24話 焼肉
「いや、服は質素なものでいいよ、短パンにTシャツとか。足元もサンダルとかでいいし。」
見せられたスマホにはカワイイ系や清楚系、パンク等様々な服の写真が映し出されている。妻よ、俺はおっさんで夫だ。今は少女だが中身は男。偶になら着るが、出来ればユニセックスな感じでお願いしたい。犬は勝手に入って我関せずか。
「何言ってるの?可愛くなったらカワイイ物を着る。そもそも、既にゴスロリで魔法少女してるんだから、私にも選ばせてよ。」
魔法少女・・・、魔法少女かぁ・・・。文字通り魔法使って少女だから間違いないのか・・・、うん。世間の目を考えた時、それは確かに間違いない、イカツイ兄ちゃんがゴスロリ着る世界だ・・・、世紀末かな?Welcome to this crazy time とはよく言ったものだ。
しかし、こちらとしても反論はある。着飾るとは言ったが、せめてこう、もっと別の・・・。駄目だ、ゴスロリ以外思いつかないが、普段着にしたい訳では無い。
「莉菜・・・、あれは着たくて着てるんじゃない。配信の衣装があれで、そのままイメージが定着した結果だ。」
「なら、せめて外出するときは、貴方のイメージを崩さない服を着るべきよ!ね、望田さん。」
「はい、全くです莉菜さん。そもそも、ツカサは無防備過ぎるんです。橘さんにあんなかわいい、おねだりしたり・・・、なんですかそのトランク?」
何と言われても俺も知らない。千代田に送ってもらって渡されただけだし。重さはそれなりにある気がするが、さてなんだろう?今回話し合った事に付いての補足資料だろうか?
キャリーケース程の大きさだが、秋葉原の件から考えると、色々と調整も必要だろう。それこそ、国内外の情報も貰えるなら貰っておきたい。前に言われた攫われるというのが、何処となく現実味を帯びてきたし。
「別れるときに、千代田さんに渡されたんだ。開けてみるか。」
ロックを解除して開く。・・・、服?何やら大量の服が入っているが、え?千代田ってエスパー?くれと言ったらすぐ服の入ったトランク渡してくるとか、セバスチャンもビックリである。
「・・・、司。千代田さんになにか言った?」
「・・・、帰りにちょっと冗談でパパと言いながら服を・・・。」
「あっ、これ有志の方々が買った服ですよ!」
望田が服を見ながら声をあげる。有志からの服か、出して広げてみるが、ガーリーなものからコスプレとしか思えない、チャイナドレスやメイド服が出てくる。選考基準は多分、本人の欲望。お人形さんにこれ着せたら似合う、という感じだろう。
服を殆ど持っていないので、着れる物は素直に着るが流石に、メイド服やチャイナは遠慮願いたい。多分、服のサイズはぴったりなのだろうが。
しかし、女性陣は違うようで、取り出した服を見ては一喜一憂している。このままでは本当に、着せかえ人形にされそうなので、そそくさとシャワーを浴びると言って逃げる。
頭から温かなシャワーを浴びながら、これからの事を考える。助言役はやはり、引き受けないといけないだろう。新しい法についても、これから自身が関わるのなら、理解は必要だし生き残った知り合いの見舞いにも行きたい。束の間の休み、やはり追悼式には出席する気にはなれない。
コレの主役は彼等達。俺が行けば、大なり小なりコチラに目が行く。それでは申し訳がたたない、コレは命をかけて戦った彼等を偲び送るものなのだから。ただ、橘から貰ったカードの中身は、今貯まっている分を遺族に分配してもらおう。
そして、個人的な懸案事項として、そろそろ普通に出歩きたい。有名税は諦めるとして、延々ホテルと職場の行き来では、そろそろ精神的に参って来る。燃え尽き症候群ではないが、秋葉原の件が終わり、何処か気が抜けたように感じる。
つらつらとシャワーを被りながら考えていると、どうも長湯になってしまったようだ。ノックされて食事にしないかと誘われたので、体を拭き・・・、着るものを考える。シャチパーカーとジーパンはあるし、下着も大丈夫。ただ、衣類を入れる籠に見慣れない服がある。
