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僕の映画

「結論から言おう。恋愛はクソだ。

 なぜ僕たちが紀元よりずっと前から、今この時代まで生きて繁栄しているかわかるかい。それは僕たちが繁殖するからだ。

 子を産んでその子がまたさらに自分の子を産んで、それの繰り返し。子を産む性質があったから、今この時代に僕たち人類は存在しているわけだ。僕たちはその延々の繰り返しの性質の先端から産まれて、これまでがそうだったから、これからもそうであるように、僕たち自身その性質を持っている。


 そしてその繁殖、それは当たり前に行われているわけだけど、当たり前に行われていることが必ずしも正しいことというわけじゃない。

 たとえば、君は『わたし、産まれたいなぁ……産まれてもいいですか?』と母親に頼んで産まれてきたかい? 違うだろ。もちろん僕も頼んで産まれてきてなんかない。

 子どもはみな、ひとり残らず、親の都合で産まれてきた。子どもが欲しいだとか、そういう行為をして妊娠してしまっただとか。親の人生設計や不注意で何の許可もなくこの世界に存在させられたんだ。


 そしていざ産まれてみたらどうだ。親の人生設計に合わせて、貧弱で未熟で何も知らない我が子の人生をコントロールして自分の都合の良い学校に通わせたり習い事をさせたり。逆に貧弱で未熟で何も知らないのに何もしてもらえない子もいる。

 勝手に親に産まされた子どもは、産まれてすぐ、自分を勝手に産んだ親に支配される。はっきり言って繁殖という行為は、少なくとも人権というもの侵害している」


十川(そがわ)くん、ちょっといいかな」


 穂園(ほその)が僕の口を押さえつけるように挙手をした。それは「待って」というハンドジェスチャーでもあった。放課後になってしばらく、僕と穂園は体育館の裏手にある行き止まりのような場所で向かい合っていた。

 左手にはフェンスの網目を埋め尽くさんと茂る蔦植物。背後にはこちら側とプールを隔てるコンクリートの壁。右手には体育館。普段ならば演劇部が練習に使っている場所だが、今日は体育館の舞台を使っているようだ。


「質問?」

「……まぁそうだね。質問してもいいかい」

「どうぞ」

「わたし、今君に告白したはずだよね」

「ああ。されたよ」

「なんて言ったか、覚えてる?」

「ばかにしてるのか……『好きです、わたしと付き合ってください』って言っていたよ」

「なんでその告白の返答が恋愛はクソだとか繁殖がどうとか子どもの人権がどうとかになるのさ……!」


 穂園(ほその)は怒りというよりも高まった感情が底から抜け出るような呆れ声でそう詰め寄ってきた。あいにくながら呆れるのはこちらのほうだ。


「僕は最初に結論を言ったじゃないか」

「いや、十川(そがわ)くん、きみ『付き合ってください』って言葉に対して『恋愛はクソだ』は噛み合ってないんだよ。わかるかい」

「いいや、察せられるじゃないか、それで。もう答えてると言っても過言じゃないよ。でも、ちゃんと理由を伝えようと思った僕は、より誠実に答えようとしているんだ。それに最初に結論と言ったものの、結論の先の結論があるんだ。それこそが君がはっきりとさせたい答えで、はっきりとさせる言葉なんだ」

「なら人権の話は飛ばして、その結論の先の結論を聞かせてもらおうか」

「つまり……」


 知性を持ち、またそれぞれの個体に権利が認められている人類にとって、繁殖がいかに倫理に反していて、恋愛は所詮繁殖に付随するシステムでしかなく、つまり恋愛――


「こら!」

「あたっ」


 思考を再構築している頭をぽこむと穂園(ほその)に殴られた。戯れ程度の強さであり、痛みなど微塵も感じないような殴打であった。しかし、それによってこれ以上の一切の逃避は許されないのだと、僕は自覚してしまった。


「また余計なこと考えてる。また言うよ。わたしと付き合ってください。それで答えは?」

「…………穂園に魅力がないってことはまったくないんだ。だけど…………。ごめん、断る」

「だめ」

「だめ…………?」

「うん。だめ」


 彼女は何を言っているんだ、というのが率直な感想だ。それに、告白に対する僕の拒否に対してたじろいでいるように見えない。穂園(ほその)と僕は中学一年生の時に出会い、そして高校二年生となった現在までの付き合いがあり、彼女が取り繕っているわけではないのが僕にははっきりとわかっていた。


 そして彼女は演劇部に属し、また現部長であるが、演技は稚拙。彼女の演技を人前に晒す時、僕はいつも苦しいため息をついていた。

 つまり彼女は僕に告白を断られたことに対し、本当に動揺していないし、誤魔化してもいない。想定していたのだろう。


「だめってどういうこと? 僕は今断ったはずだろ?」

「断ったからなんなの?」

「なんなのじゃないだろ! こっちは断ってるんだ!」


 がちゃりと体育館側の扉が開かれた。僕と穂園は同時に扉の方を向いた。


「穂園なんでこっちいるんだよ。十川(そがわ)も」


 現れたのは三年生、演劇部の副部長の男だった。背が高く細身で、細すぎることはなく、爽やかな表情を崩さない。人の第一印象が見た目が五割。彼は常にその五割を獲得できる人間だった。彼こそ、その容姿とさらに演技力によって常に主人公を任される部員だが、しかし容姿以上に人格が優れている。


