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短編

そんなつもりはなかった? ではどういうつもりだったのですか

作者: 猫宮蒼



 子爵家令嬢アルマと男爵家令息ダニエルは、未だに政略結婚が主流の貴族社会の中では珍しく恋愛結婚であった。お互いそこまで大きな財産を持つでもなく、仕事もそこそこではあるがそれでも数名の使用人と共に新居として譲られた小さな屋敷で過ごす分には何も問題がない。


 アルマもダニエルも別段そこまで浪費家というわけでもないので日々の暮らしにお互い不満などあるはずもなかった――と言えれば良かったのだが。


 アルマはこの結婚失敗だったかしら……と最近思う事が増えてきた。


 別に、夫が冷たいだとか、夫の両親――つまりはアルマにとって義理の親がアルマをいびってくるだとか、そういう事はない。

 恋人時代からダニエルの態度が豹変したとかそういうわけでもない。情熱的に愛を囁いてくるなんてことはなかったけれど、アルマはそれを不満に思う事などなかった。

 燃えるような情熱的な愛はなかったけれど、それでも共にいて穏やかに過ごせる相手で、居心地が良かった。

 だがしかし、ではその居心地が悪くなれば当然アルマに不満が出るのも当然という話である。


 原因はダニエルの幼馴染と名乗る女であった。


 幼い頃に家が近所でよく遊んでいた、という話はアルマもダニエルの口からきいている。

 けれども、この辺りの貴族たちは一定の年齢になると王都にある貴族の寄宿学校へ通う事が定められている。アルマとダニエルは同年齢のため三年間寄宿学校で顔を合わせる機会があったが、その三年の間アルマはダニエルの幼馴染だという女を見た事は一度もなかった。


 年が三つ以上離れていればわからないでもない。


 幼馴染だというカーラ男爵令嬢が、アルマたちが入学する前に卒業していれば寄宿学校で顔を合わせる事がなかったとしてもわからないでもないからだ。

 三つ以上下、とも思えなかった。

 そもそもそうであるなら今頃は寄宿学校にいても不思議ではないし、そうでなくとも事前準備などで忙しいはずなのだ。こうして学校を卒業したばかりの二人が結婚して、その新婚生活に割り込んでくる余裕があるはずもない。


 ダニエルに聞けば、カーラはダニエルたちと同い年だという。

 では、寄宿学校にいなかったのは一体……? と思えばその疑問はあっさりと解決された。


 どうやらカーラの親の仕事の都合もあって隣国に移っていたのだとか。寄宿学校は隣国で通っていたのだろう。隣国にも似たようなものがあるとアルマは伝え聞いている。

 同年代、と聞いてちょっと「うわ……」とアルマは内心で思ったけれど、ともあれ顔をみなかった理由はわかった。


 そして少し前にカーラは両親の仕事が一段落して再びこの国に帰ってきたのだとか。


 家は二人が暮らしている屋敷にほど近く、だからこそカーラは頻繁にダニエルに会いに通っていた。



 カーラは少し小柄で、見る人が見れば「俺が守ってやらなきゃ……!」とかいう使命感を持つような外見ではない。確かに小柄で愛嬌があるとは思うのだが、どちらかというと小動物めいた、愛玩動物に抱く感情の方が強いと思う。儚さがもう少しあれば、守ってやらなきゃ……! と思われただろう、とはアルマも思う。


 とりあえずアルマがダニエルとの結婚を失敗したなと思う原因がこのカーラである。


 勿論最初は久々に故郷に戻って来て、懐かしい顔ぶれに会いたいという気持ちがあった、と思えばアルマにもその気持ちはわからないでもないのだ。

 アルマは親の仕事の都合で各地を飛び回るような事にはならなかったけど、それでも想像するくらいはできる。異国で知り合った友人がいたとしても、やはり故郷で過ごした時の友人との別れに何とも思わないわけはないだろうし、戻ってきたなら会いたいと思う気持ちがあるのは当然だろう、と思う。


 だが、それにしたって限度というものは存在する。


 カーラがアルマとダニエルが住む屋敷にやってくるのは、最初に顔を見せてからというものほぼ毎日であった。


 戻ってきたばかり、しかもその頃にはアルマとダニエルのように学校を卒業した直後に結婚を、という家も少なくはない。だからこそ、知り合いが軒並み結婚してしかもここから遠くの家に嫁いでいった、となれば気軽に会いにいけるものでもないのかもしれない。

 だからこうして気軽に会いに行ける相手に会いにきている、と言われればその理屈はわからなくもない。


 だが。


 アルマとダニエルはこれでも新婚なのだ。


 だというのにほぼ毎日家にやってくるとか、空気読めとアルマは何度か言いそうになった。

 一応カーラも寂しいんだろう、なんていうダニエルの言い分もわからなくもないからこそこうして我慢しているけれど、それにしたって限度はある。


 正直な話、結婚式をして初夜は済ませたけれど、一度でぽんと孕めるかとなればそればかりは運としか言いようがない。

 結婚した以上両親に孫を早く見せてあげたい、という気持ちはアルマにだってあるし、ダニエルもそうだろう。むしろダニエルの親の方が、孫という存在を心待ちにしているのではないだろうか。

 ダニエルは客観的に申し上げても平凡な顔立ちなのだ。周囲のパッと見かっこいい! とか言われるような令息たちと比べると圧倒的に漂うモブみ。学校生活を送っていた時も存在感がちょっと薄くて、酷い時はその場にいるのにダニエルどこにいるか知らないか? とか聞きに来た隣のクラスの学友とかいたくらいだ。


 ちなみにアルマとダニエルが仲を深めていったのも学校での事で、それ以前はあまり付き合いがなかった。だからこそ、アルマはカーラの存在を知らなかったのだ。


 割と政略結婚が主流である貴族たちの中で恋愛結婚に発展した、となるともっと前から仲が良かったと思われがちだが、別段そんな事はない。単純に身分が下の方の貴族はそれなりに数が余っているからこそ、政略で家同士の縁を繋ごう、なんて考えても丁度いい相手がいないなんて事はよくある話だった。

 学校にいる間に家の方で結婚相手を見繕う、なんて事もあるのだがアルマとダニエルはそういった話が出るでもなくだからこそ学校で二人は仲睦まじくなりそのまま結婚という流れになったに過ぎない。



 ダニエルはちょっと気が弱い部分もあったけれど、貴族である事だけが取柄の高慢な者と比べれば好感の持てる相手であった。優しくて穏やかで。ちょっと影が薄いと言われようともアルマからすればそれは欠点ではなかったのだ。むしろ周囲から注目を浴びなかったからこそ、アルマはダニエルと出会えることができたのだ、と影の薄さに感謝さえしたほどだ。



 だがしかし、ダニエルが素敵な相手であったのはあくまでもカーラが絡まなければ、であった。

 久々に訪れた幼馴染を流石に無下にはできない、とダニエルは二人の新居に招き入れ、そうしてカーラの滞在を許してしまったのである。使用人もいるし、ダニエルとカーラが二人きりになる事はない。けれども、アルマからすればそれは少しばかり面白くないものであった。



 なにせカーラ、放っておくと延々喋っているのだ。

 その内容がアルマにもわかる話であればいいが、お互いが離れ離れになる前の、アルマがダニエルと出会う以前の話ばかり。そりゃあ同じ学校にいなかったのだから共通の話題は昔の思い出になるのも仕方がないとは思う。