多分有志の物であろう服は、太ももまでの丈の長い赤のTシャツに太ももが眩しいデニムの短パン。上着は長袖で、袖より丈の短い黒のスカジャン。ぱっと見Tシャツ一枚でウロウロしているような格好だが、ハードルが高いのは実は短パンだ。
おっさん・・・、と言うか、大人になると男はほぼ長ズボンで過ごす。履いても膝丈の短パンか、最悪水着か寝る時のトランクスだろう。覚えておくといい、実は男性は女性より露出が少ないのだよ、されても見たくないが。
・・・、たまには気分転換で着てみるか。街に出るにしても、自身のイメージと離れた物の方が見つかりにくいだろうし、着て分かったがロングスカートは意外と暑い。それに、若ければ女性に逆らえるが、おっさんになってくると逆らえなくなってくる。セクハラも怖いし、加齢臭も気になる。守るものも増えれば耐え忍び方も、また学ぶ。
「上がったよ〜。」
「長かったわねって、それ着てくれたの?」
「用意したのは莉菜か。まぁ、気分転換だよ。変な所ない?」
「大丈夫よ?あ、でもあぐらは気を付けて、隙間からパンツ見えるかもだから。」
「進んで見せる気はないが、俺のパンツなんて見ても面白くないだろ?綺麗だが貧相な身体だし。」
胸も薄ければ尻もない。華奢な身体は庇護欲こそ感じるかも知れないが、性欲は・・・、個人の趣味によるだろう。自覚がないと言われるので、余り反論しても仕方ない。妻も望田も女性としては先輩だし。
「で、カオリは何で目を隠してる?」
「いや、太ももが眩しくてつい・・・、様式美です。さて、食べたい物とかあります?」
「あ~、肉が好きなので焼肉とか食べたいかな、網が大きい所で。他に何か案はある?」
そう聞くと、2人共特に意見は無いようなので、焼肉に決定。質より量なので、食べ放題の店をチョイスして帽子とサングラス、髪はポニーテールにしてもらって変装完了。後は望田に店まで案内してもらう。犬は待てと言ったら、その場で寝たので大丈夫だと思う。あっ、そう言えば。
「カオリ、千代田さんと今日話したんだけど、これから数日間自由行動で、貴女が連絡役兼案内役に就く事になりました。土地勘がないので、よろしくお願いいたします。」
「あ、そうなんですか?分かりました、今は上も会議やら他国との情報共有やらで忙しいので、少なくとも2、3日は確実に暇ですね。秋葉原はああなってしまいましたが・・・、何かあればいってください。莉菜さんも。必要な物は遠慮せずにどうぞ。」
「ありがとう望田さん。そうねぇ、やっぱり服よね、服。司を飾る服はいっぱい要るわ。この人着たきり雀で、気に入ったら同じ服何着か買って着回すのよ?」
「それはもったいないですね、前は知りませんが今は美少女なんですから!」
2人がニコニコしながら、俺を見下ろしてくる。身長140cm、成人女性の平均より低く、ブーツを履いても見上げる形になるが、あの2人の中では、俺を着せ替え人形にするのは確定らしい。
体重も22kgしかないので、米俵よろしく逃げようとも肩に担がれて運ばれるのかもしれない。しかし、俺の方にも用事が有るわけで。それを済まさない事には応じる気はない。
「先ずは用事を済ませてから、1つは宮藤さん含め、今回の件で傷ついた方の慰問。それと新しい法律や、秋葉原の件の資料が欲しい。」
「慰問の件は後で確認しましょう。法律は大丈夫ですけど
秋葉原の資料はまだ、まとまってない所があるので早急には無理ですね。」
「もう、貴方ったら。家では仕事の話あんまりしないけど、仕事場では、仕事の話しかしないんでしょ?もう少し、気を抜いたら?色々あったけど、終わって帰れるんだし。」
・・・、どうするかな。話の流れで帰る話になったが、助言役の話はまだ話していない。テレワークよろしくネットで行えない事もないが、それでは何というか、違うのだ。
セス氏の配信を見て以降、様々な動画を見たが本人に直接会って話さないと、どうも勘とでも言えばいいのだろうか、それが働かない。考えられるのは、いじられた第6感。病院で幽霊っぽい物を見たがそれから以降、多分見ていないコレは、何かしらの感覚が備わっているのだろう。
「とりあえず、飯食べよう。」
