三十ノ03
「イトウには夢があったんです」
「夢とは?」
「ずっと、バンドマンだけをやっていたかった」
「映画俳優を目指していたわけではなかったのか?」
「立派な映画俳優になるより、冴えないヴィジュアル系バンドのフロントマンがいい。そういうヒトなんです」
「タムラはバンギャだというわけだ」
「それってもう死語かもしれませんよ?」
「だな」
「はい」
いまいる場所は、小さなハコ。ベースがいてギターがいて、ドラムスがいて、イトウがいる。オリジナルのバラードだという。へたくそだ。まったくもって、話にならない。酔客程度が手を叩いて喜ぶ。いい環境とは言えない。ただ、イトウは楽しそうだ。満足そうにギターを弾きながら、心地良さそうに歌っている。
安っぽいピンク色の照明のなか、私は壁に背を預け、腕を組み、微笑んでいる。隣にはタムラの姿。彼女は「彼が愛したのは、やっぱりこういう場所だったのかなぁ」と感慨深そうに言った。今夜が最後の現場だろう。聞き及んでいる限りではそうであるはずだ。タムラは涙声一つ漏らさない。むしろ笑顔で、笑顔で笑顔で笑顔で。
最後の一曲、これまた冴えないナンバーを終え、坊主頭のイトウがやってきた。
「俺がどうしてこの時代に戻ってきたのか、俺がどうして過去を求めたのか、ここ三日くらいのあいだでしかなかったけど、その意味と意義が理解できた。友だちと石けん投げをするためだったんだし、こうしてギターを爪弾くするためだったんだ。俺がなんとなく望んだことが叶った。実現したんだ」
そんなふうに、イトウは殊勝なことを言った。それから「鏡花さんですね?」と呼びかけてきた。
「タムラから話を聞きました。とても素敵な古本屋さんだなって感じました」
「世辞はいい。つまり、どういうことかを知りたい」
「どういうことですか?」
「おまえはタムラが好きなのか?」
きょとんとした顔をすると、イトウは穏やかな笑みを浮かべた。
「大好きですよ。できれば、タムラの映画の主人公になりたかったなぁ」
そう言うと、イトウはタムラの頭のてっぺんを乱暴に撫でて。
「俺はここでオシマイみたいだけど、タムラも、俺の仲間も、これからずっと、生きていくんです。こんなに嬉しいことはないですよ」
こういう場面においては涙を流すべきだと思うのだが、タムラは笑いもしなければ悲痛な表情も浮かべない。怒っているようでもなければ――むしろ無表情でしかない。
「それじゃあタムラ、鏡花さん、俺の最後を見てもらっていいかな」
地下――ライブハウスの階段を、ギターを提げたままのイトウが上っていく。タムラが続き、そのあとに私。
暗がりにある、まるで人気のない道を駆け、イトウは振り返った。薄い街灯のもと、晴れやかな表情をしている。
イトウはこちらに向かって、右手で大きくバイバイをした。泣きっ面をしたように見えた。バイバイバイバイと右手を振って、やがてその身体は白い粒子になって飛散した。「美しい最後じゃないか」と呼びかけると、「きれいですよね。ホント、イトウらしくないんだから」と怒ったような返事があった。
――後日。
珍しく近所の銭湯に出向いた折、そこでタムラと出会った。地元では有名な黒湯だ。阿保みたに温度の高い湯でもある。タムラはそこに浸かり、頭にタオルをのせ、真っ赤な顔をしていた。隣に寄せてもらう。私の肌も赤く染まった。
「イトウはとっくに死んでいて、骨もお墓にずっとあったのに、奇跡は起きたんです。あのとき、たしかにイトウはいた。ライブハウスでへたくそに歌っていた。みんな、そう言ってくれています」
「素敵な奇跡だと思うがな」
「鏡花さんには聞こえなかったかもしれませんけれど、粒々になって消える瞬間、イトウは私に言いました」
「なんて言ったんだ?」
「タムラ、おまえを愛している」
熱い湯のなかで、私は天井を仰いだ。
「そんなふうに言われてしまうと、あとをひきずるな」
「そんなことはありませんよ」
「ほぅ。興味深い回答だ」
「だって、じつは彼の片想いでしかありませんでしたから」
「だったら、どうして泣いているんだ?」
「泣いてなんかいません」
「いいや。泣いている」
「だから、そんなことはありません」
私は微笑み、タムラもまた、微笑んだ。