6月24日 その⑥
視界の喪失。
それは、人間の行動を制限するには大きすぎる要因。人間の行動を制限させるには、充分すぎる要因。
何も見えない───ということは、相手が誰であれ行動を停止または抑制させることを可能にする方法なのだ。
それは、最強である皇斗であろうと何にも囚われない愛香であろうとも同じことだ。
ましてや、一般人に毛が生えたような実力しか持たない栄にとっては動けるはずもなく。
栄は、ナイフにより横一文字に目に切り傷を付けられ、その場で藻掻いているだけで裕翔に抵抗することもできずにいた。
そんな状態の栄に、ストーリーテラーとしての役割を任せておけるはずがない。
ストーリテラーというのは従来、五感───視覚・触覚・聴覚・嗅覚・味覚に加えてその多彩な感情を駆使しなければならない。
視覚が塞がれて、触覚が痛みに支配されている今、他の語感を全て投げ出して見えないことへの恐怖心と痛みに集中してしまっている今、栄にストーリーテラーとしての役割は似合わない。
もう、栄は捨ててしまおう。
栄ほどの器がストーリーテラーとして機能しなくなったのであれば、利用する価値はない。
主人公失格だ。この物語において存在している価値はない。
ブスリ
そんな体にナイフが深く深く突き刺さる音。体を蝕み、触覚がこれまでに感じたことがないほどに刺激される。
死。
感じただろうか、自らが死亡する可能性というものを。その体躯に突き立てられたナイフに込められていた明確な殺意に呼応するように、どれだけの死の恐怖を感じただろか。
刺されたのは───
「───稜ッ!お前!なんでここにッ!」
裕翔が目の前の事象を視認したことにより吐き出す驚き。
栄に覆いかぶさるように、栄を庇うように、裕翔と栄の間にその体を挟み込み、栄の心臓がナイフによって貫かれるのをその自己犠牲精神で助けたのは稜だった。稜の背中には深くナイフが突き刺さっているが、見るに見事に稜の急所は外れている。深く刺さっているから、大怪我であることは間違いないであろうが、これが致命傷になることも絶命に値することも無さそうだ。
「───ッッッッ!いってぇぇ...」
絶叫にすらならない、息を吸いたくても吸えず、吐きたくても吐けないような状況で、静かにそう口にするのは栄の親友である稜であった。
「栄、お前!1人で来いって言っただろ!」
裕翔は、稜の背中にナイフを突き刺したまま栄をそう糾弾する。その声は、拾い体育館の中で何度か反響しながら稜の耳に届くのだった。
「栄は約束を守ったさ...俺達が───ッ!付いてきたんだ」
稜は、耐えかねる痛みを耐えながら苦悶に満ちた表情で、だが、友を守れたことによる喜びもあるのか、どこか誇らしげな表情でそう口にする。
「俺達───?」
「あぁ、俺達───だ。純介も、来てる。今頃、智恵と紬を解放してるだろうよ...」
「───貴様らッ!」
裕翔はそう口にして、悔しそうな表情を浮かべる。実際、悔しいのだろう。栄の目の前で智恵を凌辱し、絶望の淵に叩き込んでやろうとしていたのにも関わらず、脅迫を成功させる確率をあげるためだけの道具として捕まえていた紬に反逆されて、そのまま2人に逃げられるという行動を為され、ついに憎き栄を殺せるなどと思ったら、その親友に邪魔をされて。
自分の友人は、友人だと思っている人物は、全く助けに来る素振りすら見せないというのに、こうして栄にばかり仲間が寄って集っているのを見せつけられて、悔しいのだろう。
「あー、クソがッ!そうやって貴様らは、主人公を気取りやがって!」
「───ッ!」
裕翔は、稜の背中にナイフが刺さったままで、稜のことを片手で持ち上げてそのまま殴る。
稜は、そのまま地面と平行に吹っ飛んでいき、重力に従って地面に落下する。その時、背中で着地してしまったようで、更に深くナイフが体に突き刺さったようで、すぐに背中を上に向けるよううつ伏せになり、その場で藻掻いていた。
───そんな一悶着が終わり、再度裕翔の視線が栄に向こうとした時。
裕翔の下唇辺りを強く強打するのは、視界を潰された少年───栄の拳であった。
「靫葛は俺のことを主人公だ───とか、囃し立てるが俺は自分のことを主人公だなんか思ったことは一度もねぇよ。お前の助けが誰も来ないのは、お前が誰かを助けようとしてないからだッ!」
「───何をッ!」
裕翔は、栄をナイフで串刺しにしようと思ったものの、すぐに手元にナイフが無いことに気付く。
ナイフは現在、稜の背中に刺さったままなのだからナイフが無いのは当然だ。裕翔は、握り拳で栄の顔面を強打することしかできない。
───が、武器はなくても相手は目が見えない。
盲目の老人剣士───というわけでもなければ、圧倒的戦闘センスがあるわけでもない。
目を塞がれてしまった一般人は、ただの木偶の坊。サンドバッグ。
裕翔は、ナイフが無くても栄に圧勝できてしまうのだ。
「目が見えないんじゃ、お前は攻撃を避けることはできなねぇんだよ、雑魚がッ!」
裕翔が、そう口にして栄の腹部を蹴り、ノックバックさせた後、右の拳で全身全霊のストレートを放とうとしたその時。
「右に避けてッ!」
そんな声が、体育館に響く。栄は、素直にその言葉に従い、右に避けることで攻撃を回避する。
「───ッ!」
目の見えない栄に対し、そう指示を行ったのは1人の弱そうな人物───裕翔が、栄を体育館へ足を運ばせるための伝令役としての役目を与えた、人質の価値にもならないと考えた人物───純介であった。