「今大事な話しをしてるから戻ってください」


 穂園はそんな副部長を返そうとする。

 しかし僕は、話が堂々巡りの入り口にあることを感じ取っていて、どうにか彼を巻き込んで早々に抜け出そうと考えていた。僕はあまり、時間を無駄にしたくないたちだ。


「あれ、もしかして穂園説得中だった?」

「説得?」


 告白のことだろうか。たしかに、はっきりと断った相手に対して食い下がるのは説得だと言い表せられるだろう。

 副部長は扉の方からすたすたと歩いてきて僕たちの隣に並んだ。


「いやさ、十川が演劇部戻ってくるように説得するって言ってたんだよ」

「あー、僕と穂園が話してたのはその話ではないですよ」

「え? 穂園おまえ十川(そがわ)説得してくるから部活遅れるって言ってたじゃん」


 その問いに穂園が答えるより先に、僕は副部長の口から出た言葉をここで否定しておく。


「それと演劇部には戻らないですよ」

「まぁ……いやぁ……そうだよなぁ……。おまえがやめたのって、なんというか部との方向性の違いってことだもんな。俺は無理に戻すつもりはないんだけど……」


 副部長はこいつが黙ってないぞとでも言いたげな視線を穂園にやる。そして穂園がしゃべりだす。


「副部長ごめんなさい、あれは嘘です。今は十川くんに告白してるところです」

「なんで!?」

「それで僕は断ったんですけど」

「なんで!? 三年生で容姿も良くて演技も上手い俺を差し置いて、人望だけで二年生で部長やってるようなやつだぞ!? どこがダメなんだ!?」


 自分が告白を断られたのかというほど、僕を問い詰めてくる副部長。しかしながら、もう理由はすでに話している。


「穂園を持ち上げるのか自分を持ち上げるのかはっきりしてください。ついでの穂園への当てつけもやめてください。とりあえず、告白は断ったんですけど、なんかだめとか言い出して返してくれなさそうだったので、引き取ってください」

「そうだよな。穂園はそういうところあるからな。いや、でもなんで?」

「恋愛はクソだからです。恋愛の行く先は繁殖ですよね? しかし子供を産むという行為は人権を侵害しています。なぜかというと」

「やめろやめろ! お前のそういうのはいい! とりあえず、穂園は引き取る」


 副部長は穂園の脇下に腕を通してまるで猫でも持ち上げるように拘束した。「副部長! やめてください!」と穂園は今にも暴れ出しそうだ。


「十川、今のうちに行け」

「助かりました」

「そういうことするんですねー! 人の恋路邪魔するような人なんだー! 十川くんも行くな! 告白は終わってないぞ!」


 穂園は喚く。が、僕にも都合はある。


「それじゃあ、副部長。お先に」

「こらー!」


 つい最近まで同じ部の先輩だった副部長に、先に部活を上るかのように頭を下げた。


「映画、頑張れよ。応援してる」

「ありがとうございます」

「十川くん!」


 僕は体育館横を後にした。


 その足で職員室へ向かい視聴覚室の鍵をもらう。ここが現在の僕の部室にあたる。

 僕は手狭な準備室の中で手早くスクリーンとプロジェクターの用意をし、映画を上映した。


 映し出されるのは、ふたりの男女のラブロマンスだ。

 美しく、清潔で、純粋。儚く、悲しく、なにより優しい。


 現実の恋愛は美しくなどなく、不潔で不純。

 しかし、悲しみや痛みだけは同じようにある。


 きっと僕が受け入れられる恋愛というものは、平面の中にしかないのだろう。

 映画の中ならばすべてが真実だ。だから、すべてが真実の映画に憧れるのだ。


 だから僕は、自分で映画を作りたい。


 そして役者である父に、僕の映画に出てほしい。



  ◇



「それじゃあこれから、わたしが恋愛というものがいかに素晴らしいか授業しよう」

「結構」

「結構……なに?」

「断ってるんだよ。その素晴らしい授業は結構です、やめてください、って」


 月曜日の朝、登校する僕の隣には穂園が並んで歩いていた。穂園に告白されたのは先週の金曜日で、土日を挟んでこうなっている。

 同じ中学校出身となれば、もちろん学区は共通しており、つまり、家が近い。僕も演劇部であった時期には、朝練のために、ほぼ毎日のように一緒に登校していた。しかし僕が演劇部を退部した今、隣に穂園がいるというのはおかしい。彼女は朝練に出ずにここにいることになる。


「……穂園、演劇部の朝練は?」

「個人的な事情があって休んだんだ」

「そうか。まぁそういう日もあるよ」

「個人的な事情ってなんだと思う?」

「そういうの色々とあるんじゃないかな。僕にわからないし、当てずっぽうで言っても良くない」

「わからないふりは良くないよ十川くん」


 視界の端で穂園の視線が僕を射抜く。僕は努めてその視線に対しても素知らぬ顔をした。そんなことは穂園も承知のようで、彼女は少しだけ顔を寄せ、言った。


「……きみと一緒に登校したいから、だよ」


 僕は監視カメラのようにゆっくりと平坦に、穂園とは反対側の方を見た。今彼女を視界の中に入れると精神的悪影響があることを直感的に悟っていた。


「ねぇ十川くん……わたしの方、向いて」

「そういえば、穂園は今演劇部に入ってるけど、プロの役者目指してるの?」

「………………」

「ごめんごめん。会話の形式上訊いただけだよ。僕個人の意見なんだけど、何事もプロなんて目指さないことが大多数の人間にとっての幸せの第一歩だと思うんだよ。

 穂園は今演劇やってて楽しいだろう?楽しい時期だけで満足するのが正解なんだ。スポーツとか音楽とか絵とか、本当は趣味でいいんだ。どれも楽しくやってるうちだけが楽しいんだ。


 穂園はプロ野球の試合見てるおじさんとか見たことある? ツイッターとかで試合の実況してる人とかでもいいんだけど。

 そのリアルタイムで見てるおじさんたち、選手のことめちゃくちゃに言うんだよ。なにやってるんだよとか、次コイツかよとか、もっとこうやれよ、とか。どこの球団のどの選手も中学で誰より頑張って、一番凄くて、高校でも一番頑張って一番すごかったと思うんだ。言ってしまえば天才だよ。

 そんな天才たちを集めたチームがある。それも、いくつも。そしてそんなチーム同士で戦うんだ。なんていうか、とんでもなく果てしない話だけど、そんな天才たち同士の戦いでも、さっきみたいにおじさんたちに好きなように言われるんだよ。

 プロを目指すかどうかの話で重要なのは、そんなおじさんたちに文句を言われる選手たちはプロで、本気でプロを目指してなれなかった人は、想像したくないくらいいるんだ。


 そういえば父さんが夢を叶えるのに必要なのは『心と体と人』の三つのうち最低ふたつを持ってることって言ってたんだ。心は、志の高さとか忍耐力とか計画性とかで、体はずばり才能。人ってのは環境で、夢を応援してくれる親とか恋人とか会社とか。

