55章:ティファレト 神々の力の代弁者
涙が流れている。
その感覚が溢れていることに気付き、俺は目を見開いた。ここは――あの空間。星々の光が点在する、宇宙空間のような場所だ。
「どうして泣いているんだ?」
気配とともに、声が聞こえた。後ろに振り向かずとも、あの青年だということが分かる。
「なぜ……? そんなの、わかりきってることだ」
そう、わかりきっている。
ラケルが死んだ。殺された。
俺が弱いばかりに。何もしてやれなかった。彼女の前に立ち、ウルヴァルディから守る縦にさえなれなかった。
あの日――あの時、初めて抱いた彼女の体は、自分が思っていたよりも華奢で、今にも朽ちてしまいそうな細い体だった。俺よりも、ディンよりもずっと小さい体だ。なのに……。
なのに、ラケルは誰よりも強く、勇ましかった。誰よりも誇らしく、たくましかった。この体のどこに、それだけのエネルギーがあるのだろう。なぜ、自分を顧みようとしなかったのだろう。
俺に力があれば、俺に戦う力があれば、ラケルを死なせずに済んだ。
俺は自分の弱さを呪った。
史上最大値のCG値を持つチルドレン――そう評されていただけで、実態は同僚一人も護ることのできない弱者。
現実に打ちひしがれ、涙を流すことさえできなかったのだ。
「あの時、俺は泣くことができなかった。自分の弱さを……未熟さを、認められなかったのさ」
俺は自身の掌を広げ、見つめた。ごつごつとしていて、無数の傷跡がある。それを強く、強く握りしめた。何かを壊すかのように。
「どんなに目を背けても、どんなに時間が経とうと、俺はあの時の――俺自身の弱さから逃げちゃいけねぇんだ。なのに、それをせずに……ただ、あいつとの約束を……“サラを護る”ということだけに執着していた。俺が強くなるには、あいつの“死”を乗り越えるしかねぇってのに」
闇夜を仰ぎ見、目を細める。涙が頬を伝い、雫が落ちていくのが分かる。
「俺は……あいつと向き合おうとしなかった。弱い自分を、護れなかった自分自身を見るのが怖くて」
あいつの死を、何度も見つめたくなくて。
俺は歯を食いしばり、顔を俯かせてしまった。ここにはいない、彼女に謝罪するかのように。
「すまねぇ……ラケル。お前のことを……お前を死なせてしまったこと……俺には、今まで向き合う勇気がなかった。お前の死を、何度も理解したくなかった」
ラケルの名が呼ばれるたびに、彼女の顔がフラッシュバックする。俺に危険信号を鳴らすかのように、点滅して。それは俺の本能が叫んでいたのだ。心が傷つくと。泣いてしまうと。
「俺は弱い。……何も変われちゃいない。お前の死を……あの現実を見るだけで、馬鹿みたいに泣いちまうんだからな」
自嘲するように、俺は笑うしかなかった。なんとも滑稽な姿だ。泣いて、笑っているなど。
逃げていた。
俺はただ、逃げていた。がむしゃらに強くなろうとして、訓練と任務をこなして。強い言葉で他者を退けようとして、嫌悪感を抱かせて。
どう足掻いても、俺が弱い事実と、ラケルを死なせた真実は変わらない。
どうやったって、俺はそれから逃げられないのに。
「それでいいんだよ」
優しい声で、彼は俺の肩に手を置いた。暖かく、ずっしりと重みを感じる。
「人はもがき、苦しみ、現実に打ちひしがれる。何度も何度も壁に阻まれ、歩を止める。過去の楽しい想い出や、優しい言葉をかけてくれる人たちの中へ逃げようとする。……でも、それが人なんだよ」
それが人。
弱くて、逃げ出してしまうのが。
その言葉を、彼が言ったわけではない。なぜか、頭の中に流れ込んでくるようだった。
「人は弱い。脆く、愚かだ。……だけど、それ故に人は足掻き、歩を進める。その先に数多の苦難が待ち受けようと、喪失を何度も経験しなければならない運命だとしても、人は立ち上がり、足跡を作っていく。それができるのは、弱い自分を知った者たちだけだ」
弱い自分。
それでいいのだと――彼は言った。
「だから、強く在ろうと思うんじゃないか。誰かのために。君は、そうしてこようとしてきただろう?」
誰かのために。
――サラを護ろう――
――世界中の人を護ろう。戦争をなくしてさ――
ディンの声が、木霊する。俺の魂に、囁いている。
――お願い、約束して――
――サラちゃんを、護ってね――
ラケルの声が、あの時とは違う優しく降り注ぐ。俺の心を、確かに揺さぶる。
「運命は確かに存在するのかもしれない。君に課した運命は、他者のそれとは大きく異なっているかもしれない。……でも、君はそれでも立ち上がり、進まなければならない。それがきっと、彼女が……彼が君に求めていたことの一つなんだと思う」
俺は……俺は、進まなくてはならない。
サラを護ってと、ラケルは言った。
世界を護ろうと、ディンは言った。
そんなこと、俺にできるのかって……思う。だけど――
「そのための力が、俺には与えられている」
風が隙間に自然と入り込むように、その事実が俺の中で巨大化していく。
そう、俺にはこの力が与えられていた。求めようと、求めまいと。
いや、求めていたじゃないか。成し得るための力を。誰もが欲してやまない力を、俺は持っている。だからこそ、出来る可能性があるんじゃねぇのか?