 だが、カーラはアルマをその話に参加させるつもりがないような態度ばかりだったのだ。

 例えば昔の思い出話の中で、ふとアルマが気になって「それって何ですか?」と聞いたとして。


「えー? アルマさんには関係のない話ですよぅ」

「こっちじゃ割と普通だったけど、そっちにはなかったんですか?」

「あー……アルマさんにはわからない話でしたねぇ……」


 大抵がこの反応である。


 確かにアルマとダニエルが過ごしていた地域は少しばかり離れている。だからこそ、寄宿学校にでも行かなければ出会う事はなかったわけだし。

 だからこそ、幼い頃に流行した物なんかも微妙に異なる事はあるのだ。

 大々的に流行するようなものはさておき、それ以外はアルマたち以上に身分が上の貴族たち次第だ。料理などは食材の流通次第で取り入れたくとも難しい、なんてものもあるし、服装に関しては社交の場で大々的に流行るけれど、それ以外の小さなあれこれはその領地に暮らす貴族たちによって大きな偏りを見せていた。


 ここでカーラが質問をしたアルマに対して快く応えてくれるような相手であればアルマもそこまでカーラを嫌いにはならなかった。だが、毎回こうなのだ。

 そしてダニエルは「懐かしいなぁ」なんて言う程度でカーラの態度を諫めるでもない。

 そもそもアルマが不満を口にしたところで、昔の話なんだから……と言われて終わるのは目に見えていた。



 それ以外でも、例えばアルマが使用人を使わず自ら紅茶を淹れたとして。


「あっ、アルマさんまだ知らなかったんですね。ダニエルはこっちの紅茶の方が好きなんですよ。

 あぁ、でも落ち込まないでください。わたしの方が幼馴染ってのもあって付き合いが長いから知ってるだけですよぅ。ふふっ」


 ダニエルにはわからない程度ではあるが、明らかに嘲りの含まれた口調でそう言われたり。


「そりゃあ昔はそればっかり飲んでたけど、別にそれが好物ってわけでもないよ。今はこっちの方が好き」

 とダニエルが言っても、アルマさんに気を使ってるのねやっさしーぃ! とか言う始末。


 寄宿学校にいた時に小さな茶会などを開く事もあった。

 その時にダニエルが自分の好きな紅茶として教えてくれたのがアルマが淹れたものである。

 けれどもカーラにとってはダニエルが一番好きな紅茶は違うやつで、それを知ってる自分の方が彼の事に詳しいのよ、と言わんばかりの態度で。


 正直カーラの事をアルマが好きになれる要素はなかった。

 ことある事にダニエルの事を引き合いに出してはまるでダニエルに相応しいのは自分なのだと言っているように思えてきて、アルマとしてはカーラに対する嫌悪感ばかりが増していく。


 そしてカーラの態度はますます増長していったのだ。


 最初の頃は一応新婚というのもあってカーラも一応帰ってはいたのだ。とはいえ朝から晩まで長々居座っていたが。

 しかしいつからか、いいじゃない幼馴染なんだし以前みたいに過ごしても、とか言い出してあれよあれよとダニエルを言いくるめて客室の一つを占領し、今ではすっかりこの家の新たな住人のように振舞っている。


 勿論それに対してアルマは苦言を呈した。

 けれどもダニエルはすぐに出ていってもらう、とは言わなかったのだ。


 この時点でアルマはこの結婚が失敗だったのでは……とより一層思うようになってしまった。



 どうやらカーラの家は家族仲が冷え切っているらしく、それもあってこっちに居たいんだと思う……と煮え切らない態度のダニエルに。

 他の友人たちも皆結婚して嫁に行ったところばかりだから、他の友達にも中々会えなくて寂しいだけなんだよ、なんて言うダニエルに。

 アルマの愛情はどんどん冷めていくばかりであった。


 それでも子ができたなら、少しは父親としての自覚を持ってくれるだろうか……と悩みもした。

 流石に夜の生活に口出しまではしてこないが、それでもアルマからすれば気持ちのいい話ではない。

 いつ営みをしている最中に乗り込んでくるか、なんて下世話な想像すらしてしまったほどだ。


 こんな状況では子を授かるなど無理なのでは……と思っていたが、どうやら妊娠したらしい。

 ちょっと体調不良が続くな、とは思っていたがそれは単純にカーラに対するストレスからくるものだと思って疑っていなかったのだ。


 なにせこの頃にはカーラのダニエルに関する話はアルマが聞いても気分が悪くなるようなものばかりだったのだ。


 確かに幼馴染でそこそこ親しい、というのはいやでも理解できた。

 だが、お互い離れる以前実は付き合っていたなんて言い出されてもアルマにどうしろと言うのか。

 付き合ってたのに知らないうちに恋人作って結婚までしてたなんて! と言いたいにしてもだ。

 むしろそれを責めるべきはダニエルの方ではないのか。

 アルマだって恋人がいる相手に言い寄るような真似、するつもりはこれっぽっちもない。そもそも寄宿学校時代、ダニエルは異性と付き合った事は無い、というような事を言っていたのだ。

 ダニエルが嘘をついていたのであれば最低だし、またカーラが嘘をついていたとしても冗談にしても度が過ぎている。


 ちょっとした冗談よぉ、なんて言われたとしても誰も幸せにならないものを言ってどうしたいというのだろう。


 この程度で済めばまぁ、性質の悪い冗談でまだおさめる事ができた。

 だが、実はもうとっくに男女の関係なの、なんてカーラが言うから。


 真実がどうであれ、アルマはもうダニエルに対する情の一切が冷めきってしまったのだ。


 寄宿学校に入る以前までの付き合いであるならば、その頃の年齢などまだまだ幼いと言われてもおかしくはない。性的な行為ができる程度に身体が成長してはいても、それでもまだまだ未熟であるというのは明らかで。

 だがその時から既に、などと言われて、不快に思わないはずもない。


 アルマにとってダニエルは優しくて穏やかで誠実な人であるというのが好きになった決め手である。

 自分に向ける愛情も市井に出回る恋愛の物語と比べて情熱的ではないものの、それでもこの人となら素敵な家庭を築けるのではないか、と思わせられるだけのものがあった。

 少し女性に奥手な部分を見ても、それすら微笑ましく感じていたのだ。


 だが、カーラの話がもし事実であるならば、ダニエルはそういう風に装っていただけのクソ野郎となってしまう。今までそんな男に騙されていたのか……となってもおかしくはない。

 いや、カーラの話が盛られているだけだとは思うのだ。

 思うのだけれど、ダニエルはカーラの言葉を何一つとして否定しなかった。


 ただにこにこと聞いているだけである。


 ここで否定すればまだ、アルマだってダニエルの事を信じるつもりでいたのだ。

 だがダニエルは否定しなかった。それが明らかに戯言だから信じるはずもないだろう、というような内容であっても一度は窘めるなりすればまだ、アルマだって引き返すつもりだったのに。


 ダニエルの事を一番理解しているのはわたしなのよ、とばかりにアルマに自分の方が上なのだ、というような態度をとっていたカーラがこのままずっと近くにいるとして。

 それをダニエルが良しとし続けるのであれば。


 正直アルマにとってこの結婚は失敗だったと思う他ない。

 子ができた、というのをアルマは医師に固く口止めをしておいたのでダニエルは知らないけれど、カーラがこれを知ったとしてじゃあこれからは邪魔しないわ、となるかはわからない。


 むしろ、自分こそが本当の母親なのよ、とばかりに振舞うかもしれない。被害妄想と切って捨てるには難しいくらいに、この頃のカーラの態度は目に余るものばかりだった。

 それに、もしカーラが子が生まれた時にこれ以上邪魔をしないわ、お幸せにね! なんて言って引き下がったとしても、もうアルマにはダニエルとやっていく自信はなかった。

 今までカーラを好き放題させてきたダニエルを、もう信用できなくなっていたのだ。



 少し、二人から離れて落ち着いて考えたい。


 この頃のアルマはそう思うようになっていた。何せ既に胎の中に子がいるのだ。

 もうこの頃にはダニエルの子、と考えると愛情を持てないのではないか……という不安もあったがそれでも日に日におなかの中で少しずつ成長している子は愛おしい。

 だが、もしその愛おしい我が子が、カーラにとって邪魔だと思われたら。

 子が生まれたらこれ以上この家に入り浸る事ができなくなると思ったとして、カーラが生まれる前に排除しよう、なんて考えたら。そしてそれを実行してしまったら?