秋葉原の件で下火になるかと思ったが、街を歩く限りではバラエティー豊かな人々が行き交っているので、スィーパーとしての仕事は行われているらしい。これでもし、誰もやらなくなったら、何かしらの手段を考えないといけない所だった。
さて、連れて来られた焼肉店、2時間食べ放題でリーズナブル。更に女性料金なので安さ倍増!そう、肉で食べ放題である!なんなら、金貨払いOKと書かれている。料金は金貨1枚、対応が早いと思うか、料金が高いと感じるかは人それぞれ。とりあえず、ゲートに入れば金貨は出るし、値崩れが心配な所だが、レートなんて見ていないので、支払いは金貨確定だろう。
久々の焼肉、元から食べる方で米は頼まないが、サンチュと肉が有れば、速度は落ちるが2時間食べ続けられる。そして、今の俺は満腹と言うモノが無い!個室なので、サングラスと帽子は脱いでもいいだろう。
「とりあえず、飲み物頼もうか?俺はハイボールかな。莉菜とカオリは?」
「私はビールかな。望田さんは?」
「そうですね・・・、勤務時間外ですがアイスルイボスティーで。」
飲み物が届き乾杯!さぁ、食べるぞ!今宵の胃袋は飢えている。
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「店長・・・、何か凄い量の注文が入ってるんですが。」
バイトくんから声がかかる。凄い量?若い身空で雇われ店長をしているが、変な客とは頭が痛い。若いと見れば高圧的な奴も居るし、クレームをつける奴もいる。
「ん、どれくらい?」
「タン塩10人前、厚切りカルビ20人前、ロース50人前、ホルモン20人前、更に増えてます。」
「はぁ?団体客とか予約あったか?」
「いや・・・、女性の3人で入店した個室です。」
力士か?女相撲の力士でも来たか?或いはフードファイター?それでも、この量は無いだろう。大衆的で大盛りを売りにしてはいるが、そもそも1人前の量が違う。
「・・・、どう考えてもイタズラだろう、網交換はしたか?まだなら、交換がてら様子見てくる。流石に、イタズラなら罰金の話もあるからな。」
雇われ店長は辛い、仕入れ失敗したら怒られ、在庫を抱えても怒られ、売上が落ちれば怒られ、何よりこんなイタズラがあれば、客に怒らずに対処しなくてはいけない。そもそも、女性しかも3人。
量だけで100人前、入店直後なのでOUT時間を考えれば、うちの店の網の大きさなら焼けない事もない。しかし、食べ残しは罰金。ガキのイタズラだろう、既にタンと厚切りカルビは運んでいる。これで少ししか食べていないなら、罰金の説明だ・・・。嫌になる。
「お客様〜、網の交換と注文の件でお話が・・・。」
ノックをして中に入る。油に濡れた唇は艶めかしく、それをチロリと舐める舌は蠱惑的。火の熱さに当てられたのか、頬はほんのりと紅潮し、開かれた口へ運ばれた肉を受け止める舌は、物欲しげに動き閉じた口からは、聞こえないはずの粘性のある水音がクチュリと聞こえたような気がし、口から離された箸からは少し妖艶な唾液が延びた様な気がした。
さらに、サンチュに伸びた指は白く、優しく厚く長いカルビを愛おしげに触り巻いていく。サンチュで太くなった肉に紅い目を細め、期待に満ちた顔を少し上向きにし、口へと両手で運ぶ。口から滴る汁を見られるのが恥ずかしいのか、片手で口を隠すようにして妖しく恥じらった後に、油で煌めく指をペロリと舐める姿は何処か背徳的なモノを感じる。
「あっ、店員さん。網交換ですか?お願いします。」
どちらかが頼んだのであろう、新しい網をもった店員が来た。しかし、彼はなぜ固まってるのだろうか?焼き上がった肉を取り網の上を空にする。うむ、やはり肉は旨い。
ルームサービスの上品な肉も悪くはないが、庶民な俺としてはこちらの方があっている。ハイボールなのもポイントが高い。最近はワインやシャンパンは目にしても、コイツは目にしていなかった。焼いて食べて油を炭酸で流し、サッパリした口にまた肉を入れて、肉の旨味と油を楽しむ。タレはおろしぽん酢、サンチュに巻けば辛味噌。うむ、幸せ。
「え、あっ、その・・・、こ、交換しますね。」
「お願いします、どうかされましたか?」
