都合のいい暴論を並べていた。それが正論だとは到底思えないのに、それを聞いていると従わないといけないのではないか──と言う威圧感を感じる。
智恵は、『閃光』の暴論に耳を傾けている暇はない。彼女は、愛しの栄を助けに行かなければならないからだ。
今だって、どこかの檻の中に入れられて助けを待っているだろう。もしかしたら、脅されて縛り付けられているかもしれない。栄を助けないと。
「──私はもう行くから」
そう口にして、『閃光』の言葉を無視して部屋の外に飛び出そうとする智恵。少し重い扉に手をかけて、力強く開けて、決別を象徴するように強く扉を閉めようとするが──
「死んでやる」
「──は」
泣きそうな声で『閃光』がそんなことを言うから、ドアノブに伸びていた後ろ手の動きが止まる。
智恵は、その悲痛な声をあげる『閃光』の方を振り向いてしまった。
──智恵は、どれだけ人から侮辱され尊厳を踏み躙られても誰かに期待してしまう愚者だ。
池本栄という恋人がいるからこのデスゲームでも上手くやっていけているし、何とか満たされている「満足した愚者」と呼ぶべき存在である。
そんな彼女の底なしの優しさは、失望しか産むことがないことをわかっているのに、「死んでやる」と口にする『閃光』に手を差し伸べようとしてしまう。
智恵は、『閃光』の目を見る。初対面の時にあったカッコよさからは程遠い、滲み淀んだ瞳が智恵の方を捉えて小さく揺れ動いていた。
「──チエが僕のものになってくれないって言うのなら死んでやる。君がさっき投げたこの矢で、心臓を貫いて死んでやる。これは自殺じゃない。れっきとした殺人だ。チエが、僕が死ぬように仕向けた殺人事件だ。チエは犯罪者だ、殺人犯だ!──そうだ、僕という呪いをかけよう。チエの頭の中に僕の存在が一生残るように、チエに呪いをかけよう。そうだな……じゃあキスにしよう。君はこれからの人生で自分がキスをしたり、誰かがキスをしているところを見るたびに、キスという単語を聴くたびに僕の死を思い出す。サカエとキスをするたびに、僕のことが頭の中によぎる。僕を殺したことがチエの頭の中に蘇る。固まってないで別に逃げてもいいんだよ?僕がこの矢で心臓を貫いたことはすぐに知れ渡るだろうし、君の耳にも遅かれ早かれ入ることになるだろうからね。いいか?キスだ。何か嬉しいことがあるたびに、悲しいことがあるたびに、その祝いや慰めとしてキスをする。その度に、チエはチエのことをこんなに想っている僕を殺したことを思い出すことになるんだ。可哀想に、同情するよ」
マシンガンのように言葉が飛び出て、智恵が反論をする隙を一切与えずに伝えたいことを暴力に伝えてきた『閃光』。その言葉は、智恵を呪うには簡単な言葉だった。
別れるときには大嫌い──どころか恐怖までを覚えていた元カレが逮捕される時の言葉を引きずり続けてきた智恵にとって、『閃光』の発言は智恵の首を絞めてくる。
第一、智恵は栄の──そして、『閃光』の命を守るために勝負に挑んだのだ。それなのに、『閃光』が自殺すると言うようじゃ、智恵が果敢に戦った意味はなくなる。
「僕に死んでほしくないのなら、僕と結婚してよ。ね?」
そう付け加えて、『閃光』は同情を誘うような笑みを浮かべる。智恵は唾を飲み込み、閉じかけていた扉を開き、中に戻る。
『閃光』と結婚するか、『閃光』を見殺しにするか──。
智恵にとっては二者択一ですらない強欲な彼に対して、智恵の根底にある想いが共振する。そして──
『七つの大罪 第伍冠 強欲者』
智恵の「七つの大罪を全て宿していて、それが多すぎるがあまり干渉して他人にも覚醒及び暴走させてしまう」体質を覚えている人はいるのだろうか……