6月6日 その③
全ての生物は、皆一様に本能と言うものを持っている。
それは、必要最低限の原初的な生存能力であり、生物が「死」を恐怖する最大の要因であった。
生きていきたいと思うのであれば、基本的にはこの本能に従って行動するのが最善だろう。
───いや、日常的に「死にたい」と言っている人でも被災した場合は、死ぬ気でその場から逃げるように「生きていきたい」と思わずとも時に強迫観念のように従ってしまうものが本能であり、基本的にはそれに従うしかないのだろう。
その必要最低限の生存能力が、理性を置き去りにして「逃げろ」と言っている。目の前にいる怪物───こっくりさんと呼ばれている生物は、見ただけで狂ってしまいそうなそれほどまでに危険な生物であった。
「───無理...無理無理無理」
俺は、そう口にする。意識的に出ている声ではない。無意識の内に、心が挫折して目の前の怪物と戦うことを既に諦めていた。
───戦えば死ぬ。
本能で、そう理解した。肉体が「死」を遠ざけるために警鐘を鳴らしている。
「何が───」
歌穂も、こっくりさんを目撃してしまう。彼女の顔色は一気に、蒼白くなる。そして───
「キャアアアアアアアアア!!!!!」
教室中に響く、歌穂のけたたましい悲鳴。歌穂は、両手で顔を覆うようにしてその場に座り込んだ。戦意喪失。
俺はその場から動けないほどビビっていたし、歌穂は座り込んで戦意喪失している。残っているのは唯一人、現在のデスゲーム参加者一の女傑───森愛香だけだ。
愛香は、真っ先にこっくりさんを発見して知覚した。彼女の戦意は───
「気持ちの悪い虫ケラめ。妾が相手をしてやろう」
「───は」
巨大なテントウムシのようなドーム状の体を持ち、その背中には人間の腕と見ただけで呪われそうな人間ににた顔で埋め尽くされているこっくりさんに対し、正々堂々と愛香はそう宣言したのだ。
こっくりさんの正面の顔にある、横一列の6つの瞼の無い瞳の1つが、ギョロリと愛香の方へ───こちらへ向いて、その下にある巨大な口の中で、4本の鮮やかな桃色の触手のようものを動かす。
「嫌だ...嫌、嫌、嫌...」
そう口にしているのは、座り込んで涙ぐんでいる歌穂であった。彼女もまた、無意識的に戦意喪失してそんなことを口に出していたのだろう。
「歌穂を連れて下がっていろ、栄。ビビっている輩が役に立つ訳無いだろう」
「───いいのか?」
「───」
俺の口から出てくるのは戦わなくていいことを安堵する声であった。智恵を助けるために戦いに来たと言うのに、異形であるこっくりさんを前に本能が戦うことを拒絶してしまったのだった。
「歌穂、逃げるぞ」
俺は、涙を流している歌穂の両脇を持って、そのままズルズルとA棟の3階の階段の方へ移動した。
ここならば、こっくりさんを見ることをせずにこっくりさんとの戦いを見ることができる。竜頭蛇尾で申し訳ないけれど、もう俺は完全に戦意喪失してしまった。
七不思議其の弐『トイレのこっくりさん』の参加者に、こっくりさんの姿が見えてなくて本当によかった。
もし、これで姿が見えていたならば校舎の中に広がっていたのは阿鼻叫喚だろう。
学校にこんな怪物がいるかと思うと、もう校舎の中には入ってこれなくなってしまうかもしれなかった。
もしも俺がこっくりさんの姿が見える状態で行われた七不思議其の弐『トイレのこっくりさん』に参加していたら、少なくとも校舎の中を散策するという行為は怖くてできないだろう。
───と、こっくりさんの恐怖を少しでも和らげようと色々な想像をしていたら、廊下の方で戦いが始まったのであろう音が聴こえてきた。
ここは、愛香に任せよう。愛香ならば信頼できる。
俺は願った。何事もなく、愛香がこっくりさんに勝利してくれることを───。
***
栄は近くにいるけれども、見ることを放棄してしまったために一人称視点から数メートル先で繰り広げられている戦いを、三人称視点で伝えなければならない。
全く、腑抜けな主人公で「ふ」必要だけど、愛香とこっくりさんの戦いは音だけでなく五感で感じて戦慄していただきたいので(これは文字なので視覚情報だけだが)、三人称視点で描くことが必要不可欠なのだった。
我らが主人公である栄と、今回の仲間の一人である歌穂を階段の方へ押し寄せて、A棟3階の廊下というフィールドを極限まで広く自由に使えるような状態にした愛香は、こっくりさんと勝負を始める。
戦闘することがわかっていた愛香は、自分の寮から出刃包丁を持ってきており、今回は殴る蹴る───と言った原初的な戦いではなく、武器を使用したものとなるのだった。
ちなみに、武器を持ってくると言った用意周到な行動をしているのは愛香だけである。栄は抜糸した後に眠り、歌穂は自分の生身でも勝てると自分の強さを錯覚していた為に、武器を持ってきていない。
「───行くぞ」
愛香が、そう口にする。こっくりさんが、その言葉の意味を理解しているかどうかは、我々人間という陳腐な存在からは理解できない。
───が、こっくりさんは確かに愛香の殺気を読み取って、反撃を行うために、その口の中に4本ある鮮やかな桃色をした触手を、愛香の方へ伸ばしたのだった。
栄達が弱いんじゃなくて、愛香が強すぎる。
ちなみに、こっくりさんの姿を見て戦闘を続行することができる(戦力があるかは問わない)のは、第5回デスゲーム参加者だと愛香を除くと、森宮皇斗・田口真紀の2人だけです。