店員がおっかなびっくり網を交換する。若そうだがバイトだろうか?フリーターもそれぞれ、なにか夢があるのなら頑張ってほしいが、手付きの危うさが火傷しそうで気になるな。
「本当に大丈夫ですか?」
「あ、え、量が、かなり頼まれてましたが・・・、ファーストさん?」
「ええ、まあ・・・、はい。量は大丈夫ですよ?食べますのでお構いなく。」
妻も望田もぼちぼち食べて、2人共にスイーツや飲み物、限定メニューなんかを見ているが、それよりも肉である。それに、行った場所行った場所で、ファーストバレしてそそくさと逃げるばかりでは先に進まない。
今更一般人を気取る気はないが、思うに大衆の前に出ない事も原因ではないかと思う。どの道この姿かたちで生きていくのだから、引き籠もっても仕方ない。いっその事、変装も止めてしまおうか。
芸能人とて、見慣れてしまえばただの人。俺は歌って踊る訳でもなく、そこにいる人。時間はかかるかも知れないが、大丈夫な様な気がしてきた。しかし、今は肉である。網も新しくなったし食べようではないか。
「司、食べ過ぎじゃない?」
「ん?まだ来るよ?食べ放題だし食べないと。」
「莉菜さん、ツカサはホテルのルームサービスでも、これくらいペロリでしたよ・・・。」
「えっ?お金が・・・。支払いが・・・!」
「いえいえ。今のホテルも前のホテルも、経費なんでお金はいいんですが、何時もあんなに?」
「ううん、食べる方だけど、あんなには・・・。ちょっと貴方、本当にお腹大丈夫?太ってブーストちゃんなんて嫌よ?」
「今は体重計とも分かり合える。奇跡も魔法もあるんだよ♪」
とりあえず食べ放題で2時間食べ続けてみたが、満腹感は無いしお腹がポッコリする事もない・・・。そのうち食に飽きたら、永遠のスープと名付けて水でも啜るか。食べ終わって帽子だけ被り出口に向かっていると、ヒョイと後ろから持ち上げられた。
「莉菜、何してるんだ?」
「いや、体重計と分かり合えるだなんて有り得ないと。えっ、軽!うそっ、あれだけ食べたのに軽い・・・。」
「私も持ち上げていいですか?」
「ここでは邪魔になるだろ、外でなら。」
会計を金貨で済ませると、網交換した男性に写真とサインを頼まれたので、ピースして写真に写りサインを書く。何でも注文履歴と共に飾りたいらしい。特に問題もないし、大食いの記念とでも思えばいいのかな?他の店員も集まったので、握手等をして店を出る。割と皆気さくに話してくれたのが嬉しい。秋葉原の件で批判する人も、中には必ずいるのだから。
「ではでは、とっ、本当に軽いですね。何キロだろ?」
「確か22kgですよ?病院で測ったんで、多少の誤差はあるけど。」
帽子を被り外に出ると、脇の下に手を入れられて、望田に持ち上げられる。体重だけなら多分小学生くらいだろう。変化しない空洞の身体は、太る事もなく軽いまま。さてはて、さっきの肉は何処へ行ったのやら?
「莉菜さん、コレは詐欺ですよね?」
「ええ、詐欺よ、詐欺。可愛くて軽くて華奢な夫なんて詐欺よ!私達がどれだけ苦労してダイエットしてるのか思い知れ!」
「ひゃん!ちょ、うん!くすぐらないで・・・。」
足も地面に着かず、宙ぶらりんの俺の脇腹を莉菜がくすぐってくる、止めろ人前だ。自分でも聞いた事ないような声が出たじゃないか。
「やめてくれ、恥ずかしい。人も見てるし帰ろう。莉菜には話もあるし。」
さっきの声のせいで多少の注目を集めたので、そそくさとその場を立ち去る。何人かは声で気付いたのか、呼び止めんように手を差し出していたが、今回は諦めてもらおう。
ホテルに着き望田と別れて部屋に入ると、犬は帰ったのに気付いたのか、寄ってきて尻尾を振っている。頭を撫でると尻尾の振りが激しくなる。多分、嬉しいのだろう。妻は風呂の準備をしているようだ。
「よし、待て。よし、寝ていいぞ。」
「結局名前なんにしたの、その子。」
「保留中。」
「早く決めなさいよ?さて、お風呂入ろっか臭いもあるし。」
風呂が沸いたので一緒に入る。相変わらず後ろから抱き竦められる形だ。さて、話を切り出すとするか。あとに回していい事なんてない。
「莉菜、新しい仕事の事なんだが・・・、出世した。」
「ほえ?良かったわね、係長とか?」
