55章:ティファレト 神々の力の代弁者②
俺の意識が“現実”に戻ってきたという確信だけがあった。
太陽の光が閉じているまぶたの上に降りかかり、その明るさが皮膚を通して眼球に伝わる。吸い込んだ大気が澄んでいるということが、膨らんだ肺に届いただけでわかった。背中に感じる生い茂る雑草と大地の温かさが、じんわりと血管を伝い全身に巡る。
「……目覚めたかな」
声が聞こえるのと同時に、俺は目を開けた。太陽を塞ぐようにして、あの男――アーサーが顔を覗き込ませていた。
そうか、戻ってきたんだ。現実――というよりも、ここでさえ現実とは言い難い。仮想空間内なのだから。
「その様子だと、何もかもわかってんじゃねぇのか?」
「…………」
彼は何も言わず、俺の隣に腰を下ろした。草原の向こうを見つめながら、微かに笑みを浮かべている。
「“セフィラ”の力は強大だ。凡そ、人が持つべき力ではない」
俺に言っているのか、或いは独り言なのか――そんな口ぶりで、彼は言った。
「だが、我々は望んでもいないのに、その力を与えられてしまった。力を持つがために、その力に翻弄され、闇夜の中を彷徨い続けるしかなかった。生まれた時から……」
彼の言葉の節々に、哀愁が漂っていた。昔を語るような、或いは自分を重ねているかのように。
「その中でも、君の持つ力は……はっきり言って、“異常”とも言える力だ。簡単に力に呑み込まれ、自我を失いかねない」
「…………」
俺は体を起こし、彼と同じように遠くを見つめた。風が優しく俺たちの間をすり抜け、草花を揺らしている。
「君は、逃げられない運命を背負わされている。知りもしない太古の――神々の咎を背負わされ、殺戮の道を進まざるを得ない。たった18年しか生きていないというのに」
たった18年。
世間一般で言えば、俺はまだ子供だ。たしかに、そんな俺に世界を破壊しかねない力が与えられてしまっていいのだろうか。そういった疑問が付きまとうのは、否が応でも起きてしまう。
「運命を呪わないのか? なぜ、自分なのかと」
彼は独白するようにして、疑問を投げかけた。
「……思わねぇよ」
俺は頷き、言った。
「なぜだい?」
わかってんじゃねぇのかって思う。だけど、きっと彼も、訊かずにはいられないのだ。
「俺は多くの選択を間違えてきた。自分の弱さを知りたくねぇから」
FROMS.S掃討と、ラケルの死。全て、俺が招いたことだ。ディンのことだって……。
「だけど、わかったんだよ。それらは全て、俺の人生に必要な喪失だったんだ」
人は失って、つまずき、歩を止めて初めて、何が大切なのかを知ることができる。
「俺が選択してきたことを後悔しないために……俺の犯してきた過ちを無駄にしないために、俺は俺の“弱さ”を信じる。呪うことなんてできねぇさ。信じる道を進むための“ティファレト”なんだろうからな」
俺が後悔すれば……俺が俺の運命を呪えば、俺が殺してきた人たち、失ってしまった人たち……ラケルに顔向けできない。俺が歩みを止めてはならない。俺の足跡にある数多の屍が、俺の行き着く先を睨んでいる。
彼らの死を、無駄にしないためにも。
「……そうか」
彼はスッと立ち上がり、深く息を吸い、ゆっくりとそれを吐いた。
「君ならば、もしかしたら止めることができるかもしれない。奴らの……“グリゴリ”の野望を」
そう言って彼は俺の方へ向き直り、優しい笑みを浮かべた。
その時――
「ゼノ!」
聞き慣れた呼び声とともに、雑草の上を駆ける音が聞こえた。後ろへ振り向くと、サラとフィーア、ローランたち全員が駆け寄ってきてくれていた。
「戻ってきたんだね! よかった!」
「お、おぅ」
サラは走り抜ける勢いのまま、俺の胸元へと飛び込んできた。思わず後ろへよろけてしまった。
「お、おいおい」
「本っっ当に心配したんだから! 戻ってこなかったら、どうしようって……」
「何不吉なことを言ってやがる。俺は――」
そこで、俺はハッとした。
サラの体が震えている。触れる前から、それがわかるほどだった。俺が戻らないかもしれないという恐怖と、戻ってきてくれたという安心感。その両方が一気に彼女の心を埋め尽くしていたのだ。顔を見ずとも、彼女の双眸から大粒の涙があふれているのが分かる。
俺は彼女の肩と頭に手を優しく置き、ポンポンと軽くたたいた。
「……俺は戻って来たろ」
「……うん」
力なく、小さく頷く彼女の頭。
「俺が約束破ったこと、ねぇだろ」
「……うん」
ガキの頃から、そうだった。お前をいじめていた奴も、有言実行で叩き潰してやったしな。
「だから、ただいま」
なぜだか、その言葉が最も言うべきものだと感じた。どこかで、誰かが言っていたようなありふれたもの。それなのに、俺の心の奥底――或いは、もっと深層意識の中で大切に保管されていた宝物――に在り続けた言葉のように思う。
必ず、今、この時に言うべきなのだと。
「…………」