 万一子が生まれる前に残念な事になってしまったとして、ダニエルはどういう反応をするだろうか。

 カーラを怒る?

 それとも今回は仕方ないと諦める?

 はたまた、私の注意が足りなかったと私に対して怒りを向ける?


 想像上のもしも、ではあるがそれを考えたとして、どういう結末になってもアルマはもうダニエルにこれっぽっちも心が動かない事だけは理解してしまった。


 万が一を考えて我が子のためにも、アルマは両親に手紙を書いて一時的に実家に帰る事にした。急に連絡もなしに戻れば騒ぎになるかもしれないし、事情も書いてどうしても家に戻ってそちらで出産を迎えたいと綴れば、両親はすぐさま戻っておいでと返事をくれた。


 子ができた、という事情は伏せてアルマはダニエルにもう本当にカーラと関わりたくないから、と言い捨てて家を出た。これでダニエルがカーラを家から追い出してくれれば、まだやり直せる。けれどもそうでなかったら……先行きは決して明るくはない。



 事細かに事情を綴った手紙を出した結果、両親はそっとダニエルとカーラの身辺を調査する事にしたようだ。


 アルマが家を出てからカーラに常識を説いて家から出ていってもらうようにしたかどうかも確認するつもりだったのだろう。


 腹が目立つ前に家を出たので、生まれるまでまだ時間はたっぷりとある。

 その間に今後の事を決めるつもりでもいた。

 だからこそ、両親が身辺調査を行ってくれたのはありがたかった。


 アルマが家を出ていったからとて、すぐにカーラは家を出たりはしなかった。

 アルマが家を出た理由がカーラといたくない、というものなので、恐らくは数日以内に戻ってくるとでも思ったのだろう。

 もしかしたらカーラは、

「そんなつもりはなかったけど、アルマさんに誤解を抱かせてしまったのね……悪かったわ」

 なんていう軽い謝罪で済ませてまた今までと同じように居座るつもりかもしれなかった。


 今までカーラを好き放題させてきたダニエルが、アルマが家を出たからといってすぐさま行動に移るとは思ってもいない。

 今まで優しいと思っていたそれは、今のアルマから見れば単なる優柔不断にしか思えなかったし、ダニエルが行動に出るとしてももっと後だろう。それについてはアルマだけではなく、アルマの両親もそう見ていた。


 そしてその予想は残念なことに的中した。

 三日が経ち、七日が過ぎ、十日、半月、一月、と時間が経過してなおカーラはダニエルと一緒に暮らしていた。妻がいる時でもどうかと思ったが、妻が家を出ている今は更にある程度の貞操観念だとか常識を持ち合わせている者からすれば眉を顰めるような事だ。

 いくら家に使用人がいるから完全な二人きりではない、とカーラがのたまったとしても。

 平民なら問題なかった。だが二人は低位とはいえ貴族であり、貴族としての常識として当てはめるならば言うまでもなく非常識である。


 カーラが愛人、という立場になっているならともかく、そういうものでもない。カーラはあくまでも幼馴染だという姿勢を崩さなかった。


 だが、アルマがいなくなった事でカーラの箍も外れたのだろうか。

 アルマの両親が人を雇って調査した結果、アルマがいなくなってからカーラはますます我が物顔でダニエルと過ごしていたようだ。二人で外を出歩く事はそれほどでもないが、屋敷の中にいる間はずっとくっついていた、と報告が届けられた。


 ここまでくれば、流石に寄宿学校以前に二人が恋仲だった、という言葉も信憑性を帯びてくる。


 そうして三か月が経過し、半年が経過する頃にはカーラの中ではアルマの存在なんてすっかりなかった事にされているのではないか? と思える程、もうその時点では屋敷の中だけではなくダニエルと一緒に外に出歩く事もあったようだ。


 この頃にはすっかりアルマの中ではダニエルの存在も路傍の石くらいの存在に成り下がっていた。というか、お腹も膨れて目立ってきたし悪阻は酷かったしでもう精神的に色々と酷い状況で、ダニエルのためにわざわざ心を動かすつもりは一切ないと言ってもいい。

 お腹の中で元気にうごく我が子に、まぁ今日も元気いっぱいね、生まれてくるのが楽しみだわ。なんて思う日もあれば、なんでわたくしがダニエルの子のせいでここまで苦しまなければならないのかしら……!! と忌々しく思う日もあった。ダニエルの事が脳裏をよぎらなければそう思う事はほぼないので、大半は無事に生まれてくればいい、くらいの気持ちでいられるのだがふとした瞬間、思い出すつもりがなくとも勝手に浮かんだ途端にアルマの怒りのボルテージはとんでもなく上昇するのである。

 実家に帰ってきていて正解だった。

 もしカーラが居座り続けるあの屋敷にいたら、お腹の子が無事かどうかはさておき、多分カーラとダニエルをアルマは鈍器あたりで殴り殺していたかもしれないのだから。なんであいつらのためにわたくしが犯罪者にならなければならないのかしら、なんて事まで考えると余計にイライラする。


 そもそもだ。

 半年以上も戻ってこないのにダニエルは一切こちらに連絡を寄こす事もなかった。

 カーラといちゃいちゃする生活に夢中にでもなってこっちの事はすっかり忘却の彼方とでもいうつもりなのか。送られてくる報告からダニエルは率先してカーラといちゃいちゃしてるわけではないらしいが、それでもカーラが四六時中べったりなのを受け入れている時点で、

「いや、自分は興味なかったんですけど、でも向こうがくっついてきたから……」

 とかそういう言い訳を用意してその状況を甘受しているようにしか思えない。


 これがダニエルが何度諫めて引きはがそうとしてもカーラがしつこい油汚れのようにくっついてくる、とかであればまだ、アルマも多少はダニエルに対して心を残していた事だろう。だがしかしそんな事は今までの報告に一度もなければ、きっとこれからもないだろうなと思えてしまう。


 それだけではない。


 ダニエルからの連絡は来ないくせに、ダニエルの両親からの手紙は届いたのだ。


 ちょっとした行き違いで仲違いしたようだけど、いい加減頭も冷えたでしょう? 早く戻っていらっしゃい。


 要約するとそんな内容だった。あまり長い間妻が留守にしているというのも外聞が悪いだとか、何か他にも細々した事がねちねち書かれていたけれど。


 ここで、アルマは完全にブチ切れたのだ。


 今戻った方がよっぽどお腹の子に悪影響ですわ!