「いや、本部長・・・。」
「・・・、残るの?帰ってこないの?」
抱かれた腕に力が籠もる。妻は帰ってきて欲しいだろうし、危ない事もして欲しくないだろう。逆の立場なら俺もそう思う。当然だ、愛する人を危険に晒したくない。だが、誰かの仕事から俺の仕事になった今、投げ出す訳にはいかない。言葉を尽くし、誠意を見せよう。それしか、納得してもらう手立てが無い。
「帰るよ、時間はかかるかも知れないけど、必ず。今、国として各都道府県に本部を設置する流れになってる。今回は助言役として残って欲しいそうだ。」
「助言役?危なくないの?秋葉原の事もあったし・・・、いやよ、貴方が、司がいなくなるのは。」
・・・、伝えよう、この身体の事も。夫婦なのだ、隠し事はしたくない。妻が俺を化け物と思うなら・・・、それは仕方ない事だ。悲しく、恐ろしい。嫌われるのが、避けられるのが。でも、話さないのは、妻への不誠実で、彼女の泣き顔を見ずに済むなら、甘んじて受け入れよう。
「ゲート関連で残るんだ・・・、絶対はないよ。でも、これを見て欲しい。これは多分、高槻先生と君しか知らない秘密になる。犬、ちょっと来い。」
呼ぶと犬はとうやったか知らないが、扉を開けて入ってきた。バスタブまで近寄った犬は、嬉しそうに尻尾を振っている。頭をひと撫でして、そのまま腕を差し出す。後ろの妻は多分怪訝な顔をしているだろう。
「犬、腕を食い千切れ。」
「えっ、ちょっ、やめて!」
妻の声を聞かず犬は命令されたのが嬉しいのか、肘から下の腕を食い千切り咀嚼する。痛みはあるが、血は出ない。いや、表面張力のように無くなった腕にとどまり、すぐさま巻き戻されて元通り。違和感1つない。抱き竦められた腕に力が籠もる。
「これが・・・、俺の秘密。この身体は巻き戻る。怪我をしても、無くなっても何事もなく動き出す・・・。犬、元の所へ。」
抱き竦められた腕は離れず、しかし、お互い言葉は出ない。ただ、バスタブへ落ちる雫の音だけが響く。拒否されるだろうか、化け物と。あった妻との日常は消え去り、1人の日々を過ごす事に・・・、いや、妻が逝けば1人だ。
それは覚悟している。ただ、怖いのは彼女を見送る事さえ出来ない事。生きた年数の半分以上は彼女共にある、それは文字通り半身を裂かれるようなもの。時が傷を癒やすかも知れないが、付いた傷痕は残り蝕むだろう。後悔として、悲しみとしてそして、虚無感として。
「司・・・、痛く・・・、ないの?」
「・・・、痛いよ。戻っても痛みはあるよ。」
「そう・・・。その身体が元に戻るなら、心の痛みももとに戻るの?」
「多分・・・、戻らない。身体は外見だから戻るけど、心は分からないよ。」
「そう・・・、司。貴方は私の事を・・・、愛してる?」
「うん、愛してるよ。怖いくらいに、今も拒否されるのが怖くて震えてる。でも、拒否されたら、仕方無いと思う・・・。不気味だろ?化け物みたいで。」
「うん・・・、でも、司は司よね?意地っ張りで、自分勝手で気付いたら、勝手に物事進めてて、優しくて、誰かの仕事をしてる、貴方でしょ?」
「ああ、俺は俺だ。」
「ふふっ・・・、私の前だけ俺でいてね。」
「ああ、多分君の前でしか俺じゃないよ。」
腕から力が抜け、優しく包み込んでくれる。多分・・・、受け入れてくれたのだろう。嬉しい、ありがたい。化け物の様な秘密を知ってなお、受け入れてくれる妻が愛おしい。重ねられた心は放したくない。
「・・・、司・・・、貴方が離れたくないように、私も離れたくないの。だから、貴方の心に瑕を付けるわ。最初の傷痕、初めての傷痕、忘れられない傷痕。いいかしら?」
妻の手がスルリと下に伸びる。これは・・・、そういう事だろう。拒否する気はない。彼女が俺を受け入れたように、オレもまた、彼女を受け入れる。この身体は・・・行為は出来るのだから・・・。
「・・・、ベッドでお願い。・・・、初めてだから。」
「ええ、私の初めてを奪った貴方を、私が初めてを奪ってあげる。」
「・・・、お願い。」
風呂から上がり、1つになる影は、夕闇に消えなおも確かめ合うように、動き続けた。行末も、成した証も残らぬが、そこには確かな触れ合う暖かさがあった。