 野球とか見てるとプロの中でも一線でやっていくにはこの三つ全部持ってないとだめだし、三つ全部のクオリティも別格じゃないとだめなんだろうなぁって思うよ」


「ちょっといいかな、十川くん」


 穂園が僕の言葉を制しようとしてくるが、僕は止まる気がない。学校に着くまで捲し立てて穂園がしゃべる機会を得ないようにする腹づもりだ。


「何より、穂園は演技が下手だからね」

「――顔真っ赤なままだよ、十川くん」

「嘘は良くない」


 僕は穂園とは反対側に顔を向けた。


「あれ、十川くん? どこ向いてるの?」

「隣にいるわけだから別にどこ向いてようと声は聞こえるなと思って」

「聞こえづらいよ」

「なら大きな声で話すよ!」

「十川くんお願い、こっち見て。照れてる十川くんの顔もっと見たい」

「照れてないから見せられないな」

「くすくす。きみは正直で面白いなぁ。本当は別に赤くなんてなってないよ」

「そんなことはわかってたさ」


 揶揄われていたのだとわかり、僕は無表情を被って正面に向いた。


「十川くんはもしかしたら本当に顔が赤くなってるのかもしれないって思ったから顔隠したんだよね?」

「さぁ、どうだろうね」

「ってことは、照れてるって実感があったわけだ。そして照れてる顔をわたしに見られることを恥ずかしがった。そうだろう? ね、十川くん……」


 穂園が僕の袖の端を摘んだ感触。


「放課後も一緒に帰ろ」

「タイミング次第だね、そういうのは。ちょっと早く学校に行かなくちゃいけないことを思い出したから先に行くよ」


 僕は早歩きで穂園を追い抜いた。

 なぜだか、今日は早く学校に着きたい気分になったのだ。


「こらー! 逃げるなー!」



  ◇



 高校に入って半年後くらいに、穂園は僕のことが好きなのだろうとわかった。それは、僕でもわかるように穂園が意図して示していたのだろう。

 だから穂園が告白してきたのは、僕への想いがピークまで高まったとか、今すぐ伝えたくて仕方がないとか、そういうものより、「痺れを切らして」告白したと捉える方が自然だった。


「ない……」


 学校中の教室の鍵が下げられた棚に視聴覚室の鍵が見当たらない。

 放課後すぐに職員室にきてみれば目当ての教室の鍵がなく、僕は動きを止めた。


「視聴覚室の鍵?」

「あ、はい。誰か持っていきました?」


 鍵が下げられている棚のすぐ近くに座る、交流の浅い教師が声をかけてきた。


「さっき女の子の生徒が持ってったよ」

「……そうですか、ありがとうございます」


 十中八九穂園だろう。いや、百発百中穂園だこれは。

 職員室を後にし、いつものルートで視聴覚室の扉の前へ。扉を開けると、いつもなら暗い室内は明るくなっており、スクリーンの準備もされていた。そして大学の講義室を思わせる奥に行くほど高くなる座席の中頃、穂園が顔を綻ばせてこちらを見ている。

 倍率一倍の予想が当たっただけだというのに心に浮き上がった安堵と歓喜、僕はそれを黙殺した。


「そうか、今日は演劇部休みの日だもんね」

「その通り!」

「朝練はあるはずだけど」

「その通り! でもわたしは個人的な事情があったから、正当に休んだよ」

「……」


 僕は準備室で次に見る映画のセッティングを済ませ、視聴覚室の電気消し、穂園のふたつ隣に腰掛けた。

 オープニングロゴの映像がはじまっている。穂園はゆっくりと席を移動し僕の隣に座った。僕たちは次々と流れる企業のロゴを眺めながら本編が始まるのを待った。


「穂園、朝練は休むべきじゃない。君は部長なんだから。演技が下手とはいえ」

「十川くんのせいで演劇部崩壊の危機だよ、まったく」

「僕のせいじゃない。自分で選んだ部活だろ? サボるのはだめだ。君はそんな覚悟で演劇部に身をおいているのかい? まぁ、本気で役者を目指すなら養成所か劇団に入るだろうし、つまりそういうことなのかもしれないけど」

「演劇部を選んだのは十川くんがいたからだよ」


 僕は確かめるように穂園の横顔を伺う。

 彼女はまっすぐスクリーンを見ていた。


「きみがいないと楽しくないんだ」


 寂しい声で彼女は言う。

 打って変わってこう続ける。


「でも、きみといるとぜんぶが楽しい」


 映画が始まった。


「これが恋愛の素晴らしいところなんだ。わかるかい、十川くん」





 僕たちはもう、別れ道の十字路まで来てしまっていた。映画が終わり穂園の「帰ろう」という言葉以降、どちらも話さなかった。

 なにか、別れどきに何かを言わなくてはならないとわかってはいたが、なかなかそれらしいセリフを組み立てられなかった。


「十川くん、恋愛の素晴らしさについては理解できたかい?」

「まったく」


 沈黙を破ったのは穂園だ。


「みんなやってるよ?」

「みんなやってるからいいとは限らないじゃないか」

「一回だけなら大丈夫だよ?」

「僕はとりあえずで付き合うような人間全員嫌いだし、何人とも付き合って来てそれを『経験』と呼んでる人間も全員嫌いなんだ。だから一回とかじゃないんだ」

「合法だよ?」

「さっきから麻薬の話してるだろ!」

「ほぼ麻薬だけど恋愛は合法だから。だから素晴らしいんじゃないか。合法だし、危険性も……そんなにないし、幸せな気分になれる」

「それじゃあ帰る」

「あー! また逃げるのか!」


 穂園をおいて、僕は自宅の方へ続く信号を渡る。


「明日ねー!」


 そんな穂園の言葉に右手を上げて答えた。



  ◇



 曽祖母の家に帰宅し、仏壇の前に正座する。

 そして飾られた父の遺影を眺めた。


「おれは役者になるために生まれてきた」と嘯き、ついには小さな映画の脇役にしかなれず死んだ僕の父。


 僕が、いわゆるプロの監督になどなれるかどうかは、わからない。夢に生きるのは早々にやめて、普通に生きた方がいいのだろうか。まさに、僕が穂園に説いたように、楽しいうちに終わらせるべきか。