 っていうか、こっちに手紙を出す事はしないくせにもしかしてダニエル、両親に妻が家を出てって帰ってこないんだよ~とでも泣きついたのだろうか。それともカーラか? どっちにしても目の前にダニエルの両親がいたらアルマは突発的に顔面に零したミルクを拭いた雑巾でも叩き込んでいたに違いない。鈍器じゃないだけとても温情。


 恐らく真実を理解していないだろう義理の両親は、向こうの言い分だけを聞いてちょっとお節介を発動させただけである。とはいえ、事情を知らないからこそデリカシーに欠ける文面で手紙をしたためてきたわけだが。



 ちなみに。

 あまりの怒りっぷりにアルマが「おや?」と思った時には既に破水していた。

 アルマの家は途端阿鼻叫喚である。事前準備はしていたといえど、まさかこんな……手紙の内容でブチ切れて怒りのボルテージが上がった途端の破水という展開はアルマの実家の使用人たちも想像してすらいなかった。というか、手紙の内容がわかっていればまだしも、そうでないのだからそれは仕方がないとも言える。


 激しい怒りのせいで脳内アドレナリンでもドバッドバ出ていたのか、出産の痛みとかそういうのはあまりなかったのが幸いかもしれない。

 そもそも悪阻は酷かったのでこれで出産でも痛みが……となっていたらアルマの中でさらにダニエルに対する八つ当たり的な感じで更に怒りの炎が燃え上がり、もし直接その場にダニエルがいたら間違いなく命はなかったに違いない。


 ちなみに元気な男の子であった。


 産み終わって、何となく一段落したあたりでアルマは唐突に冷静さを取り戻した。

 そして相変わらずダニエルとカーラの身辺調査などの報告書は届いていたのだが、何となくそれらを斜め読みしていくうちに目についた部分を思わずしっかり読み込んで。


「離縁するわ」


 何が何でも実行する。そういう覚悟が含まれた、力強い宣言であった。



 離婚するにあたり、神殿に話を通す事にする。

 貴族同士の結婚はそう簡単に離縁はできない。それがたとえ恋愛結婚だろうとも。

 どうしても離縁したい者が政略ではなく恋愛なんです! と言い張って過去にやらかそうとした実例があるし、どちらにしてもそう簡単にくっついたり離れたりができるものではないのだ。


 例えば夫婦になったばかりだというのに一年以上夫婦としての営みもない、という白い結婚だとかはお互いか、或いはどちらかに問題があるとして離縁できる。

 アルマは既に子が生まれているので白い結婚という理由での離縁は無理だ。

 だがしかし。



 今までの二人の報告書、それにアルマ本人がカーラから聞いた言葉。

 そういったものを含めてあれこれ理由を述べれば、神殿はアルマの言い分を認めるしかなかったのだ。

 とはいえ、すぐに、というわけにもいかなかった。


 片方の言い分だけを信じるなど、流石に問題がある。

 いくら身辺調査という名の報告書があったとしてもだ。


 だからこそ、神殿の者たちは関係者各位に話を聞く事となったのである。





 妻から――アルマから離縁の申し出があった、という話を神殿の人間から聞かされてダニエルはまさに青天の霹靂であった。

 だからこそ、ダニエルは離縁なんてとんでもない! と自分はそれに同意しないと咄嗟に叫んだのである。


 しかし神殿からやってきた、と名乗りアルマからの離縁の申し立てがされていると伝えた神官曰く。


 そもそも現状、妻をないがしろにして愛人を優遇している状態である。

 愛人の暴走だけならいざ知らず、夫はそれを良しとしている。

 妻が家を出たのは、子ができたからであり、だがしかしそれを愛人に知られた場合子に危害が及ぶのではないかと危惧したからである。


 これらを丁寧に説明されたものの、ダニエルからすれば寝耳に水もいいところだった。


 まず、愛人とは誰の事だ。


「? 愛人ではないのですか? 生憎この国は一夫多妻を認めていませんので、妻がアルマとなっている以上カーラは愛人となるのですが」

「カーラは愛人なんかじゃありません! 幼馴染なんです!!」


「しかし、お付き合いしていたのでしょう? 寄宿学校に通う以前に。そしてその時点で既に身体の関係を持っていた、とカーラ本人がアルマに宣言していたと聞いていますが」

「そんなの! カーラの冗談です!」

「ですが、仮にその時点で身体の関係がなかったとしても。

 妻が家を出た後、貴方は一体何を? 妻に誤解を解くでもなく、自称幼馴染を家に入り浸らせ、挙句よく外を一緒に歩いているという目撃情報も大量にあります。ただ歩いているだけならいいですが、まるで恋人のように人目を憚らずくっついていた、という目撃者は多数いるんですよ」


「それは……」


 言われてダニエルは言葉を失った。


 何を? と問われれば確かに何もしていなかった。

 仕事は毎日していたけれど、アルマに関してはカーラが言うのだ。

 下手に追いかけても今は機嫌が悪いだろうし、それならほとぼりが冷めるのを待つのがいいんじゃない? と。


 確かにアルマはカーラに対して正直仲良くなれそうにない、と何度も言っていたし、早い所帰ってほしいとも言っていた。そして、カーラが出て行かないならとばかりに出ていったアルマは確かに機嫌が良いとは到底言えるはずもない。


 だがしかし、一月経過しても三か月経過しても一切何も連絡してこないアルマに、いつまでへそを曲げているんだと思うようになって。

 あんな我儘な女だと思わなかった。なんて思って。

 やはり気心の知れた幼馴染でもあるカーラと一緒にいる方が楽しくて。


 ただ、久々に両親に会った時に調子はどうだ? なんて聞かれたから。

 ちょっと喧嘩して、アルマは家を出ている、だとかそれ以外にもいくつか愚痴を零したのは確かだ。


 けれど、その戻ってこなかった、というのが。

 まさか子ができていたからだったなんて。


「それに、冗談だ、などと言いますけれど。

 仮にも貴族の令嬢が、そんな冗談言いますかね? 下手をすれば自分の今後の身の振り方にも影響が出るような内容ですよ、それ」

「それは、内輪のノリというか……」

「内輪のノリを外に持ち出されましてもねぇ……結婚して夫婦になったからといきなり内輪ネタ話されたって普通はついていけませんよ」


 呆れたような神官の言葉に。

 ダニエルは否定できなかった。

 寄宿学校時代にそういった経験がダニエルにもあったからだ。

 寄宿学校で仲良くなった相手がいたけれど、しかし住んでる地方が遠く離れていたせいで、また相手には近い地方で過ごしていた別の友人がいて。

 そんな二人の会話に交ざっていると、時々自分にはわからない内容があったりして疎外感とまではいかないが、ちょっとした寂しさはあったのだ。


 そういった経験があったにもかかわらず、ダニエルは知らずカーラのいつものノリを受け入れて、それをアルマにも受け入れろと内心で強要していたのかもしれない。

 直接言った覚えはないけれど、でもアルマが不満を口に出した時に。

 カーラの冗談だから、と流さずにきちんとアルマと向き合っていたのであれば。


 きっとこうはならなかった。


「アルマは夫としても父親としても頼りにならない貴方との今後の生活などあり得ないと言っていました。子も、一切関わっていないので産んだこちらが育てるとも」

「そんな!?」


 神官の言葉は普通に考えれば当然の事だ。

 お腹に赤ちゃんができた事すら知らない男が父親だと言い張ったところではいそうですかと認められるはずもない。妻にそれすら教える価値がない相手だと、そう思われていたのだ。


「そんな……そんな事になったら、両親には一体どういえば……」


 ダニエルは両親にとっては遅くにできた子であった。

 だからこそ、貴方が大人になって、孫を見る事ができる頃にはもしかしたら生きていないかもしれないわね、なんて母は言っていたのだ。冗談めかしていたけれど、だがしかし現実になりうる可能性もあった。