「ほら、泣くんじゃねぇよ。ガキじゃねぇんだから」
「……泣いて、ない」
嗚咽を混じらせ、彼女は言った。思わず、俺は微笑んでしまった。
「まったく……世話の焼ける」
「う~……」
これでも、我慢しているのだろう。俺はなんとなく自分の頬を指先でかいて、言うべきセリフを考えた。
「無理すんな」
彼女の背中をトントンと撫で、言った。
「我慢してたんだろ? ……ありがとな」
「――! ……う……わああぁぁ!」
堰を切ったように、彼女の想いとともに声と涙が溢れた。
心配かけたんだな、俺が思っていたよりも。……だけど、なんとか過去を見つめなおすことができた。ラケルの死を、あいつとの約束を。
「やれやれ、泣き虫ちゃんだね」
ため息交じりに、フィーアは言った。
「もうそんなに泣きなさんな。無事戻って来たわけだし。まぁ、五分五分だったみたいだけどさ」
よしよしと、まるで子供をあやすようにして彼女はサラの頭を撫でていた。
「五分五分?」
なんのことだ? と首を傾げると、彼女は目を点にしていた。
「……聞いてなかったっけ?」
「何が?」
「…………」
彼女はアーサーの方へ顔を向ける。すると、アーサーはそれから背けるように後方に顔を向けた。
「えぇっと……まぁ、簡単に言うとさ」
フィーアはバツが悪そうに、頭をかいていた。
「あんたが飛び込んだのは、あんた自身の精神の深部ってところで、下手したらそこから戻れずに廃人になりかねないんだってさ」
「……は?」
俺は思わず、アーサーの方へ視線を向けた。おい、こら。いつの間にか遠くに逃げてんじゃねぇ。
「ったく、それなら最初っから言ってくれりゃいいのによ……。つっても、聞かされたからと言って、行かねぇって選択肢はないんだけどな」
俺はため息交じりに呟いた。
「だろうね。……それに、誰もあんたが戻ってこないなんて信じちゃいなかったさ。誰一人として、ね」
「……フィーア……」
彼女の言葉を聞き、俺は周りを見渡した。
ローラン、メアリー、カール、ディアドラ、ノイッシュ。
「君は大した男だよ、本当にさ」
ローランはそう言って、俺の肩に手を置いた。いつもの如く、余裕のある笑みを浮かべてやがる。
「本当にそう思ってんのかよ?」
俺もまた、笑みを浮かべて問い返した。
「おや、当たり前じゃない。じゃなけりゃ、一緒に戦ったりしないぜ?」
白い歯をむき出しにして、彼は親指を突き立てた。嘘偽りのない言葉だと、簡単にわかる。
「運命に立ち向かうための準備、できたようだね」
急にまじめな表情になり、彼は俺を見据えた。どんな時も、彼は真っすぐな瞳で俺を見る。俺の中の真意を探るかのように。だから、根拠のないことは、自身のないことは言えないような気がした。いや、言ってはダメなのだ。
「当たり前だ。……もう逃げねぇさ。安心して、背中を任せやがれ」
「…………」
ローランは目を瞑り、ゆっくりと頷いた。その表情は、安心しきったものであることが容易に理解できた。
「君を信じて正解だった。死ぬまで一緒に戦うよ。この世界のために」
彼は拳を突き出した。それが合図であると理解し、俺も自身の拳でこつんとそれに当てた。
「“あの時”のこと……今でも、思うことが多々あるよ。ラケルを……」
ディアドラはそう言って、顔を俯かせていた。ラケルを知っているのは……ここでは彼女とノイッシュだけだ。
「あの日のこと、ラケルのこと……口に出すと、二人は表情が一変してたから……ああ、絶対にあの子を思い出させちゃいけないんだって思ってた」
「…………」
「でも、ゼノがどれだけあの時のことを引きづっているのか知らなくて、無神経なこと言ったりした自分が恥ずかしい。……本当に……ごめんね……」
ディアドラは顔を紅潮させ、両手で顔を覆った。サラと同じように嗚咽を混じらせ、涙を零していた。
「おいおい、何言ってんだ。ディアドラが謝ることじゃねぇよ。……俺が悪いんだよ」
俺は彼女に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「俺がただ弱かっただけだ。あいつを死なせてしまったこと……俺自身の弱さを認識することが怖かった。いつか向き合わなきゃならねぇことだったんだ。……だから、泣くなよ。お前は、何も悪いことしちゃいねぇさ」
俺の弱さが招いたことだとしても、いつの間にか友人を追い詰めていたのかもしれない。ラケルの名を、あの時のことを禁句のようにしてしまったのは、俺なのだ。
「きっと、ラケルはこうなることが分かってたような気がするよ」
ディアドラの傍に立ち、ノイッシュは言った。
「ゼノなら乗り越えられる。ゼノなら、必ず強くなれる……そう確信していたんだよ。ラケルのことだから、根拠もなしに言いそうじゃない?」
と、彼は笑った。彼の笑顔の中に、ラケルとの思い出の一片が……あの日々のことが滲んでいるようだった。ラケルのことを知ってくれている人がいるっていうのに、俺はなぜ、それを一緒に共有しようとしなかったのだろう。喪ってしまった彼女を、共に語り合えるはずなのに。