「……父さん、どうしたらいい?」


 平面の中で笑う父は答えなかった。



  ◇



 夜に冷やされた冷水みたいな朝の空気の流れが頬と腕にあたって、それに心地良さを覚えていると、制服の穂園が家から出てきた。


「遅れてごめんね、十川くん」

「ちょうどだよ」

「今日は映画合宿、ってところだね」

「穂園、今日は朝から五本映画を見るだけで泊まる予定はないはずだろ」

「気分は合宿なんだよ」


 休日の朝は、雑音たちがまだ眠っている。

 学校を目指して車の足りない街を歩く。

 ユニフォームのまま学校へ向かう運動部たちをまばらに見ながら、僕らは高校についた。


 職員室の鍵を借りて、視聴覚室の扉を開く。

 ここは、薬品なのか埃なのか、どこが鋭くざらついた匂いがする。

 母が出て行ってから僕と父は家を移り、父が死んでから僕は父の両親の家に移った。

 父とのふたり暮らしをしている間、母の欠けた家は仮住まいのような気がしていた。今の祖父母の家もやはり仮住まいなのだ。


 しかしここは、ざらついた匂いに満ちて彼女のいるこの場所だけは、「帰ってきた」のだと感じられた。

 席の取り合いをする客はいないのに我先にと穂園は一番いい席を取った。穂園と目が合う。


「十川くん、きみは映画じゃなくてわたしのこと見にきたの?」

「え?」


 肩をすくめて誤魔化し、さっさと準備を終わらせた。電気を消しスクリーンの明かりだけがある中、穂園の席のふたつ隣に腰掛ける。穂園は懲りずに、席をひとつ横にずれて僕の隣に座った。


 僕たちは静かに、始まるのを待った。




 昼食は校外のコンビニで買った。

 中庭の端のベンチでふたり食事をとっていると見知った顔が現れる。


「お、最近サボりがちの部長と元部員コンビ」


 僕と穂園はそれぞれ演劇部の副部長におはようございますと挨拶をした。


「副部長、今日は部活ですか」

「まーさか。委員会だよ委員会。そもそもうちの演劇部は大会に出るようなガチガチのじゃないからお前が抜けてからも休みの日に部活はないんだよ。でも? 朝練はあるんでぜひ部長様には参加してもらいたいですけど?」

「穂園は部長なんだし朝練は行きなよ」

「行ってるよ! 半分!」

「全部来い!」

「でもわたし家で自主練やってるんだよ」

「知るか!」

「でも最近のわたしの演技力! 部長の肩書きに恥じないものになってきてますよね!?」

「部長に必要なのは演技力じゃねぇよ」


 なぜだろう。

 穂園と副部長がたわいのない話を楽しげにしているだけなのに、穂園に楽しげにしないでほしいと、つまらなく感じてほしいと祈ってしまうのは。


 その後副部長は僕たちに自販機でお茶を買ってくれて去って行った。

 僕たちは視聴覚室に戻り、午前中に見た映画の感想会を始める。僕はストーリーの要約、気に入った構図のスケッチ、気に入ったセリフのメモ、考察、その他さまざまな気付きと感想の書かれたノートを見ながら穂園と感想を話す。

 穂園が鑑賞しながら拾えなかった要素を伝えたり、あるいは穂園の話から気づいたこと、穂園に話して自分で気づいたことなどをさらに書きこんでいく。


 映画は観るだけで楽しい。けれど、観た後に同じ世界観とストーリーを共有した誰かとその映画について語り合うのは、鑑賞するのとは違った面白みがある。

 映画はきっと、こうして映画について話すことすら作品なのだ。


 映画を観ている間……いや、映画の世界にいる間、僕は楽しくて仕方がない。

 でも、こうして映画について彼女と話している間も、楽しくて仕方がない。

 この楽しさ、この場所だけは、母や父のように僕の目の前から急に去ってしまわないでほしい。


 感想もひと段落つき、次の映画を上映する準備を済ませた。再び電気を消し、スクリーンの明かりだけを頼りに席に向かう。

 迷わずと言えば嘘になるが、迷うそぶりを隠して、僕は穂園の隣に座った。穂園がこちらを見て目を細めるのに気付きながらも、気づかないふりをした。




 エンドロールが流れきった。

 今日最後の映画だ。

 暗い視聴覚室に余韻だけがある。


「ねぇ」


 映画が終わってもなお漂う空気を撫でるみたいな声で穂園は言った。


「なんで恋愛はクソだなんて思うんだい」


 頭の中をうねる思考が漏れ出ないように目を閉じる。

 口からこぼれ出す。


「僕は当たり前のことが苦痛なんだ。みんな、付き合っては別れる。当たり前のことだけど、それってとっても不幸なことのはずだ。全員ではないだろうけど大抵の人は付き合っている相手が最愛の人のはずだろう?

 でも最愛の人に失望して、それで別れる。そうして次、また最愛の人を作る。『最愛』のはずなのに何人もいて、替えがきく。世界で一番とか世界で唯一の感情を、次の人、また次の人に向ける……」

「うん……そうだね」

「多分みんな、そんな風になるつもりはなかったんだ。不幸にもそうなって、さらにその不幸を繰り返してる。

 それで、大勢の人間が同じことをしているから当たり前のことにしている。当たり前だからといって正当化するのも、肯定するのも、違う気がする。

 それができるのが大人だって言われたとして、僕は納得できない。大人だからって言葉を言い訳に使いたくない」

「前に言ってた子供を産むことは人権侵害だー! っていうのに似てるね。世の中の常だからってそれが正しいわけじゃないっていうのは」

「うん、そうだ。僕はみんなが受け入れている当たり前を受け付けないんだ。だから僕はフィクションの恋愛が好きだ」


 頭の中に走馬灯みたいに現れ消える映画のワンシーンたち。

 そして、それを塗りつぶす女性の影。


「フィクションは純粋だろう? 真っ直ぐで、すべてが嘘だから嘘がない。痛みがない。問題は解決する。面白さのない裏切りなんてない。まぁ……バッドエンドだってあるけど、そこには納得できる理由がある……」