 だからこそ、ダニエルは早めに結婚して、どうにかして両親に孫を見せてやりたかった。


 しかし離縁となればアルマは実家に戻るだろうし、そうなればダニエルが我が子に会う事は難しい。ましてや、両親に孫を会わせるなど。


「アルマは言っていましたよ。こっちが苦しんでお腹の子を育てている間にあんな性格の悪い手紙を送ってくるような旦那の親と、我が子を会わせるつもりはないと。子の教育に悪いそうで。

 一応こちらでもその手紙を確認しましたが……まぁ、アルマがそう言うのも当然かなと」


 神官が言葉を濁してまで性格の悪い手紙という部分を否定しないという代物。両親は一体どんな内容の手紙を書いたのだろうかと思ったが、考えられる事など限られている。

 アルマが家を出ていったきり戻ってこない、と以前愚痴を零した後に手紙を出したに違いないのだから。

 それ以前に出すなどあるはずがない。だってその時点で両親はまだダニエルとアルマは一緒に暮らしていると信じていたのだから。


 違う。だって、子ができたなんて知らなかった。

 知っていたらそんな、愚痴なんて言うはずもない。そりゃあ、実家で出産すると言われたら両親にも思う部分はあったかもしれないけれど、しかし男爵家の我が家と、子爵家のアルマの実家ではアルマの家の方が使用人も数が多い。


「そ、それはその、子ができてたなんて知らなくて。知ってたらそんな手紙出す事もなかったんです!」

「と言われましても。知らなかった、なんて後からいくらでも言える言葉ですからねぇ。

 愛人でもない女と一緒に暮らして結果として妻を追い出す形になった男の言う言葉のどこを信じろというのですか。

 アルマは離縁するにあたって、様々な証拠を出してくれました。カーラのアルマに対する暴言の数々。そしてそれを諫めない夫。そういったものから、アルマが家を出たあとでアルマの両親が調べた貴方たちの動向。


 ……正直、貴方がアルマよりカーラを選んだ、と言われれば納得は出来ますが、それでもアルマを愛しているし離縁なんてとんでもない、と言われてもね……」


「そんな……」


 ダニエルの顔色は悪い。

 今までカーラと二人でいた時、それは当たり前の事だと信じて疑っていなかった。

 ましてやそれがおかしなことだなんて、言われるとも思わなかった。

 カーラは幼馴染で、寄宿学校以前にはこうしてよく行動していたし、今回の事だってそれの延長上のものでしかない。

 ダニエルはそう思っていたからこそ、アルマがカーラに対してあまり良い感情を持っていない事が不思議で仕方がなかった。

 ダニエルにとってカーラは同い年ではあるものの妹分のような存在だったからだ。


 しかしアルマ以外の第三者――それも神殿の人間に客観的な事実を述べられて、そこで気付いたのだ。

 結婚しているくせに妻以外の女を優遇して、妻が家を出た後も堂々とその女を住まわせている男。

 それが傍から見たらどういう風に受け取られるか、というものをダニエルは今更ながらに気付いたのである。


「どうやら気付いたようですね。あまりにもごねるようなら、立場を入れ替えた例え話をしておいて欲しいと言われましたが必要なさそうで何よりです」


「例え話……?」


「えぇ、例えばアルマに昔からの幼馴染だという男がいたとして。そいつが結婚した後も四六時中アルマに付き纏い夫であるダニエルに自分はアルマと付き合っていた。彼女の事は何でも知っているし、また自分以上の理解者などいない。身体の相性だって最高なんだ。そう言われて一切不快に思わないのか、と」

「いるんですか!?」

「いるわけないでしょう。念の為確認しましたがアルマの幼馴染と言えるのはいずれも令嬢ばかりでしたよ。

 今のはあくまでも、ダニエルとアルマの立場だけを入れ替えた例え話です」


 そもそも最初にそう言ったでしょう、と神官は呆れた様子を隠しもしない。その目は完全に馬鹿を見る目であった。


 そこまで言われてようやくダニエルはアルマの不快感の一部分だけでも理解できた気がした。

 例え話であってもそう言われた時、ダニエルはとても不愉快だったのだ。であれば、実際にそうなっていたアルマの内心はどれほどだっただろうか……


「アルマには悪い事をしました。あの、もうしないのでどうにかやりなおせないでしょうか……」

「無理でしょうね。二度と顔も見たくないと仰ってましたから」


 あ、そちらが有責という形になるので、こちらそれらに関する慰謝料請求などの書類です。


 にべもなく言われ、すっと書類を差し出され。


 ダニエルはがくりとうなだれたのである。





 さて、一方のカーラもまた神官と対面していた。

 ダニエルはアルマにカーラの家は家族仲が良くないというような事を言っていたが、実際は異なる。

 カーラの両親は良くも悪くも放任主義であった。両親はどちらも自分たちの親にギチギチに管理されたスケジュールの中で育てられ、そのせいで自分たちの子が生まれたらもう少し自由にさせようと決めていたにすぎない。自分たちのような窮屈な思いはさせたくない、との事でカーラにはのびのび過ごしてほしいと思っての事だった。


 カーラはどちらかといえば寂しがりで、周囲に人がいないのがイヤなタイプであった。構って欲しいのに両親からはやんわりと距離をとられる。それで寂しくて、外で沢山の友達を作ったまではいい。

 だが、その友達だってずっと一緒にいられるわけじゃない。

 そろそろ帰らないといけない時間だから……そう言って一人、また一人と家に帰っていくその姿をみて、カーラは孤独感に苛まれていたのである。


 ダニエルはその友人の中でもとりわけ自分によく関わってくれる人物だった。

 まだ恋愛だとかを意識するでもない年齢。だからこそ性別を気にせずずっと遊んでいられた。


 女の子の友達もいたけれど、彼女たちは遅い時間になる前には早々に家に帰ってしまうので、そうなると一人ぼっちになりがちなカーラはその頃からよくダニエルと一緒にいるようになっていた。それが、カーラにとっての当たり前だったのである。


 しかしそれも両親が仕事でどうしてもここを離れなければならない、となり、まだ独り立ちするには早すぎるカーラを一人置いていける事もなく、カーラが嫌がろうとも隣国へ行く事になってしまった。


 そこでもカーラに友人ができなかったわけではない。

 だがしかし、そちらで通う事になった貴族の寄宿学校では既に幼い頃からの知り合いだとかですっかりグループが出来上がっていたし、その中に入るのはカーラにとって中々に難しいものがあった。

 それでもどうにか友人はできたけれど、やはり昔ながらの付き合いだという友人たちには負ける。


 当たり障りのない友人関係。

 人は周囲にいるけれど、やはりカーラは孤独であった。


 仕事で隣国にいるのは一時的で、カーラが寄宿学校を卒業した後一度戻る、と言っていた。だから、それを楽しみに日々を過ごしていた。とはいえ、またその後にはこちらに戻ると言っていたのだが。


