54章:世界で一番、あなたのために②
「ラケ……ル……?」
掠れるような声しか出せなかった。だが、それは辛うじて彼女に伝わったのか、ラケルはすぐさま俺の方へ振り向き、俺の名を呼んだ。
「ゼノ!」
彼女は俺を何も言わずに抱きしめた。まるで時間が止められたのかのような――そんな一瞬のことだった。痛みも何もかもが、過去に置き去りにされてしまった。
「よかった……無事で」
微かに、彼女は言葉を漏らした。
「ごめんね、近くにいられなくて……」
「……え」
なぜ、謝るんだ。どうして、そんな顔をするんだ。今にも泣きそうな顔で、彼女は俺を見つめていた。
「それで? 貴様一人で、どうするつもりだ」
奴の声で、俺は引き戻される。視線を前方へと向けると、奴は地面に突き刺さっている3メートルほどのコンクリートの上で、俺たちを見下ろしながら座っていた。
「お前はそこの小僧よりも弱い。その小僧は俺より圧倒的に弱い。この状況で、俺に勝てると本気で思っているのか?」
クククと、奴はほくそ笑んでいた。俺とディン、二人でも全く歯が立たないんだ。ラケル一人で、どうにかできる相手じゃない。
「ラ、ラケル……」
俺は“逃げろ”――それだけを言おうとするも、体に力が入らないせいで、うまく言葉を発せられない。
俺のことはいいから、お前だけでも逃げてほしい。
ただ、それだけなのに……!
「そんなこと、どうでもいい」
ラケルは力強く、言った。俺から手を放し、奴の方へと振り返り立ち上がった。
「私は――私の心は、大事な人の傍に在る。あなたのような人には、わからない」
彼女は胸に手を当て、両手を重ねた。それはまるで、祈るかのように。
「人を殺すことでしか……人を傷付けることでしか価値を見出せないあなたたちには、私を超えることはできない」
そうだ……ラケルは、そう言っていた。
彼女の言葉の意味を、俺は理解できずにいた。どういう意味で言ったんだ? どうして、そんなことを言ったんだ――と。
「だって、こうして好きな人の盾になれるんだから」
ラケルは俺の方へ顔を向け、微笑んだ。子供の無垢な笑顔のように、それでいて大人が微笑みかけるようにして。
「……つまらんやつだ」
奴はスッと立ち上がり、指をパチンと鳴らした。その瞬間、目の前のラケルの姿が見えなくなった。
――違う、吹き飛ばされたんだ!
彼女が左の方にある壁に叩きつけられる音が、この殺風景な場所に響き渡る。その音がなければ、俺は現状を理解すらできなかった。
「この俺に人間の価値を諭すようなことを言うとは……虫唾が走る」
怒気を孕ませたような声で言い、奴は地面へ降りて俺の方へと歩き始めた。
「愛するもの、愛されるもの。慈しむこと、尊ぶこと。それは神が人間に与えたもうた“権利”。人が人であるための要素の一つに過ぎん」
ゆっくりと、近づく。
「だが、人はそれ故に空に憧れ、この宇宙を旅し続けているのだ。手に届かぬ神と星の愛を求めながら、彷徨い続ける哀れな生命体だ」
奴の言葉は、まるで独り言のようだった。それでいて、俺たちに語り掛ける――或いは、諭すように話していた。
「他者の心に寄り添うことで、その渇きを埋められるとでも? いいや、違うな」
奴は笑みを浮かべつつ、手で顔を覆っていた。
「常に求め続けているのさ。他者を蹂躙し、犯し、その権利と命の灯を奪い、欲望の赴くままに破壊と再生をし続ける。それが貴様たち“人間”の姿だ。きれいごとを語るような口で、俺の前で詭弁を並べるな」
一体、何を言って……?
奴は俺の前に立ち、宙に手を掲げた。無数の光の粒子が浮かび上がり、螺旋を描きながらその手のひらの上に集結していっている。
「貴様は用済みだ。――貫け、“イチィバル”」
それは光のみで形作られた、巨大な槍だった。これは――エレメントか?