 母親の顔が浮かぶ。


「きっと僕が作る映画の中の妻は、夫の夢を馬鹿にしたりしない。あんな風になるななんて子供に言わない。不機嫌さを出してその場を支配しようとしない。金切り声を上げない。抵抗しない抵抗できない夫を罵って心を傷つけたりしない。僕をぶったりしない。最愛の夫と子供を捨てて出て行ったりしない。夫の葬式に顔を出さなかったりしない」


 どんな映画よりも強く濃い記憶が体の中の全部を塗りつぶして目から溢れ出してくる。


「映画の中だったら、母さんは……父さんと僕を…………」


 鼻水を啜り上げる。

 だめだ、もう言葉を作り出せる余裕がない。


 僕は流れ出る体液を無様に拭い、羞恥心に苛まれるだけだった。ああ、いやだ。


「暗いままでよかった。泣いてるかどうかわたしには見えない」

「…………そうだね……演技かも。僕は演劇部で一番演技がうまかったから」

「確かに。きみは演劇部のエースだったからねぇ」


 幼い頃から父さんの演技の練習を見ていた僕は、高校から始めた他の部員よりもよっぽど演技がうまかった。それに、映画への熱意が極めて強く、演劇部のコミュニティで浮きこぼれていた。

 僕は熱意のない部員たちになんの望みも見出さなかったし、一種の見下しであるその感情を周りは察知していただろう。ただ高校生活を楽しみたいという彼らの正当な権利を、その先しか見ていない僕という存在が歪ませかけていた。


 そして僕は演劇部を辞めてしまった。

 夢を追うことで周りに迷惑をかけることの代償がどのようなものか、僕は知っている。


「平気かい」

「ああ、ありがとう、穂園。もう大丈夫」

「でも、よかったじゃないか。ここに居るのがわたしだけで」


 よくないさ。こんなところ、君に一番見られたくなかったんだから。




 穂園と歩いて帰宅する。

 空はもう青色を失っている。


「ねぇ十川くん、明日は」

「穂園」


 歩いている間一言も発さなかった僕は、口の中で何度も反芻した言葉をもう一度組み立てて再生する。


「僕は君と付き合えない」

「……そんなの、十分わかってるよ。わかってるから」

「君は僕と一緒にいることで僕が絆されるのを待っているんじゃないか」

「…………だめかい?」

「ごめん、だめだ」

「……でも……でも、一緒に映画を見るくらないなら……いいだろう? 一緒に登校するのも……迷惑はかけないから。嫌な思いさせるつもりは、ないんだよ。なにか……なにかやめてほしいところがあるなら言って、わたしやめるから」


 穂園は見るからに焦っているようだった。

 彼女は近づいてくると僕の袖を摘んで、見上げてくる。察しのよい彼女は、あの告白した時と違い余裕がない。僕に揺らぐ余地がないから。


「十川くん、わたし、きみと一緒に過ごせるだけでいい。きみに期待したりしない、失望もしない、裏切ったりしない、むやみに否定なんかしない」

「穂園、君は僕みたいなのに関わらない方がいい」

「最近はごめんなさい。十川くんにしつこくして。ごめんなさい」

「……勝手な話なんだけどさ、君のこと全然嫌いなんてことないけど、関わるのをやめてほしいんだ」

「嫌いじゃないなら一緒にいてよ!」


 らしくなく、穂園が声を荒げた。

 脳裏には金切り声を上げる母親が連想されて、僕はまた現実から一歩後ずさった。


「ごめん、僕、多分いま間違ったことをしてると思う」

「そうだよ……!」

「でも……これも、当たり前なんだよ……。思いが通じないのも、学生時代に好きな人と上手くいかないのも」

「ちがう!」

「……今までありがとう」

「待って十川くん!」


 穂園は立ち去る僕についてこようとしたが、僕が一度無言で振り返ると、顔を歪ませて立ち止まった。



 父はよく「おれは役者になるために生まれてきた」なんてうそぶいていた。

 こんな僕は一体何のために生まれてきたというのだろう。

 自分の価値観で相手を否定するなんて、やっていることは母と同じじゃないか。



  ◇



 僕が在籍する映画研究同好会は、いよいよ映画の制作に取り掛かることにした。

 同好会のメンバーはもちろん僕ひとりだった。

 幸運なことに、映画はひとりでも作ることができる。


 僕は視聴覚室にて機材の持ち込み許可証を書いていた。校内に自前のカメラや三脚を持ち込むには手続が必要なのだ。

 さらに面倒なことに、高校生の映画祭に提出する映像に映る人間には全員許可を取らなくてはならない。この映像が校内のみで上映されるだけなら大きな問題ではないが、校外で公になると肖像権への配慮が必要になる。面倒だ。

 そうなると人がなるべく映らない時間、場所、を必要とし、作れる映画の内容にも大きな縛りが生まれる。


「校外で撮影すると……一般人が面倒だな。これはもう校内をメインで撮るしかない。それにあまりにも長尺にもできないし……。脚本、めんどうだなぁ」


 演劇部でいくつか脚本を書いていた経験はある。演劇でなら、いくらでも観客に場面を想像させることができる。星から星への移動するなんてことすら演劇なら違和感なくできてしまうのだ。

 しかし映画は映像がすべてだ。どんなでっち上げも映像の中で説得力を持たせなければならない。

 僕にCG技術などないし、下手にCGを使って「アマチュア特有の味」を狙うつもりもない。本気で取り組み、それでも出てしまうアマチュア臭ならよいが、杜撰さを味だと言って開き直りたくない。


 真摯にやろうとするほど、視野が狭まっていく感じがした。

 結局その日のうちに脚本は完成せず、完全下校の時間迎えた。


 ここ最近は隣に人がいたが、今日は久しぶりのひとりだ。

 裏門へ向けて歩いていると、体育館の傍から穂園と副部長が話しなが出てきた。気にせずそのまま歩いて行くことも考えたが、僕の足は反対へ向かい、いつもとは反対の正門から帰ることになった。


