59章:銀髪のお姫様の秘密②
彼はその秋から“特待生”として、天枢学院に入学することになっていた。数百年ぶりのCG値1200超え――私が通っていた学校でも彼を知らない人はいなかったし、同じマンションの人たちも、恐怖と羨望の眼差しを送っていたことは陰鬱な光景として思い出せるほどだった。
天枢学院では、チルドレンは全員学院内で生活しなければならない。だから、ゼノは10歳で家を出ることになった。
私はそれが嫌で嫌でたまらなくて、絞っても絞っても溢れる濡れ雑巾のように泣きじゃくっていた。
「……サラ。手、放してくんない?」
「だって、だって! サラ、お兄ちゃんと離れたくない!」
我が儘なことを言って、ただ泣き叫ぶだけ。当時の私は、きっとこうすればゼノは――お兄ちゃんは、出ていかないでくれる……本気でそう思っていた。
「まったく……」
困った顔を浮かべているゼノは、どこか微笑んでいるようにも見えた。今にして思えば、ゼノにとって面倒くさいことであったはずだけど、もしかしたら、私に必要とされていることが嬉しかったのかもしれない。お父さんとお母さん――特にお父さんとの関係は、天枢学院に入る前から変なものになっていたから、余計にそう感じ取ったのだろう。
ゼノは泣きじゃくる私に向かい、頭の上に手を置いた。まだ子供の彼は、どこか大人びたことをしようとしているのか、優しくポンポンと頭を撫でてくれた。父親のような、或いは母親のような……いや、異性として力のない“異性”を安心させるかのように、その手はいつもよりも大きく、暖かく感じた。
「サラ、離れたからって、二度と会えないわけじゃない」
ゼノはそう言って、しゃがんだ。すると、彼の目線は私よりも低い位置になって、不思議と彼の目をまっすぐ見ることができた。
「兄ちゃんはどこに行っても、サラの“兄ちゃん”だ。サラが泣いていたら、今までのように駆けつけてやっから」
――だから、大丈夫――
そう言って優しく微笑むその表情を、私は何度も見てきた。
上級生の子にからかわれて、その子たちを蹴り飛ばした時。
私が帽子を丘の上から落としてしまって、樹に引っかかったそれを取ってくれた時。
花火が見えなくて、背伸びをしていた時、私の手をとって高いビルの屋上まで連れて行ってくれた時。
私を護ってくれる時に見せてくれる、その優しい彼の顔が、たまらなく好きなんだ。
そう気付いた。
離れることになって、初めて知るその感情。どういうものかその時はわからなかったけれど、彼と離れて暮らしていくうちに、その想いは大きくなるばかりだった。
不思議なものだった。一緒に暮らしていた時には、その想いがそういったものであると認識することすらできなかったのに、離れて初めてその不思議な感情があることに気付き、戸惑い、そして肥大化していく。
人の心は不思議だ。離れれば離れるほど、何もない荒野の中、寂しい風だけが吹いている世界のような心に、煌々と輝く星のようにその想いは激しく存在を主張する。だからこそ、人はこの想いを、この感情を“恋”と名付けるのかもしれない。私自身がこの世界に存在するための、一つの意義として思えるほどのものだと思った。
ゼノが優れたチルドレンであることを知った私は、きっと将来、その隣に立つことはできない。彼を誇らしく思うのと同時に、そう思った。
だから、私もチルドレンになって、ゼノの傍に立っても恥ずかしくない人間になろう――幼いながらにも、沸き立つ思いを振り払う術を知らず、身勝手で愚かしい妄想のような夢を抱いた。その結果、どれだけ自分が傷つこうとも。
チルドレンになってから、なんとなく感じていたんだ。ゼノのいる世界と、私のいる世界はあまりにも違いすぎていることに。