これに貫かれれば、確実に死ぬ。その確信だけが、俺の脳裏に広がる。
「待ちなさい!」
声が轟くのと同時に、激しい炎の濁流が奴を覆いつくした。上空には――ズタボロのラケルの姿があった。
「狂い咲け、猛き焔――ヴォルディヘリア!」
彼女の叫び声とともに、中天が瞬く。あれは……エレメント? いや、属性振動が違うような――そう思う最中、波打つ巨大な焔が、まるでうごめく生き物のようにこの曇天に広がり、奴に襲い掛かった。
「――開け、“イチィバル”」
焔の濁流がまさに奴を覆いつくさんとした時、奴の持っていた巨大な光の槍は、一瞬にして奴を護るかのような円形となった。それに激突した焔は轟音を立てつつ、左右へと受け流されてしまった。
「貴様如きのエレメントで、この“イチィバル”を砕くことはできんぞ!」
「……だから何だってのよ! ――閻魔の審判、悉くを薙ぎ払え――“ウルテイル”!」
血をまき散らしながら、ラケルは再度何かを叫ぶ。再び中天が輝き、光が広がる。そして、そこからまるで雨のように光が降り注ぐ!
「甘っちょろいわ!」
奴は両拳を握りしめ、ラケルを見据えた。その瞬間、奴を中心としてエレメントが爆発を引き起こしたかのように、眩い光が弾けた。そこから引き起こされた爆風で俺は吹き飛ばされ、宙に浮いた。
「ゼノ!」
ラケルはどうやったのか、宙で方向転換し、俺を後方から抱きしめるようにしてキャッチし、地上へ着地した。
「待ってて。今、治癒術をかけるから」
「ラケ……ル……」
彼女は俺を地面にゆっくりと置き、両手を対象者である俺の胸元に添えた。噴煙で奴の姿は見えないが、治癒なんてしている暇なんてない。俺のことなんかより、早く逃げてくれ……! そう言いたいのに、まだ言葉が出ない。
「余裕だな」
大きく広がる噴煙を突き抜けて、何かが飛んでくる――だが、それは俺たちに直撃する寸前で轟音を立てて静止した。その時、俺は自分たちを覆いつくすドーム状の水晶体に気付いた。
これは……!?
「……くっ……!」
ラケルは左手で俺に治癒術を掛けながら、右手でその何か――あの巨大な光の槍を防ぐ水晶体を展開していたのだ。しかし、あまりに負担が大きいのか、彼女は口の端から血を流しながら、歯が割れんばかりに食いしばっていた。
「ほぉ……これを防ぐとはな。驚いたぞ」
奴は噴煙をかき分け、ゆっくりと歩み寄ってきていた。どこか喜んでいるように、顔は笑みを浮かべていた。
「それだけ潜在能力があったということだろうが……残念だ。ここで“廃棄”だと決められてしまったんでな」
そう言って、奴は小さく顔を振っていた。
廃棄……? それは一体、どういう意味だ……?
そう、この時、奴はそう言っていたんだ。今にして思えば、チルドレンが奴らのための計画であり、必要のないチルドレンだった――ということなのだろうと理解できる。
「ここで簡単に死ぬとでも思う?」
ふん、とラケルは鼻で笑った。力を目いっぱい使っている状態であること、苦痛を我慢しているための汗が彼女の顔に大量に浮かんでいる。そんな状態で、なぜ余裕をもって笑えるのだろうか。
「お前は――お前たちは死ぬ。虫けらのように」
「それを簡単に受け入れられるほど、私はいい子ちゃんじゃないよ?」
両腕を小さく震わせながら、ラケルは言った。
「……減らず口の絶えん女だ」
やれやれ、とでも言わんばかりに奴は大きなため息を漏らした。
「そういうところが、“奴”に似ている。俺はそれが気に食わん」
「…………」
「喜怒哀楽、感情に振り回される。いつの世も、その些細な心のすれ違いで他者を憎み、他者を妬み、己の欲望を満たすために破壊と殺戮を繰り返し続ける。居住地を宇宙に変えて尚、人はその愚行を止めることも、顧みることさえもしない」
吐き気を催すものを見るかのように、奴の言葉には憎悪だけでなく、もっと別の意味を含ませているように思えた。
「奪い続けた先、それが今の世界だとするならば、人類の歩み続けたこの五万年余りの道のりは、ひとかけらの希望さえも、歴史さえも遺さずに消え失せることとなる。人の矜持としての自尊心や生きた証さえも、何も遺らん」