 脚本はどうしても高校生を題材にしたものになるだろう。演者は、演劇部から借りられればよいのだが、運の悪いことに僕は演劇部の全員とちょっとした確執がある。

 副部長は随分と僕の考えを汲み取ってくれているが、彼に手伝わせると演劇部内の空気が悪くなる可能性がある。なので、本当に演技をやったことのない者を使うか、あるいは演者は俺ひとりか。


 ひとり。ひとり、か……。

 主人公ひとりだけでどのような話が作れるだろう。


 穂園と副部長のふたりが話しながら歩いていた光景がよぎる。

 そうだな、学園での恋愛なら、話を作るのは簡単なのだが。


「……」


 少し嫌な気分になり、一度思考を閉じる。

 演者はひとりか。僕の嫌う、開き直った杜撰さにつながらなければいいが。登場人物がひとりだけという演出に必然性が必要だな。


 進んでいるのか、進んでいないのか、自分でもいまいちわからないまま、僕は家に着いた。



  ◇



 脚本が決まらないまま、二か月が経った。

 それだけの時間何も進まなければ気が滅入るのは当たり前のことだが、その当たり前をより推し進める出来事があった。

 それは穂園と副部長が二人でいるところを何度も見たことだ。同じ部活で部長と副部長の仲であれば、ふたりが一緒にいることはそう不思議なことでもない。

 だが、ふたりが談笑している様子を見れば察することができた。


 帰りのSHR。

 映画に取り掛かりたいので早く終われと思う反面、どうせ今日も進まないんだろうなという心理的圧迫の中、解散となる。


「十川聞いたか〜?」


 席を立つ前に、同じクラスで演劇部の男が話しかけてくる。

 僕たちの繋がりなどもうないので、訝しむ。


「なにをだい」

「副部長と穂園、付き合ってるってさ」


 脳内で何度も繰り返し考えていたことだったが、ついに、他者の口からそれを聞いてしまった。心臓を中心に、体のすべてが鈍く重くなる。

 ふたりがそんな関係なのではないかと予防線を何重にも張るみたいに何度も思い至っていたのに、どれもこれも蜘蛛の糸みたいにちぎれ、彼の言葉は僕の奥に鋭くつきたった。


「穂園、おまえにフラれたんだか別れたんだかの後先輩に話聞いて貰ってたらいい感じの雰囲気になったんだってさ。もったいないなーほんと」

「……そうだね。その通りだ。……でも、お似合いだよな、ふたりは」


 人なりの優れたふたりは側から見ていてお似合いだろう。僕も首を縦に振りたくはないが、そう思う。

 誰にも迷惑をかけたくないと言い訳して、親切な人間たちを遠ざけ続ける僕とは違うんだ。ふたりは。


「それじゃ」


 男は立ち上がって、僕の返事も受け取らずに教室を出て行った。


 だめだ、もう。疲れた。

 でも、脚本を考えなくては。


 CGは使えず、もちろんアクションなんかも適切じゃない。結局ヒューマンドラマが一番適しているが、演者は僕ひとり。

 そう、僕がひとりだけでも成立するテーマとか、仕掛けを考えなくてはいけないんだった。


 ……。


 だめだ。ノイズが、邪魔だ。

 思考を映像で起こそうとしてもふたりの楽しげに話す姿が遮る。クラスメイトの「付き合ってるってさ」という言葉の意味が圧迫してくる。気分が悪い。


 自前の一眼レフを、預けていた担任の教師から受け取り、校内を散策する。

 なにか名案が浮かばないかと、なんとなく情緒を感じる学校の一角を適当に撮る。

 まだ校内には生徒が多数残っているので、誰も映らない学校の隅を求めて歩く。花壇。特別教室棟の中庭。廊下の端。ゴミ捨て場。外階段の踊り場。空。

 視聴覚室。


 映画に関するメモを多量にしてきたノートをパラパラめくる。

 何か思いつきそうで、思いつかない。



 映画が好きなだけで、作る才能はないのではないか。



 ノートを閉じて、背もたれに体を預ける。

 疲れた。


 完全下校の時間が来た。

 僕はただ座っていただけだった。そんな日もあるだろう。

 なぜだか体が動かずしばらくなにもせずにいたが、どうにか立ち上がり、鍵を返しに職員室へ。


「失礼しました」


 一眼レフを肩から下げながら、職員室のある棟を出て裏門を目指す。あのふたりが一緒にいないかを、望んでいるのか望んでいないのか、自分でもわからないまま気にしていたが、ふたりは居なかった。裏門を出た。