「ああ、そうだ。俺は……俺たちには、与えられていた。その咎と一緒に」
言葉の意味はわからない。だが、不思議と俺の口から漏れ出たのだ。
そうだ。この力を、俺は知っている。
遥か太古の時代から、人に与えられし神々の力。
次元を超越し、その運命を破壊し再生する力。
「――“ティファレト”」
言葉は波紋となり、この異空間の闇夜に広がっていった。それはこの暗黒を流し去るようにしていき、代わりに透き通るほど鮮やかな青空が広げられていく。上も下も、どこまでも果てしなく続く空が。
上空を見上げると、雲が風に撫でられ揺蕩っている。世界と俺を包み込む陽光は、大地の微かな香りと暖かさで体を抱きしめる。空の青は不純物が何もない、穢れを知らない純潔の少女のように澄んでいる。
まるで、サラのように。
彼女たちのように。
「ゼノ」
顔を下ろすと、正面にあの青年が立っていた。
子供のような童顔で、耳に微かにかかる程度の長さの髪。白いワイシャツに、黒いズボンという出で立ちで、そのどれもがまるで新品のようにしわが付いていない真新しいものだった。
そして――黄金の瞳。
「その力は、かつて“調停者”という“神々の力の代弁者”に与えられていたもの。この次元に存在するありとあらゆる物質・存在に作用する究極のエレメント。君が望めば、星を破壊することも、この次元を閉ざすことだってできる」
それ故に、神々の力――と畏怖されている。
彼はそう続けた。
「そして、その力は“創造”と“破壊”、二面性を持つ。全ては一つのカード……その表と裏、“正”と“奇”。その力を持つが故に、今までの“調停者”は苦しみ、多くの喪失を経験してきた。……そして、間違いを犯し続けた」
俺の目をまっすぐ見ながら、瞬き一つすらせず、彼は言う。
「君はどうだ? その力を使い、何を成す? 果たして、過ちを繰り返さずにいられるかい?」
俺を試すように、言葉が流れてくる。俺の本質を見極めようとしているのだと、直感的に悟った。
何を言うべきか――この短時間で、俺は本能的に理解したように思う。迷う必要なんてないとわかってしまってか、不思議と笑みが零れた。
「……さっきまで励まそうとしてたってのに、そうやって問いかけてくるなんて卑怯な野郎だ」
少しだけ嫌味を交え、俺は続けた。
「俺のすべきこと――いや、やろうとしていることは、ただ一つ。……たった一つのことだけさ」
拳を強く握りしめた。今まで抱いていたものではない。俺の決意を、その本当の願いを、この手に握りしめ、俺は彼の前にそれを突き出した。
「俺はサラだけじゃねぇ、世界中の人を護りたい。……たったそれだけのことさ」
「……シンプルだね」
「それが一番難しいだろ?」
そう言ってやると、彼は大人びた笑みを浮かべた。
「そうだね。……だけど、君なら……君たちになら、それができるような気がしてくるよ」
遠く、遥か遠くを見ている。そんな目だった。
「君の持つ力は、彼らが言うところの“絶対なる破壊者”としての力。だけど、その力の本質は全く違うところにあるんだと思う」
たしかに、奴らは俺のことをそう呼んでいた。
「君は誰かを護りたいと――その想いが強い。君の中に輝き煌めく“調停者の力”こそが、その証拠だ。世界を破壊する力――次元を崩壊させる忌々しい力だと畏怖されているのに、その輝きは“護る力”そのもの。今までの“調停者”にはない、特別な煌めき。……きっと、君が“最後”なんだろうね」
最後の――。
言葉の片鱗に、安堵感のようなものが含まれているような気がした。
「ゼノ、よく聞くんだ」
その言葉の瞬間、彼の姿が揺らいだ。いや――微かに透けていっている? 背景の空の青さが、彼の体に映し出されている。
「彼らの言うように、世界は……この次元は滅びようとしている。それは遥か太古の時代、“星の意志”によって定められたものだ」
彼ら――というのは、グリゴリのことだろうか。いや、それよりも……“星の意志”によって……とは、どういう意味だ?
「それを逃れる術を、彼らは模索し続けている。……だけど、彼らの方法では多くの人が犠牲になってしまう。僕はそれを良しとはできない」
彼は拒否するかのように、小さく顔を振った。
「だから、君にお願いしたいんだ。この次元を救うために」
儚げに、彼は言った。ずっと、ずっと伝えたかった言葉。だけど、それを伝えては重荷になる――そんな想いが、その言葉と表情から微かに感じた。
「……救うために……?」
そう問い返すと、彼は頷いた。
「……そろそろ時間だね」
彼がそう言うと、徐々にその姿が薄くなっていった。
「お、おい!」
俺が彼の肩に手を伸ばすと、そのまま彼の体をすり抜けてしまった。
「あんたは一体何者だ? どうして、いろいろ知ってやがる!」
素朴な疑問だった。心のどこかで、もう彼に会えないのでは――そんな気がしていた。だからこそ、この質問をぶつけたのだ。
「言っただろう? 僕が何者かなんて、さして意味はない。君が何をするのか、何を成したいのか――それを知ることに意義がある」
俺のことを微笑ましく見つめながら、彼は言った。その眼差しは、親が子を見守る時のように優しく、暖かいものだった。
「こ、この期に及んで何勿体ぶってんだ! 名前くらい言いやがれ!」
この空間が閉じる。彼が消えれば、俺は目覚める。その確信があったのだ。
その時、彼は一歩だけ俺から離れ、目を閉じ、微笑を浮かべた。まるで想いを高め、それを言葉に乗せようとするかのように。
そして、彼は目を開いた。
真っすぐな双眸は、俺の心を見抜いているようだった。そして、その底に“真実”を置いてくるかのように、彼は言った。
「ゼノ、僕の名は――“セヴェス”」
――セヴェス――
その瞬間、俺の視界は真っ暗闇に包まれた。