ラケルはなぜか何も言わず、男を見ていた。どこか――怒りを含めているようで、それでいて悲哀も孕んでいるような、不思議な双眸だった。
「あなたは……あなたたちは哀れだわ」
彼女は苦しみの滲む表情に、笑みを混じらせていた。
「人は……未熟なの。どう繕ったって、どう足掻いたって、完璧になんてなれない。あなたの言う通り、幾度の世界大戦を経ても、人は同じことを繰り返しているかもしれない。……でも」
ラケルは顔を大きく振り、キッと奴に目を向けた。
「それでも、私は人の生きていく様が美しいって思う。未熟であっても、あなたに醜く映る足掻く様でさえも、それが人としての美しさの一片なのよ。不完全で、未完成……完璧になんて、ならなくていい……なれなくていい。人を美しいと感じる、その心を持ち続けてこそ……私たちは人として生きていけるのよ!」
彼女の言葉は美麗だ。
俺は彼女に憧れていた。その理由は、この言葉の――言霊の美しさだ。彼女の言葉には力がある。胸に去来するものがある。身震いがするようで、胸の奥底が震える。魂が共鳴しているかのように、その言霊を受け、涙を流しているかのように。
「哀れだと? その哀れな俺に殺されかかっているお前は、さらに哀れだろう?」
「……そんなことは、ない。私は……私が幸せになる方法を知っているからね!」
ラケルはそう言った瞬間、大きな叫び声をあげた。その咆哮は、俺たちを護る水晶体のエレメントを一斉に砕けさせ、巨大な光の玉となった。
「なに……!?」
「大地を穿て、星の言霊――断罪せよ、天空の御使い――“ケイオス・ノヴァ”!」
稲妻がほとばしるように、巨大な光から歪な線状の光線が放出される。かと思うと、大地を震わすほどの衝撃が響き渡るのと同時に、視界を覆う闇色の閃光が大気を貫いた。それは触れてもいない大地をひび割れさせ、粉塵が巻き上げられるほどだった。
この威力――エレメントなのか? 俺の知っているエレメントのレベルではない。
「ぐっ……! 悪あがきを……!」
奴は高速で移動しながら、断罪の光を避けていく。凄まじい破壊力を持つそれらは、奴を捉えんばかりに降り注いでいた。
これなら――奴を捉えられる!
いけるかもしれない――その思いは感情を昂らせ、俺は体を起こし、少しでも役に立てないかと思案した。ラケルのエレメントのおかげで、体の痛みはかなり消えていたのだ。
「……致し方あるまい。まだ、本調子ではないが……」
奴はくるっと俺たちの方へ向き直り、仁王立ちするかのようにその場にとどまった。この強大なエレメントを受けようというのか? 一体、何をしようとしているのか――それは後になっても、結果として何をしたのか……何をされたのか理解できなかった。
ただ、わかるのは、刹那の衝撃。
瞬きをする時間ではない。“一瞬にして”という言葉では表現のできない、それよりも短い時間の中で、曇天の景色に血桜が舞ったのだ。
「え――」
俺の前に、彼女が……ラケルが立ち尽くしていた。あの血桜は、彼女の体から降りしきったのだということに、当時の俺はまだ気づいていない。
ゆっくりと、事実が俺の脳内に入り込んでくる。乾いた砂に、水が染みわたるようにして。
光の槍が、彼女の体を貫いていた。大量の鮮血が、滝のように流れ出てきている。殺風景な地面を、その生々しい血の色が侵食していく。
「ラケ……ル……?」
微かに、彼女の名を呼ぶ声が出た。もう声は普通に出る。彼女が治してくれた。だというのに、この声帯は普段通りの声を出してくれなかった。現実に抗うかのように。これから怒涛のように押し寄せる現実を、受け入れないようにするために。
彼女の体が、足元からゆっくりと崩れていく。俺は彼女の体を後ろから受け止め、そこで初めてどれだけの攻撃を受けたのかを理解した。
――貫かれただけではない。
彼女の左肩から腰にかけて、大きな切り傷があった。それは“切り傷”というようなレベルのものではない。鎖骨は両断され、内臓は引き裂かれ、肋骨も砕けているとわかるほどの深さだったのだ。
嘘……だろ……。
な、なんでこんな……?