 道の先に、穂園と副部長がいた。

 身振り手振りを交え、副部長が話している。

 穂園は彼との会話が心底楽しいというように笑い、副部長を小突いたりしていた。

 穂園はいつか僕にしていたみたいなコミュニケーションを、そのまま副部長にしていた。いつか僕に向けていた笑顔も。


 彼らの歩く道が僕の下校ルートだった。

 足が別の道を行こうと勝手に向きを変える。

 どうするべきか、数秒立ち止まって、ゆっくり遠ざかるふたりの背中を確認した。


 副部長に向ける笑顔をそのままに、穂園がちらと振り返る。目が合ってしまう。


 穂園は一瞬で笑顔を消し、すぐ隣の副部長に視線と笑顔を戻した。なにもなかったみたいにふたりの会話は続いている。


 僕は一眼レフを構え、動画を撮り始める。


 ファインダーを覗き込む。


 ズームする。


 楽しそうに会話する高校生の男女のカップルが映っている。

 この画面が、僕の撮った映像の中でもっとも画になっていた。


 自分の部屋で勉強机を前に座り壁を眺め続ける。

 とっくにわかっていたことだが、僕は穂園が好きなのだろう。

 そうでなくてはこの痛みに説明がつかない。


 仕方ない、当たり前のことだってわかっていたではないか。

 告白を断れれば嫌な気持ちになるだろう。

 好きな人に拒絶されればもう二度と関わることなどないだろう。

 傷ついた時にいつも通り優しくしてく接してくれる異性がいれば気になるだろう。

 お互い釣り合っていれば自然と付き合うだろう。

 当たり前のことだろう。


 現実での恋愛は、最愛の人が簡単に変わるのだと、わかっていたはずだろ 。どれも、想像しうる当たり前のことだ。

 好意は永遠ではないって、そんなこと、誰でもわかることだ。


 どれもそうなるべくしてそうなった。

 そしてその選択肢、その先のうっすらと見える結末、それを見て決めたのは僕だ。


 僕の選んだことだ。

 なのになんで、


「涙が……………………」


 つらい。苦しい。なにも残っていない。


 なんなんだ、まったく。

 なんでこんな無駄な痛みばかり感じるんだ。

 なんなんだ、人生って。

 どうせなにも残らないのに、どうせ人はなにも残せないのに、意味ありげなものばかり存在して。

 ぜんぶ無駄なのに。

 人に生まれたことに理由はないし、死ぬ意義もないのに。



 父の顔が思い浮かんだ。

 昔の光景が記憶の奥から湧き上がって、僕はその中に気づけば浸かっていた。

 もう父の声をうまく思い出せない。

 思い出の中の姿もぼやけてきた。

 けれど、言葉を覚えている。


 あれは、オーディションに落ち、母に罵られた後の父だ。歪んだ顔は、悔しさか、悲しさか。


 僕は父さんに言った。

 大丈夫? って。


 父さんは答えた。

 大丈夫。俺は役者だから。


 傷ついたふりをしていたわけじゃないはずだ。父は確かに、母の言葉にいつも傷ついていた。

 強がりでもない。僕にはわかる。


 じゃあなんで役者だから大丈夫なのだ?

 役者だったら、どうして?


 僕が演劇部にいた頃を思い出す。

 僕が役者をしていた頃。


 なぜ僕は誰よりも演技が上手かった?


 知識があったからか?

 違う。きっとそれだけではない。


 才能があったからか?

 違う。そんな驕りはない。


 努力していたからか?

 違う。でも近い。


 僕はなにを頑張っていた。よりリアリティのある、訴えかける、役のふりをする、そのために、なにに努めた。

 棒読みの抜けきらない部員と、なにが違った。


 彼らはなぜ棒読みだった?

 文字を読んでいただけだからだ。


 僕は文字を読んでいただけではなかった。

 僕は、感情を込めていた。


 どうやって?

 思い出していた。


 なにを?

 役と同じ感情を覚えた場面を。


「そっか……どんな感情になっても……トレースして、自分の感情を使って、役になりきれるんだ」


 役はフィクションだ。本当の意味で成り切ることはできない。リアルではない。


 作り物は、現実の継ぎ接ぎでできている。


「……そうか……はは……」


 作り物が現実の継ぎ接ぎだとすれば。

 その「作り物」を作る人間の現実は、すべて無駄じゃない。


「無駄じゃない……。そうだ、無駄じゃない」


 立ち上がり駆け出していた。部屋を出て階段を降りて、一階へ。オレンジ色の豆電球に、ぬらりと照らされる仏壇。暗い影の中、笑う父の遺影。


 僕が何かを作る人間なら、なにも、無駄なことはない。

 母に罵られる父を眺めることしかできない痛みも、

 親戚たちに馬鹿にされる父に感じた痛みも、

 母に捨てられたと理解してしまった痛みも、

 夢叶わず父が死んでしまった痛みも、

 僕を憐れむ祖父母の視線の痛みも、

 僕が遠ざけてきた人たちの痛みも、

 ただ僕を好きでいてくれた穂園の痛みも、

 穂園が次の誰かを好きになった痛みも、


 無駄なことなんて、ただのひとつも、ない。

 僕の人生は、無意味じゃなかった。


 いつか僕は穂園に言った。

 産まれたいと母親に頼んで産まれてきた人間はひとりもいないと。

 もし生まれ直せるかどうかを選択できるなら、僕は母に「産んでくれ」って言う。


 プロになれなくたって、監督を目指す。


 僕は父さんの遺影を手に取る。

 父は笑っている。


「そうだろ、父さん。だって――」


 僕は、映画を撮るために、生まれてきた。



  ◇



「それで話っていうのは?」

「僕の映画に出てほしい。つまりオファーだよ。映画同好会で映画を作るんだ。高校生の映画の……まぁ大会みたいなものがあるんだけど、それの役者として」


 穂園は感情の読めない顔で視線を下げた。

 体育館裏、練習する他の演劇部の部員たちから少し距離をとって僕らは話していた。

 チラチラとこちらを伺う彼らの集中力の低さ。出演依頼をすることはまずないだろう。


「十川くん、きみはわたしの演技が下手って言ってたじゃないか」

「うん。でも演劇部で一番上手い」

「……」

「自称演劇部で一番演技の上手い副部長にもオファーはしてある。僕はまぁ、いざこざこそ起こさなかったけど部員たちから軽く嫌われているから、その辺も含めて断るなら断ってくれていい」

「…………脚本はできてるのかい?」

「できてない。演者を僕だけで撮ろうと思ったけど、二か月かかっていい話が思いつかなかった。だからふたりが出てくれるならその方向で脚本を作る。複数人いるなら、早く作れると思う」

「……そうか」

「部活の折り合いもあるだろうから、返事は後ででいい。僕はいつも放課後、視聴覚室にいるから、返事はそこで」

「……わかった」


 彼女はなにを考えているのだろう。

 読めない。


 あと、これはなんのつもりもないから、自己肯定感の足しにでもしてほしいんだけど、と僕は前置きをして、


「僕も君のことが好きだったよ。でもやっぱり現実の恋愛は、あれだからさ、どっちにしろ僕が今後誰かと付き合うことはないと思うけど。僕の価値観を守るために君の意見を蔑ろにしちゃって、本当に悪かった。だから……ええっと、気にしないで」