今になって気付くなんて、俺は本当に馬鹿野郎だな……。
「……ああ。あいつなら、そう言ってる。絶対に」
俺は大きく頷いた。ディアドラもまた、涙を拭いながら頷いていた。
「とにもかくにも」
トントン、と俺の肩を突っつかれた。向き直ると、カールが苦笑していた。
「……無事でよかったよ。いろいろあったみたいだけど」
「いろいろありすぎたぜ。……これからが、本当の勝負みてぇなもんさ。SICよりもやばい奴らが相手だからな」
俺は思わず、彼と同じように苦笑を浮かべた。敵は世界を裏で牛耳っている奴ら。とんでもない組織と戦わなければならない。
「MATHEYにグリゴリ……つくづく、世界は俺たちが思っているよりも複雑怪奇ってところかね」
「そういうこった。これからも頼むぜ、俺たちの頭脳」
俺は自分の脳みそを指すようにして、ちょんちょんと側頭部に触れた。カールのハッカーとしての力が、これからも必要となっていく。それは間違いないことなのだ。
「死ぬなんて微塵も思ってなかったから」
そう言ってきたのは、他ならぬメアリーだった。表情をたがえず、いつも通りの仏頂面だ。ある意味、平常運転と言える。
「気付いたら勝手に行って、勝手に戻って来たってだけじゃない」
「ハハハ、まぁ否定しねぇよ」
彼女からしてみれば、そう思ってしまうのも無理はない。
「……それで、どうなの?」
と、彼女は腕を組んで首を傾げる。
「どうって、何が?」
「……セフィラ」
ああ、そういうことか。たしかに、今はまだティファレトを使役したわけではないから、はっきりとはわからない。
だが――確信がある。
あの異空間で、ティファレトの名を呼んだ時、世界に青空が広がった。今まで縛り付けられていたものが拭い去ったかのようだった。あれはきっと、ティファレトをかなり使役できるようになったために起きた現象だと思う。
「大丈夫。きっとな」
「……そう。それなら、安心した」
彼女は小さく頷き、くるっと後ろへ向いてしまった。いまいちどういう感情が彼女に沸いているのかはわからないが、多少は喜んでくれているのだろうということは、後ろ姿からわかることができた。
俺はアーサーの方へ視線を向け、疑問をぶつけた。
「なあ。奴ら……“グリゴリ”は何をしようとしてんだ?」
俺がそう訊ねると、アーサーは俺に顔を向けた。
「世界が滅びる。それを阻止するために――って言っていたが」
――滅びの道から世界を救う、そのために存在する――
あの女……シェムハザは言っていた。ディンだって同じことを……。
「それは間違いではない。世界はそう遠くない未来、滅んでしまう」
「滅ぶ……」
あの青年も言っていた。この次元は滅びる――と。
「――“崩壊の時”」
アーサーはそう言うと、上空に手をかざした。彼のその手が淡く発光したかと思うと、空間に巨大な映像が映し出された。
「これは……!?」
俺だけでなく、全員その映像に息を飲んだ。
――異様な光景だ。
「……ち、地球……だよな?」
宇宙空間に浮かぶ、青い星――地球。その一部を、巨大な闇色の渦が広がっていた。一つの大陸を呑み込まんばかりに広がるそれは、母なる人類の故郷を食い破ろうとしているように見えた。
「それこそ、具現化しつつある滅びの道だ」
その時、アーサーとは違う男の声が出現した。ハッとした俺たちは、その方向へ視線を向けた。俺たちの後ろに立っている、あの男は……!
「て、てめぇは……」
「――兄さん!?」
メアリーの声が響き渡る。
そう、俺たちを睨みつけるようにしてその場に立っていたのは――メアリーの兄・チャールズ=カスティオンだった!
「さて」
俺と奴の間に、いつの間にかアーサーが立っていた。まるで、瞬間移動をしたかのように。
彼はチャールズと俺たちを見据え、優しく微笑んだ。
「説明しよう。これからのことを――ね」
第三部、完
第四部へ続く――
「そうか、目覚めたか」
様々なコンピューターが並ぶ、無機質な場所。映像に映し出された人間――ゼノを見ながら、その男は呟いた。
「過去の喪失を見つめ、強固な意志を携えた。これまでの“調停者”たちと同じ流れだ」
その男――茶色の髪で、白いローブを羽織っている――は、自身の顎を指で触れながら笑みを浮かべた。
「漸く……ですな」
男の横に、老齢の科学者――現DRSTS長官・リヒャルト=ジーヴァスが立っていた。
彼の言葉に、男は笑みを浮かべた。
「ああ。漸く、始めることができるようだ。遥か太古の文明――“ロンバルディア”が遺した、あの計画……いや」
男は両手を大きく広げた。それは歓喜するかのように、己の威厳と存在を示すかのように。
「“アベル”の“創世計画”――始動の時だ」
第三部「魂と言霊が還る地」――完
第四部「滅びゆく世界へ」に続く