「まだ息があるか」
頭上から声が聞こえた。すぐそこに奴がいる――という事実よりも、その言葉でラケルはまだ生きているのだということに、漸く気付いたのだ。
ぼんやりと、目を開いていた。今すぐにでも閉じてしまいそうなほどに。呼吸は浅く、顔は青白くなっていた。
だが、まだ生きている。この絶望的な状況の中で、それがわかっただけで、微かに喜びを抱いたのは間違いなかった。
「脆弱で、短い時の中でしか生きられない不完全な人間もどき。お前はその中にあって、なかなかに美しい輝きを抱いた聖女だったと言える。多少惜しいが……老人どもはそれを理解はしないだろうさ」
奴は小さく笑っていた。それは穏やかさを孕んでいるように感じた。
「……何か言い残すことはあるか?」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。光の槍の切っ先が、俺の喉元に触れそうになっていた。しかし、奴の言葉は切っ先を向けられている俺ではなく、今まさに命が絶えようと――その現実を、この時の俺は受け入れることもできなかった――しているラケルに向けてのものだった。
「……お願い。ゼノ……たちだけは……見逃して……」
今にも途切れそうな声で、彼女は言った。それは懇願するようなものではなかった。当然の要求のように、強く、はっきりとした言葉だった。
「…………」
「もう……十分でしょう? お願い……」
どういう意味のものなのだろうか。だが、それを考える前に、思いがけないことが起きたのだ。
喉元に突き付けられた光の槍は、一瞬にして四散し消滅した。
「いいだろう。聞き届けてやる」
奴はそう言った。
「感謝するがいい、小僧。お前の――貴様らの命は、その女の命で救われたのだ」
……は?
ラケルのおかげで、彼女の命のおかげで……?
俺たちのせいで……?
俺は目を見開いていた。死ぬ? ラケルが?
奴はそんな俺を一瞥することもなく背を向け、後方へと歩み始めた。その瞬間、俺の中に一つの感情が噴火するかのように沸き上がった。
――怒りだ。
「てめぇ! 待ちやがれ!」
だめだ。叫んじゃだめだ。
どこかで冷静な自分が、そう言っている。だが、怒りが俺を塗りつぶそうとしている。言葉を――叫びを、止めることができない。
「てめぇ……! 絶対にぶっ殺してやる! 絶対にだ!」
できていない。かすり傷さえ、奴の纏う服にさえ傷をつけることもできなかった俺に、そんなことできるはずがない。弱気な俺を、現実を見ようとする俺を、怒りという感情に染まった俺が覆い隠そうとしている。
現実から逃れるかのように。
「てめぇがどんなところにいようと……どこへ行こうと、絶対に殺してやる! 俺はてめぇを、絶対に許さねぇ!」
叫び声で、喉がつぶれそうだ。そんなことさえ気づかないほどに、俺は叫んでいたのだ。
すると、奴は俺の方へ向き直った。フードの下から、奴の鮮血のような双眸が俺を見下していた。
「……助けられるとは、運のいいやつだ」
ため息交じりに、奴は言った。
「その女がいなければ、お前も――向こうで身動き取れない貴様の友人も、ここで躯となっていた」
奴はディンが吹き飛ばされた方向にも目をやっていた。かと思うと、再び俺に視線を向けた。俺はその目を――その目に宿るものを忘れない。忘れやしない。
「貴様ら自身の……己の不甲斐なさを、死ぬ時まで味わうんだな。血反吐を吐いて、俺に刃を突き立てて見せるがいい。――弱者が」
俺を憐れむ感情が、その双眸には映し出されていた。それは俺の中に、俺の心臓の奥深くで憎悪の炎を燃やし続けさせる薪になっていった。いつまでも、いつまでも、その言葉が反響するのだ。敵を殺す力となるために――。
「て……めぇーー! 殺してやる、殺してやる! 絶対に、殺す! 必ずだァ!!」
「……やりおおせてみるがいい」
俺を嘲笑うかのように、奴は笑みを浮かべて踵を返し、光の粒子となって消えていった。
「ふざけんな! 逃げんじゃねぇ! 逃げんじゃ――」
何もない宙に向かい、俺は叫び続けていた。どうしようもない怒りと、どうにもならない現実から逃れようとするために。
その時――
「ゼノ」
小さく、それでもはっきりと、俺を呼んだ声があった。彼女を抱える腕の破れかけた服をつまんで。
「……ごめん、ね。弱くて……」
「……え……」