 返事を必要としない一方的な言葉だったので、それじゃ、と言って立ち去った。

 あの言葉で穂園の気が楽になったかどうかはわからない。でも僕は楽になった。穂園には申し訳ないが。


 そして視聴覚室に帰ってきた。


「さて、ふたりの返事待ちだな」


 とすると、なにもすることがない。


「やっぱり脚本……作っておくか……」


 副部長と穂園、どちらも参加してくれるかもしれないし、片方だけの参加になるかもしれない。

 そしてどちらか一方のみとなれば性別の問題で内容も変わる。

 なので参加の可否もわからないうちに脚本に手をつけることができずにいたが、もう全ての通りを作ってしまおう。

 使わなかった脚本は無駄にはならない。来年使うかもしれない。大学に入ってから使うかもしれない。

 なにかを作る僕にとって、無駄なことなんてない。


「ま、面倒なことはあるんだけど……」


 脚本を書こうとノートを開いた時、視聴覚室の扉も開かれた。穂園が入ってくる。


「あれ、早いね、返事なら……」


 僕の言葉も聞かず、ずかずかと近づいてきた穂園は僕の隣に座した。


「十川くん、まず一つ、わたしと副部長は付き合ってないよ」

「え?」

「二つ、わたしはまだ十川くんのことが好き」

「…………」

「三つ、十川くんもわたしのことが好き」

「穂園、」

「四つ、両思いなら付き合うしかない。わかるかい?」

「わかるか」


 僕は動揺し、一度理解したはずの情報全てを忘れてしまった。


「えーと、え? 副部長と……付き合ってないの?」

「うん。演技」

「演技……? なんで?」

「十川くんの気をひくため」

「それは最低すぎるよ!」

「普通自分のこと好きだってわかってる女の子に『関わるのやめてほしい』なんて言うかい!? どっちが最低か、考えてみろ!」

「……」


 演技。演技?

 ぜんぶ僕の気をひくための。

 それじゃあ、違うのか。彼女は。当たり前のように、次の人を好きになったわけじゃなかったのか。


 でも……演技?


「穂園、君はそこまで演技上手くないだろう」


 あの時の帰り道、笑い合う副部長と穂園を思い出す。

 僕に向けていたのとまったく同じ笑顔を副部長に向けていた穂園。


 まったく同じ笑顔。


 そうか。そうだな。

 演技はつまり、自分の経験のトレースだ。


 副部長を僕に見立て、僕に接した体験を再現していたわけか。


「上手くなったんだよ、十川くんのために」

「……僕のため?」


 穂園は優しく笑いながら言う。


「わたしと付き合ってください」


 今? なぜ?

 唐突な言葉に僕はまた混乱する。

 しかし答えは決まっている。


「できない。だめだ」

「うん。なら、きみの恋人役にしてください」

「恋人役……? えっと、自主映画の?」

「ううん。きみの」


 ああ、だめだ。頭がずっとめちゃくちゃだ。


「十川くんはフィクションの恋愛しか、演技しか信じられないんだよね」

「……そうだよ」

「だから、演技なんだ。役。だからきみを裏切ったりしない。きみの言う世の中の恋愛の当たり前に流されたりしない。だって、恋人役だから。それにわたしの演技力、見たでしょ? 十川くんを騙せるくらいに上手くなったよ」

「…………めちゃくちゃすぎる」

「きみもめちゃくちゃなことを言ってわたしの告白断ったじゃないか」

「……」


 自分の行いがすべて返ってくる。

 嬉しいことが起きているはずなのに、喜びきれない。


「きみの映画のオファー、喜んで受けるよ。だから、お願い。十川くんの恋人役にして」


 穂園の手が、優しく僕の手をぎゅっと握る。

 そんな簡単な接触で僕はドキドキしてしまう。

 嬉しくて仕方がないし、不都合はない。

 だが、だから僕は立ち止まる。


「なんで、君は僕にそこまでするんだ」

「好きだから」

「……なんで、どこが好きなんだ、僕みたいなのの」

「真面目なところ。優しいところ。わたしがプロの女優を目指してるって知って、適当なことを言わなかったのは十川くんだけなんだよ」


 親は、無謀だからって「なんとなく」理由をつけて諦めるように言ったんだ。

 友達は、応援してるよって「なんとなく」その場で一番適した言葉を言った。


「きみだけだ。『プロを目指すには』演技が下手だって言い続けてくれたのも。自分も同じように夢を追う立場だから、お父さんのことを知ってるからこそわたしに諦めろって言ってくれたのも。口だけじゃなく、ちゃんと夢を達成するために頑張ってるのも、きみだけだ」


 そうだ。僕も穂園だけなんだ。

 本当に理解してくれて、一緒に居続けてくれるのは。

 今後、穂園以上の人は現れないって、わかる。


「……」


 わかっているのに、そこには僕の忌避すべき現実が立ちはだかっている。


 穂園が僕を見つめている。


 僕はこれまで考えてきた。

 母に足りなかったものはなんだろうかと。


 今はそれがわかる。きっとそれは信じることだ。

 僕も父も母を信じていたけど、母だけはそうじゃなかった。


 だから不幸な結末を迎えた。


 彼女の目を見る。

 穂園は僕を信じている。


「……わかった。その話、受けよう」


 穂園は嬉しさを堪えきれないというふうに結んだ口の口角を上げて目を細めた。


 僕は、いつか自分の周りから離れていくかもしれないものを信じられなくなっていた。

 でも、いいじゃないか、信じて裏切られたって。

 僕は物を作るから、僕の経験に無駄なことなんてないんだ。

 信じる幸せも裏切られる不幸も、僕なら全部、意味があるんだ。


 だから今は、僕のことを信じてくれる人のことを、信じてみる。


「僕から改めてお願いするよ。……僕の恋人役になってください」

「はい」

「そうだな……契約期間は無期限で」

「……喜んで」







































           出演


       十川    曽川康太

       穂園    細野茉雪

       副部長   中井碧斗

       十川の父  曽川康弘

       十川の母  西あやか先生

       エキストラ 朝山高校の皆さん













           撮影


           河北健

           












           編集


          曽川康太

          河北健


























           監督


          曽川康太




  

































  ◇



 役者である父――いや、役者だった父に、自分の撮った映画に出てもらいたいという夢を、俺は叶えた。


 たとえ写真の一枚だけだったとしても、彼は十川の父役を(まっと)うした。


 そして映画が完成した今、確信している。



 俺は、映画を撮るために生まれてきた。

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