 しかしいざ卒業して懐かしき故郷へと戻ってくれば、その頃にはほとんどの友人たちは結婚し嫁入りし、カーラの住む家の近所から遠ざかっていたのである。

 これじゃあなんのために戻ってきたのかわからない……


 絶望しつつも、嫁に行く事がない友人――ダニエルの所へ駄目元で足を運べば、彼は確かにそこにいた。

 元々住んでいた家とは別の所に引っ越していたけれど、それはカーラの家からかなり近くなっていて気軽に足を運ぶことができた。


 しかし、ダニエルもまたその頃には結婚していたのである。


 それがカーラにはすっかり面白くなかった。友人をとられた気持ちになったのだ。

 寄宿学校時代に知り合ったらしいダニエルの妻は、最初はカーラにも歩み寄ろうとしていたように思う。

 けれども面白くなかったカーラは、ちょっと意地悪をしようと思ったのだ。


 アルマが知らない頃のダニエルの話。

 ダニエルは懐かしいななんて言っていたけれど、アルマはその時の事など知らないからわからない事も多かっただろう。

 最初の頃はどうにか会話に入ろうとしていたけれど、カーラは話の輪の中にアルマをいれてあげようとは思わなかった。


 そんな事も知らないの? なんて言った事だって何度もある。

 そうして困ったような顔をするアルマを見るたびに、カーラの胸の中はどこかすうっとして、それがとても気持ち良かった。


 結婚する程に好きな相手だというのに、その相手が知らない事を知っている。

 言うなれば優越感だった。


 それに、ダニエルが何だかんだ自分を構ってくれるのも嬉しかった。結婚したけど自分とダニエルとの関係は前と変わる事はない。それがとても嬉しかった。

 本当はこういうの、良くないだろうな、とはカーラも思ってはいたのだ。

 けれども、中々やめられなかった。


 次は、次こそはアルマも話に加わってもいいかもしれない。そう思いながらも、結局はいつものようになんにも知らないのね、なんて自分の方こそがダニエルを理解しているのだという態度をとるのはとても楽しかったのだ。


 そうやって、困り果てた表情のアルマを見ているうちにエスカレートした自覚はある。

 本当はそんな事ないのだけれど、でももし、それを言ったらアルマはどういう反応をするのかしら。

 そんな、つまらない好奇心でカーラは自らの破滅への道を作り上げてしまった。


 寄宿学校へ行く前に、自分とダニエルが付き合っていたという嘘。

 その頃には既に身体の関係も結んでしまったという嘘。


 勿論嘘なので本気にされても、最終的には冗談よ、で済ませるつもりだった。


 その上で、そういった冗談が許される間柄なのよとアルマにダニエルとの仲を見せつけるつもりだった。


 ダニエルがそんな不誠実な相手じゃないのはアルマだって知っているはずだ。

 だからこそ、カーラにとってそれは本当にちょっとした冗談でしかなかったのだ。



 けれどもやはりやりすぎたらしい。アルマは家を出て行ってしまって、そこでカーラも少しは反省したのだ。

 とはいえ、ダニエルがすぐ追いかけたとしても火に油かもしれない。アルマが落ち着くまでは様子を見た方がいい、とはカーラも確かに言った。

 二人の仲を引き裂くつもりはないけれど、しかしアルマが戻ってくる前にここを出ていくのもイヤだった。自宅に戻っても両親は自分の事など構ってくれるでもないので、一人きりになってしまう。カーラの家の使用人は必要最低限という程度にしかいないので、話し相手をしてくれるような暇を持つ者はいない。


 アルマが戻ってきたら、今までの事は謝ろう。


 最初はそう思っていたのだけれど、だが中々戻ってくる気配のないアルマにカーラは自分の中で身勝手な怒りも抱くようになっていた。

 夫を放置して一体何をしているのかしら。

 そっちがそのつもりなら、こっちはダニエルと毎日楽しく過ごしてやるんだから!


 とはいえ、それも期間限定のつもりだったのだ。

 いずれはまた隣国へ行かなければならなくなる。だからそれまでの期間だけ。


 カーラにとってはそれがこんな結果になるなんて思ってもいなかった。


「嘘……」

「嘘ではありません。アルマはダニエルに離縁を申し立てています。カーラ、貴方との不貞を理由に」

「うそよ、わたし、そんな事してない!」

「証拠があります。それに、自分でも言っていたでしょう。ダニエルと付き合っていた。身体の関係もあると。アルマからそう聞いています」

「それは冗談で」

「冗談? おかしなことを言いますね。そんな冗談がもし他に広まれば、そんなふしだらな女と結婚しようなんていう男はそういません。嫁に行く気がないというのならまだしも、貴方、婚約者がいますよね」


 神官の言葉にカーラは全身の血が凍るような思いをした。

 一体何故その事を――!?


「アルマが家を出た後、彼女の両親が貴方たちの身辺調査を開始したのです。結果不貞があったという訴えを神殿は認めています」

「どうして!?」

「どうして? 妻が家を出た後我が物顔で居座り続けた貴方がそれを言うのですか?

 傍目には妻を追い出した愛人が妻気取りで生活しているようにしか思えませんでしたよ。アルマの証言、そしてその両親が雇った身辺調査をした者からの報告書、そして、カーラとダニエルがさも恋人のような振舞いで街中を移動していたのを目撃していた市井の者たち。

 一つだけなら捏造の可能性もありますが、これだけ多くの証拠を提示されては貴方のそれは嘘です、という言葉の方が信用なりません」


「そ、それは、皆がわたしを陥れようとしているんだわ!」


「それだけ周囲に敵を作っていた、という事ですか?

 世間は思っている程暇じゃありませんよ、カーラ。

 アルマとその家族が陥れようとしている、というのであればまだわからなくもありませんが実際に人目もはばからずいちゃついてるのを目撃した住民が、一体どんな理由で貴方を陥れようと?」


「そ、それは、ちょっとした冗談とか、暇潰しで」

「市井の者たちはそこまで暇じゃありません。日々の糧を得るのに勤勉に働いて、仕事終わりに酒をたしなんだりはするでしょう。そこで、ちょっとした噂で盛り上がる事もあると聞きます。

 ですが火のないところに煙を立てるような話は出ないんですよ。そんな話をいちいち考えて流すなんて、相手によっては噂を流布した自分の身の方が危うくなる行為、誰がするんですか。民草はそこまで愚かではありませんよ」


 遠回しにお前が馬鹿、と神官は言っているのだが、カーラはそれに気付かない。

 中には確かにやらかす平民もいるが、そんな者たちばかりではない。その手のやらかした相手の末路はいずれもロクでもないものなのだ。民草がそんな者たちばかりなら、今頃とっくに人という種は滅びを迎えている。


「離縁の原因は明らかにそちらにあります。そしてアルマからはそれに対する慰謝料の請求が。こちら、書類になります」


 す、っと出されたそれに視線を落とす。


「こっ、こんな大金! 払えるわけないじゃない!!」


 慰謝料として請求された額を見て、カーラは咄嗟に叫んでいた。

 仮に支払うにしても、もう少し簡単に払える罰金程度だと思っていたのにこんな大金を払うことになれば、間違いなく家は傾く。


「ですが、新婚家庭に入り浸りその夫を略奪してるわけですし」

「だからって」

「それに、アルマは妊娠していました。だからこそ身の安全を確保するために彼女は実家へと帰ったのです」

「え……?」

「夫を独占するような女がのさばっている家で、もし子供ができた事を知られたら。

 子が生まれる事を妨害するのではないか、と危険を感じて去ったのですよアルマは」

「なっ、そんな事するわけないじゃない!」

「ですが、妻にそう思われるだけの行動を貴方はしていたのです。いくら口で否定したといっても、今までの行動からそれが信じられる要素はないでしょうね」


 神官は書類に記載された慰謝料部分をトントンと指で軽く叩いた。


「この金額は、夫婦が離縁するだけでは確かに多すぎるものですが、子が、それも生まれたばかりの赤ん坊がいるという事も含めて算出されたものです。

 子を育てるというのは何かと費用がかかりますからね」


 勿論夫からもたっぷり請求している、というのは神官はあえて言わなかった。言わずともわかるだろうと思っていたし、その必要性を感じなかったというのもある。


「それから」


 ふと思い出したように神官は顔を上げカーラを見る。


 まだ何かあるのか、と咄嗟にカーラは身構えていた。


「隣国に居る貴方の婚約者。そちらにも今回の事はお伝えしてあります」

「えっ……」

「慰謝料を払うにあたり、この家の財産だけでは難しいでしょうから。こちらとしては払うもの払ってくれるなら、お相手が肩代わりするのも問題はないわけですし。

 ……婚約者の方は酷く不快感を露わにして、婚約破棄を決めたようですが」


 ひゅっ、とカーラの喉から声にならない音が漏れる。


「他の男と身体の関係を早々に結ぶような貞操観念の緩い令嬢は我が家には相応しくない、との事です。結果としてそちらからも慰謝料を請求される事になるとは思いますが……身から出た錆ですかね」

