54章:世界で一番、あなたのために③
何を、言ってんだ。
そう思いながらも、この時、初めて俺はラケルの表情をしっかりと見つめた。いや、見つめたというよりも、そうせざるを得なかったのだ。
「いつも足を引っ張って、さ……ホントに、ごめんね……」
「何、言ってんだよ……?」
俺は否定するように、顔を振った。弱いのはお前じゃない。お前なんかじゃない。
「足を引っ張ったのも、弱いのも……俺じゃねぇか。俺が判断を見誤ったばっかりに……!」
どこかで慢心していたんだ。今まで出会ったことのない強者だったとしても、ディンと二人ならどうにかできると。奴と対峙した時、すぐさま救援要請を出しておけば、ラケルを死なせなかったかもしれない。
かもしれない。
その可能性にすがったって、どうにもならないことは理解しているはずだった。だが、人はこんな時――抗いようのない現実に打ちひしがれた時、すがるしかないのだと悟った。
「……弱くなんか、ないよ。ゼノは……強いよ」
花緑青色の瞳には、俺の姿がはっきりと映っていた。それがわかるほど、彼女の瞳は透き通っている。その双眸はまだ命の灯を抱いていて、俺を捉えているのだ。
「あなたの……強さは……戦うだけじゃない。いつだって……みんなを、護ろうと……してくれた。いつも、いつも……」
ラケルが言葉を発するたびに、とめどなく血が流れ出る。
「それは……優しさっていう……強さ。誰もが持っていて……誰もが、その強さに護られてる……」
「ラケル、もういい! もう喋るな! 血が止まらなくなる!」
違う。どうしたって止まらない。これだけの傷の深さ、どうしようもないってことはわかりきっている。血が、命の素が、俺たちの意志に反して流れ出ていっている。広がる血だまりは、俺が見たくない現実を広げていく。その血の温かさが、俺から希望を奪おうとしている。
「私、幸せだよね……。その優しさに……気付けたんだから。私自身の強さで……大事な人を……大好きな人を……護れたんだからさ……」
ラケルは微笑んだ。呼吸は弱く、目も虚ろになりつつあるのに。
彼女はそっと、俺の頬に触れた。微かに、命の温もりが伝わってきた。しかし、それは消えかけた灯であることを一層と理解させるだけだった。
「お願い……約束して……」
「……約束?」
そう問い返すと、彼女は小さく頷いた。
「サラちゃんを……護ってあげて……」
サラを――。
なぜ、こんな時に、あいつを護れと言うんだ? どうして……。
「大事な人を……護りとおせるほどの力が、ゼノにはある……。だから……」
彼女の瞳から、涙があふれる。それは大粒のものばかりで、頬を伝って俺の肌にも触れた。――暖かい。彼女の冷えた体よりも。いや、これまで感じてきたものの何よりも。
「サラちゃんを護ってね……お願いよ……」
「何言ってやがる! そんなお願いをするな! なんでこんな時に、お前は他のやつのことを……!」
一言、たった一言でもいい。
生きたいと、そう言ってほしい。それだけを、言ってほしかった。
俺の願いと同じであると。そう言ってほしかったのに。
俺はラケルに生きてほしい。生きて、俺と――俺たちと一緒に戦ってほしい。このろくでもない世界で。
殺人兵器と言われようと、殺すだけしか能のない奴だと蔑まれても。
「……ゼノに逢えて、よかった。こんな運命、だと、して……も……」
手が震えている。彼女の指先が、俺に触れているその指先が。それを止めるかのように、俺は彼女の手を握りしめた。
「ラケル! 最後の言葉みたいなこと言ってんじゃねぇ! おい!」
俺がそう言うと、彼女は再び微笑んだ。どこか安心したように。
「……私、さ。ゼノのこと……大好きだよ」
――涙が、彼女の瞳を覆いつくさんばかりに溢れていた。
微かに紅潮した彼女の頬や、艶やかな唇を見て、俺はどうしてか――綺麗だと感じた。
だからなのか、俺は言葉を失った。かけるべき言葉を喪失してしまった。彼女の天使のような――包み込む柔らかい母のような微笑みを見て、俺が言いたいことが消えてしまった。
「だから……生きてね。生きて……みんなを……護っ、て……」
――あなたなら、それができると信じてるから――
何かを言い当てられた。そんな気がした。
そう思った瞬間、彼女の手がするりと俺の手から落ちていった。慌てて再び握りしめようとするも、さっき感じた彼女の暖かさは、温もりはなかった。
「ラケル?」
彼女は目を閉じていた。その瞳に、俺は映っていない。もう、真っ暗な闇しか映し出されていない。もう二度と、開くことがないのだから。
脈打つ心臓の鼓動が、感じない。彼女の魂が、生命の欠片が失われたことに、少しずつ、少しずつ気付いていく。
――気付きたくない。
でも、目の前にある現実が、怒涛に押し寄せる。
「ラケル……!」
彼女の体を抱き寄せ、強く、強く抱きしめた。そうした理由はわからない。理屈でわかるものでもない。魂のない器だけの彼女の肉体だとしても、ただただ、抱きしめたかった。
魂がある時にできなかったことを、今しているのだ。
それは俺の心が崩壊しないための、防衛本能だったのかもしれない。
「う…………」
走馬灯のように、彼女の姿が脳裏に浮かんでいく。次々と。
「ゼノ!」
怒る彼女。
「ちょっと、ゼノ!」
また、怒る彼女。
「ねぇ、ゼノ」
どこか恥ずかしさを抱いた彼女。
「ゼノ」
優しく、真っすぐな眼差しで見つめる彼女。
彼女は、いない。
俺を呼ぶ彼女は、もういない。
伝えたかったのに。
俺はお前のことを――
君のことを――
「ああああああああぁあぁあ!」
魂の赴くまま、俺は叫んだ。
この感情を、破壊したくて。
――ゼノ――
――大好きだよ、ゼノ――