6月9日 その⑫
「どうして...ここまでこれた?まさか、走ってきたのか?」
俺は、その湖の水面に顔だけを出して裕翔との対話を試みる。幸い、波はほとんど無かったので俺は水上へ顔を出して留まることができた。
「おいおい、まさかあの距離を走るだぁ?そんな訳ないだろ」
「じゃあどうやって!」
「お前と同じだ」
「俺と同じ?」
俺は、裕翔のその言い方でなんとなく理解した。裕翔は、誰かから自転車を奪ってここまで来ていたのだ。
裕翔ならば、他人の自転車を略奪するような行為をなんとも思うことはないだろう。
裕翔は、女子供に対して兵器で暴力を振るうようなやつだ。人から自転車を奪うのも平気なのだ。
「誰から...奪ったんだ?」
「紬からだ」
「───お前ッ!」
「おいおい、お前。オレのことを罵る気か?お前だってオレから自転車を奪ったんだ。文句を言える立場じゃねぇよな?」
「俺とは全然違うだろ!お前は、何もしてない紬から自転車を奪ったんだ!理不尽に脈絡もなく、ただそこにいたからと言う理由で紬から自転車を奪ったんだ!」
「お前がオレの自転車を乗ってったのとなんら変わりはねぇ。いかなる過程があったとしても、結果は変わってねぇんだからよ」
「大違いだ...大違いだ!」
「いいや、違う!どんな経緯があったとしても人殺しは人殺しなように、お前がオレから自転車を奪い取った事実と、オレが紬から自転車を奪い取った事実は変わらねぇ!」
「そんなに...そんなに結果が大切かよ...」
「あぁ、大切だ」
嘘だ。裕翔は、今俺を責め立てるためにそう言っているに過ぎない。裕翔の行動理念は───厳密に言うと、俺に対する行動理念は「栄の嫌がることをする」というものを第一に掲げている節があるだろう。
俺達は、この学校が始まった最初期から対立しているのだ。
どれだけ関わっても解り合うことはないだろうし、死ぬまで犬猿の仲であることは変わらない。
俺だって、裕翔とは解り合おうとは思わないし仲間にしようとは思わなかった。
だって、コイツは俺以外の皆を平気で馬鹿にして殴るような人間だ。俺とは価値観が合わない。
朱に交われば赤くなるというが、コイツは黒だ。何を足せども真っ黒だ。
「そんなに俺に負けたいならお望み通り負かせてやるよ。任せな」
「おいおい、オレとの戦績を忘れたのか?お前はこれまで、タイマンでオレに勝ったことなんか一度もねぇんだよ!」
事実。
実際、俺は裕翔に完全にタイマンな状態から勝利したことはなかった。
と言っても、裕翔と2人で殴り合いらしい殴り合いをしたのは4月6日の事件で最初で最後のはずだった。
ならば、これで2度目。
前回は、俺が敗北しかけたものの稜や皇斗が助けに入ったことで救われた。
今回も、誰かが乱入してくる可能性は全然あるけれども、皇斗や愛香・鈴華と言ったチートに近い仲間はもうゴールしているので助けに来て戦況が変わる確率は小さいだろう。
だがまぁ、水中という特殊エリアでの喧嘩であれば測りきれないところはありそうだった。
───などと思っていると、裕翔が俺に接近していたので俺は大きく空気を吸い込み後ろに下がる。
「───ッ!」
俺が、水中に潜ると腹部にダメージがやって来て、早速折角肺に溜めた空気を吐き出してしまう。
見た感じ裕翔も口の中に空気を含んでいるようだし、水中の中にいて分が悪いのは圧倒的に俺だった。
このまま水中にいても溺死する可能性が大きいし、一度水上に出て空気を吸い込むか───などと思っているが、目の前にいる裕翔はそれを赦してくれないだろう。
ほとんど肺の中の空気は空になってしまったが、今は我慢だ。俺は、俺の腹に食い込んだ裕翔の右腕を掴みそのまま水中で足を上げて裕翔の顎に蹴りを入れる。
水中だから、威力はかなり殺されているだろう。だが、確かに裕翔の口からボコリと大きな泡が漏れ出た。
よし、これで肺の空気を抜くことが───。
などと思った次の瞬間。俺に組み付いてきたのは裕翔であった。そして、俺は抵抗できないまま裕翔と共に沈んでいく。
───コイツ、自分もろとも沈んでいくつもりか。
このまま沈んでいくと、裕翔より先に口から空気が漏れ出た俺の方がダウンするだろう。でも、ほとんど数秒の差だから裕翔だって上昇できずにダウンするはずだ。
何を企んんんんッ!
俺は、腕を襲うその痛みに暴れてしまう。口から、出ないはずの空気の泡を更に吐き出して、口の中に水が入っていく感覚を感じながら、その痛みに対して抵抗する。
───そう、裕翔は俺の四肢の骨を水中で折ろうとしていたのだ。
骨を折ってしまえば、俺は浮上できない。だから、それを狙っているのだ。確実に殺しに来ている。
そこには、優しさというものを感じられた。
死んでたまるか───と、溺れかけている俺はどうにか体を藻掻き裕翔の拘束から外れる。幸い、水中であったから拘束から抜け出すことができた。
これで浮上すれば───
などと思うが、もう遅かったようだった。俺の体の中に酸素はなく、代わりに水が入り込んでいた。
そのまま俺は意識を落として、その思い瞼を閉じていく───。
「おい、栄。どうしてお前は死にかけているのだ?」
どうしてだろうか。俺は死にかけている走馬灯に、智恵ではなく愛香のことを見てしまっているようだった。
愛香は、ただの友達なのに。俺の恋人は智恵なのに───
「栄、妾を無視するな!」
そして、俺の腹部にダメージが入り、俺の口からは多量の水が漏れ出る。
「───うごっ、ごはっ」
俺が目を開ける。そこはもう、水中ではなかった。横たわる俺の目の前に映るのは、スラリと細く白い誰かの足。
「試験一日目、終了です!」
マスコット大先生のその声を聴いて、初めて俺は試験会場から───要するに、水中からここに転移されたことに気が付いたのだった。