「そ、そっちが余計な事を言わなかったらそうはならなかったじゃない!」

「遅かれ早かれいずれはバレますよ。そうなればその時にはさらに慰謝料が跳ね上がるだけです」


 他人事のような顔をして言う神官にカーラは顔を真っ赤にして叫んだが、神官は眉一つ動かさなかった。


 自分はそんなふしだらな事はしていない! といくら叫んだところでカーラの言い分が認められる事はなかった。言うだけならタダですから、せめてしていないという証拠を提示してくださいと言われれば、カーラは困ったように視線をうろつかせることしかできなかった。


 だって、やっていないのだ。

 やっていないからやっていないと言っているのに、その証拠を出せだなんて。


「わ、私の純潔の証明は」

「身体の関係は無い、という言い分は認められますがそれだけですね。その場合慰謝料は若干下がりますが、それだけでは全部がなかった事にはならないでしょう。

 ましてや、今更純潔が証明されたからといっても婚約者がではやはり結婚を、とはならないでしょうね。婚約しているくせに他の男に言い寄ったという事実はあるわけですから」


 目撃した人物が少数であるなら、たまたまそう見えるような場面に出くわして勘違いされてしまった、あたりの言い訳ならできたかもしれない。

 けれどもカーラはダニエルと一緒に出掛ける時、何だかんだ楽しんでいたのだ。そうして周囲の目なんて一切気にする事もなかった。

 越えてはいけない一線を越えたつもりはない。だがしかし、越えてなくともしでかしたのは事実だ。


 嗚呼……! とカーラは思わず両手で顔を覆った。自分の意思とは無関係に涙が溢れる。



 カーラの婚約者は、隣国の寄宿学校で出会った伯爵家の令息である。

 男爵家のカーラにとってその結婚は本来ならばそうあるはずもない事だったのだ。カーラの家の繋がりで政略結婚をするとしても、同じ男爵家か子爵家が精一杯。伯爵家との縁談なんてそれこそ何かの機会がなければあるわけのないものだった。


 それもあって、もうしばらくしたら隣国へ戻るつもりだったのだ。

 だがしかし、その婚約が破棄されるとなれば。

 果たして戻る意味があるだろうか。


 どうして。

 一体どうしてこんなことに。


 今更後悔したところで遅いのはわかりきっている。けれども、出来る事ならアルマが家を出る前まで時間が戻りはしないだろうか、なんてあり得ないもしもを想像してしまう。

 もし神官がその願いをうっかり聞いてしまえば、間違いなく鼻で嗤ったに違いない。


 そこは、アルマと出会った時まで、じゃないんですね。

 そう突っ込むことだってあっただろう。


 今更めそめそと泣くカーラに、神官は伝えるべき事は伝えたとばかりに席を立った。





 ――さて、それから後の話だが。


 アルマは無事にダニエルと離縁する事ができた。離縁理由は夫の不貞。ダニエル有責での離縁である。

 妻がいながらにして女を家に引きずり込んでその女も我が物顔で家の中をのさばっている。そんな状況で子ができても、安心して子を育てられる環境でないのは言うまでもない。

 アルマは今までのように貴族令嬢としてではなく、これからは母親として生きていかねばならないのだ。強くならなければならない。

 ダニエルの子、と思うだけで時には負の感情を抱く事もあったけれど、だからといって産んだ後でダニエルの家に我が子を置いていくような真似はしたくなかった。ダニエルの家にただ跡継ぎだけを置いていくような、ダニエルの両親が喜ぶような真似、するはずがない。


 神殿から離縁が認められた時、ダニエルの両親はそこでようやく真実を知った。


 てっきりただの痴話喧嘩で家を出ていったと思っていた妻が、子育てのために実家に戻っていたなんて知らなかったのだ。

 そして、そんな義理の娘に自分たちが送った手紙の内容のせいで二度と会う事はないでしょうと突き付けられた時、ダニエルの両親は「そんなつもりじゃなかった」と言っていたようだけれど、アルマにはどうでもいい事だ。


 寄宿学校を通じて知り合ったダニエルとは、それ以前に知り合う機会などなかった。

 アルマが暮らしている領地と、ダニエルが暮らしている所とはそれなりに距離がある。

 ダニエルの両親が一目だけでもと孫見たさにアルマの実家がある領地へ訪れる可能性もあったが、それは既に神殿が封じてくれた。


 どうやら過去にも似たような出来事があり、離縁した妻が向こうで生んだ孫をみたさに押しかけた挙句、一目見ただけでは満足できずこの子はうちの孫でもあるし、後継ぎとして育てるから! と無理矢理連れ去ろうとした事があったらしい。


 ダニエルの両親は今後、何かの折にアルマの実家のある土地へ行く際監視がつけられるようだ。仮に仕事でたまたまこっちに来ただけだ、なんて理由で来たとしても、その時にはアルマの家にも連絡が入るし、そうなればアルマがダニエルの両親とわざわざ会う理由もないので家にこもるだろう。

 そうなれば、偶然を装って一目見るのは難しい。



 ダニエルはそのせいで両親から酷く責められたらしい。

 あなたのせいで孫に会う事ができなくなった! と母親に泣いて叫ばれた時、流石にダニエルも何も言えなかったようだ。

 自分も子ができていたなんて知らなかった、と言ったところで両親は納得しないだろう。

 ダニエルのつまらない愚痴のせいで、両親はアルマに手紙を綴ったのだから。

 いや、愚痴を言われたとして、そこで余計なお節介を発揮しないで手紙をださなければこうはならなかっただけ、と言ってしまえばそれまでだが。アルマを責めるような内容ではなく、もっと気遣った内容の手紙であれば孫との面会も果たせたかもしれない、とはいえとっくに手遅れである。



 ダニエルが離縁された、という話は社交界全体に広まったわけではないが、それでもダニエルの身近な部分のほとんどには広まったせいで、新たに結婚しようにも相手が見つかるのは当分先の話だろう。


 なにせダニエル自身は貴族の中でもかなりの数ある男爵家の出だ。それ以外に何か目立って優秀な部分があるわけでもなく、そしてアルマへの慰謝料のせいで資産も大分減ってしまった。

 没落まではいかないが、それでも金のない身分の低い貴族の男に嫁ごうなんていう奇特な令嬢がそういるはずもない。

 少ないとはいえ屋敷にいた使用人たちを雇う余裕もなくなって、ダニエルは今、アルマとの新居として過ごしていた屋敷を引き払い実家である家に戻って両親と暮らしている。

 毎日のように母親の嘆きを聞いて過ごしているので、かなり肩身の狭い思いをしているようだ。



 カーラもまた、彼女の両親に激しく叱責された。

 自分たちの両親が厳しすぎるくらいに育てていたからこそ、自分たちはそうならないように、とカーラには自由に育ってもらおうと思っていた。とはいえ、最低限の常識は教えていたはずなのだ。