私のいる“Cクラス”は、はっきり言って兵士として役には立たない。所謂、雑兵もいいところだ。それでも、SICがチルドレンとして育成していたのは、“ダアト”としての器の可能性があるからだろう。
私たちとは違い、ゼノの“SSSクラス”は、軍部にとっての即戦力どころではなく、小国の国家予算を使ってでも欲しい人材レベル。順当に進めば、軍部の長官、或いは行政と立法の要である枢機院の大臣クラスが確約されているほどだ。
その事実を知った時、私は果たして、彼の隣に立つほど優秀な人間なのだろうか。そういった疑念が発生してしまってから、私はそれに振り回されるようになった。
ゼノの隣に立つには、あらゆるミッションをこなさなければならない。難しい武器やエレメントも扱えるようになるために、ハードな訓練が必要だった。
私は周りからあれこれ言われたくないから、ディアドラ以外には誰にも言わず、もちろんゼノやディンにも言わず、個人訓練を毎日行った。
私が可能な限りの訓練をしたところで、おそらく彼らの足元にも及ばない。どう足掻いたところで、噂に聞いていたSSクラスの女性チルドレン――ラケルさんのようにはなれない。生まれながら持っているもので、始めから負けてしまっているのだから。
でも、いつかゼノに……“よくやったな”と、あの時のような――優しい表情で言われたい。
それさえ言われれば、私は満足できるような気がしていた。ずっと抱いているこの感情を――血の繋がりのない兄妹だと知らされ、喜んでしまうほどのこの想いを昇華できるのだと。
だから、フィーアのように強い女性が現れたとしても、変に動じなかった。それはいつか起きることだろうし、いずれゼノ自身が求めるものだと思っていたから。
フィーアに対し、強い嫌悪感を抱くゼノを見ながら、きっとそのうち惹かれるんじゃないかって思っていた。フィーアは強く、確固たる自分を持ち、信念を抱いて生きている。私のように、ただゼノの隣にいたい……なんて雑念だけでこの場所にいるような私とは違う。
だけど、私に特別な力――“ダアト”があると知って、言葉では言い表せられないほどに嬉しかった。
こんな私でも、みんなの役に立てる。ゼノの隣に立つことができるほどの力が、私には存在していた。
“力がある”
その文字だけで、歓喜で体が震えてしまいそうだった。この気持ちを、感覚を、きっと誰も共感してはくれない。歪で、不誠実な感情だってことは、私自身も気付いている。
フィーアにもできないことが、私にはできる。私の力は、きっとゼノの横に並び立つためのもの。
私のための、私だけの。
なのに――
神様って、ひどいよ。私は本気でそう思ってしまった。
どうして、フィーアにも“この力”を与えたの? 私一人じゃ、ダメなの?
疑問。疑問。疑問。
これじゃあ、ゼノの横に立てない。私はいつまで経っても、ゼノにとって“護られる妹”でしかない。
フィーアにも“ダアト”の力があると知って、自分では想像できないほどの焦燥感と、様々な色を混ぜ込んで闇色に染まった色のような虚無感が、体の真ん中を貫いている。私を私たらしめるためのものが、崩れ去ってしまったかのように。
フィーアさえ。
フィーアさえいなければ。
皮膚をチリチリと焼く紫外線が降り注ぐ砂漠の上で、サラは思わず嗚咽を吐いた。己への――自身が抱いた暗い色で何度も塗り潰したどす黒い感情に対する嫌悪感で、彼女は胸が張り裂けそうだった。
私は私が嫌いだ。
弱い自分も、作り笑いをする自分も、他人を羨む自分も、手の届かないものへ未だに恋焦がれる自分も。
フィーアに嫉妬する自分も。フィーアに憧れているのに。合理的な冷酷さの裏にある、彼女の優しさに心が温まるのに。
こんな私なんて、始めからいなければよかったのに。
ディン……あなたなら、どう言葉を掛けてくれただろう?
この掃き溜めのような想いへの向かい方を、ディンなら指し示してくれたはず。
だから、私は。
私が嫌いだ。