 それが蓋を開けてみれば妻がいる男の家に入り浸り、挙句その夫婦を離縁に至らせた元凶。

 妻からは当然慰謝料を請求されたし、そのせいで家の財政はかなり厳しくなってしまった。没落しなかったのが不思議なくらいだ。


 だがしかし、アルマに支払った慰謝料だけでそれだ。


 カーラの婚約者であった伯爵家の令息からも婚約破棄を言い渡されている。しかもこちらの有責で。


 カーラはそれでも自らの純潔を証明できれば、と行動に移ろうとしたものの、それはカーラの母親によって止められてしまった。

 カーラはただ純潔である証明ができれば問題ないと軽く考えていたようだが、この証明というのは身も蓋もなく言えば神殿の人間立ち合いのもと、カーラの純潔――平たく言うと処女膜だ――が残っているかどうかを確認するという代物だ。

 複数名が見ている中で、カーラが下半身を露わにし、自ら股を開き穴を広げ見せなければならない。


 純潔証明というのがどういうものかを知っている貴族の女性からすれば、想像するだけでおぞましいと思えるものだった。知らなかったにしても、実際にどう確認するかを知ればマトモな令嬢なら絶対にやらないだろう。もっと他の方法があればまだしも、この方法で証明したとしても間違いなく不名誉な噂は流れる。


 だというのにそれを気軽に行おうとしたカーラに、彼女の母はそこまで貞操観念がおかしくなっていたの!? と金切り声を上げたのだ。

 育て方を間違えた! お母様やお父様が厳しすぎたと思っていたけれど、やはりあの人たちが正しかったのね! あぁ、嗚呼!! なんて恥知らずに育ったの!?


 気が狂ったように叫ぶ母親にそう言われて、カーラはただ呆然とするだけだった。


 伯爵家に払う慰謝料は、とてもじゃないがどう頑張っても捻出できそうにない。

 けれども、カーラの両親――特に母親は家を失ってまでどうにかしようと思わなくなっていた。

 母にとって既にカーラは可愛い我が子ではなく、ふしだらに成長した汚らわしい畜生でしかなかったのだ。


 慰謝料は自分で払いなさい、と告げ、カーラにはせめて自由恋愛で将来の伴侶を見つけてほしいと言っていたはずの母親は、伯爵家に事情を説明し、金だけはあるけれど色んな意味で評判最悪な貴族の愛人としてカーラを追いやった。


 わたくしの可愛らしかった娘はとっくにいなくなっていたのね……とさめざめと泣く母を見て、その時本当の意味でカーラは後悔したのだが、後の祭りである。




 どう足掻いてもお先真っ暗なダニエルたちとは対照的にアルマは毎日楽しく過ごしていた。

 勿論生まれたばかりの子の世話は大変だけど、だが使用人たちも手伝ってくれるので悪阻で苦しんでいた頃と比べると圧倒的に楽ができている。

 すくすくと成長していく我が子を見ると、あの時ダニエルの事で苦しんでいたのが嘘のようにも思えてしまう。

 もうすっかり関わる事のない相手と化したダニエルやその両親、ついでにカーラの事を思い出しても、今はこれっぽっちも何とも思わなかった。やはり悪縁は断ち切るに限る。


 とはいえ、アルマとしては結婚はもうこりごりである。


 仮にアルマと結婚したいなんていう男がいたとしても、この子ごと愛してくれるような存在じゃなければアルマも受け入れる事はないだろう。とはいえ、そんな相手が都合よく出てくるはずもない――と思っていたのだが。


 アルマが嫁いでいったとして、その後この家の跡を継ぐ相手がいたか、と言われるとアルマには兄も弟もいなかったので、父が後継者を見つけると言っていたのだ。

 親戚から一人、この家を継ぐのにうってつけの相手がいるからと、本来ならアルマが嫁にいき、そしてその数年後にアルマの父もその相手に家督を継がせるつもりでいたのだ。

 しかしアルマが急遽帰ってきた事で、その話自体が流れつつあった。


 駄目元で会ってみるか? と聞かれた時アルマは難色を示した。だが、自分のせいで家を継ぐはずだった相手の未来がなかった事になるのも申し訳がない。

 出戻ってきた娘というある意味不名誉な存在でもいいと言うなら……とアルマはこれを了承した。


 そうして出会った相手は、ダニエル以上にパッとしない男だった。

 とはいえ、ちょっと色々整えてみればそこそこになったし、普段からそうしていれば結婚相手も割と見つかりそうなのに、と思えるものだったので、アルマは思い切って聞いてみたのだ。

 単に身だしなみを整えるのが苦手、というわけでもなさそうだったので。


 そして男の口から出てきたのは、彼の半生である。


 まぁ出るわ出るわ身近な恋人たちとの修羅場に巻き込まれる話が。全く関係ないのにとばっちりで刺されたと聞いた時は流石にアルマも「えっ!?」という声が出た。

 人違いで告白された挙句振られた話とか、本人に非がないのにあまりにも不幸なエピソードが多すぎる。

 そうして男の口から出てきた言葉は、恋愛とかうんざりだ、である。


 成程、これだけ拗らせていればダニエルのように他の女といちゃつくような事もなさそうだ。最早近づく女皆敵、みたいな雰囲気すらある。

 だというのにアルマと結婚の話が出るとは、大丈夫なのだろうか?

 勿論それも疑問に思ったので確認はしておく。流石に結婚した後で事故を装って殺されるような事になったらと想像すると恐ろしいものがあるので。


 だがしかし男はあっさりとこたえたのだ。


 貴方はもう女と言うより母でしょう、と。

 跡継ぎは既にいるし、子を作るだとかどうだとかを考える必要もない。

 ただ、まぁ、それでも自分も子は欲しいし、そちらが構わないのであれば……と最後の方は顔どころか耳まで真っ赤に染めていう男に。


 アルマは漠然と感じたのだ。


 あ、この人なら大丈夫だわ、と。

 話の合間にも男はアルマの抱いた子に対して指でちょいちょいあやすようにしていた。多分無意識だと思う。

 どちらかといえば男が求めているのは安全な場所のように思えた。先程聞いた彼の過去を思えば気持ちはわかる。自分の子ですらないアルマの子であっても父になるのは構わない、と堂々と言い切る男の口調だけを聞けばとても割り切っているように聞こえたけれど、しかし子を見るその目はとても優しい。


 父もまぁちょっとアレだがいいやつだぞと言っていたので信用していいだろう。アレ、の部分はきっと彼の過去に関するものだと思うし。



 結婚はもうこりごり、なんて思ってたくせに、気付けば男と結婚し――その数年後には長男の弟妹が生まれているのだから、人生とは何があるかわからないものだなぁ、とアルマは夫と笑いながらしみじみと思ったのである。

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― 新着の感想 ―
妊娠してからのアルマの心の動きにリアリティがあって引き込まれました。 私男だけど。
[一言] 作者様は、上手にお話を作られていると思うんだけど、 ちょっと疑問もあった。 例えば、なぜ、主人公は 「私、あなたが嫌いだから、もうウチにはくるな!」 とマウントちゃんに自分で言わないの? …
[気になる点] どうやって未経験かを調べる方法 気軽に「調べて貰う」←と親へ言った時点では知らなかったかもだけど そうやって調べるのを知っても深く考えなかったのか それとも方法を知った時に蒼白になっ…
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