三ノ01
おもしろいおもしろくないは誰が定義、断定、判断する? 言い切ることができる。その当人だ。サンスクリット語に置き換えても、それは該当の本人でしかありえない。私はいつも決めてきた。そこに正論とか正しさなどを挟む余地は一切必要ない。重視すべきはいつだって己の価値観のみだ。だからこそ――といつも思うのだ。事あるごとにヒトは傷つき、凹む。どうでもいい事象を原因として。たとえば――ネットにおける人間関係、またはそれにまつわる事柄などがそうではないだろうか。デジタルタトゥーという言葉がある。一度、ネットに晒してしまった感情的な文言、くだらない画像等は一生電脳の海に残り続け、そのニンゲンを苦しめる、あるいはそのニンゲンにつきまとうのだぞというあたりまえの現象だ。勢いで行動するとろくなことにならない教訓と言える。その典型的な例を挙げる――などと話しだすと長くなるからやめておく。ニンゲンは揃って馬鹿な生き物だとだけ謳っておきたい。それだけが、それだけこそが絶対的な真理だ。
私は前向きだ――ヒトと比べてというだけのことだが。それでも後ろは振り返らないぞと意識するだけで、生きやすさはずいぶんと違ってくる。
話を飛躍させる。私はセックスをしたことがない。してみてもいい、あるいは付き合ってやろうか――そんな思いに駆られたことはなくはない。だが、相手をしてやることはなかった。なぜだろう。きっとそれは、やったあとに「つまらなかったな」と悔いることが嫌だからだ。怖いとも言う。「減るものではないのだし」なる考え方は脆弱だ。危険でもある。至れば最後、自尊心が削られ、目減りするに違いないのだから。そうでなくともそもそも男という生き物はそれをするだけで目の前の女を征服した気分になるわけだ――だからこそ、その願望、欲望を満たしてやる理由がない。理由が生じたとしても、だが断る。どうして男を喜ばせてやらなければならないのか。それならまず私を悦ばせてみろ――なんて言うと、つまるところは私をイカせてみろという話になりかねないので、本件についての言及はこのあたりでよしとしておく。ループは良くない。わかりづらい話も良くない。言動は極力、シャープなものにしたい。
ああ、今日もつまらない思考に終始している。そんな中にあって、脚を組み組み自らの古書店の番をしているわけだが――。
一人の女がガラスの引き戸を開け、入店してきた。短い髪を緑に染め上げた長身の女だ。細面、頬は鋭角に尖っていて、エナメル質のタイトなバイクスーツがじつによく似合う。マキナという。ありとあらゆる経験をしたうえで、いまは宗教法人のドンに収まっている。得体の知れない人物だが、特別悪い奴というわけでもない。
マキナがレジの前までやってきた。
「こんにちは、鏡花ちん。私は今日も元気だってばよ」
漫画のセリフみたいに薄っぺらな物言いには目眩を覚える。
「達者なのはなによりだ」私は心にもないことを言った。「おまえの顔を見るたび、男二人に喘がせられていた様子が目に浮かぶ」
そういうことが、過去にあったのだ。北海道は登別に旅行に行った折のことだった。旅館の一室にてマッサージ師の男二人とマキナは事に興じていた。その喘ぎ声は廊下にまで響いていた――。
「まあ、気にしないでよね。あれはあれで気持ちよかったんだから」
「誰も気にしていないし、感想も求めていない」
「えー、もっと突っ込んだ話をしようよぅ。私は突っ込まれた立場でしたけど、きゃはっ」
「くだらん用件なら出直せ」
「なにを読んでいるの?」
「某作家のミステリーだ。ああ、そうだ。ミステリーをミステリとする時代があったな。どうでもいい話だが」
「JIS規格だっけ?」
「ああ。だから、いま、ミステリという奴は時代遅れだ」
「ポリシーのヒトなのかもしれないよ?」
「だとしたら、私とは合わないな」
「ばっさりだねぇ」
「どっちつかずよりはずっといい」
本を脇に置き、私は脚を組み直した。マキナの顔に目をやる。瞳の色までアマガエルみたいな緑色なので、時折、気持ち悪さを覚える。旧友と呼べる仲でなければ相手などしてやらない――かもしれない。
「相変わらず、怪しげな壺やらブレスレットやらをさばいているのか?」
「最近はケルベロスの煮込みが売れ筋商品なの。レトルトで売ってるんだ」
阿呆な物言いに呆れ、またくらくらと目眩がした。
「そんな料理がほんとうにあるなら、私も一口味わってみたいものだ」
「要は本人がどう思うかって話なの。信じる者は救われるってね」
「どういうニンゲンが食べるんだ?」
「民間療法の一つだよ。癌に効くって言ったら、需要がある」
「タチが悪いな」
「快楽主義で利己主義。私にふさわしい言葉はいろいろあるの。そもそも鏡花だって、高杉の辞世の句を信奉の対象にしているじゃない。物事をどう感じるかはそのヒト次第。違う?」
「違わないからこそ、反吐が出るんだ。おまえと考えを共有したくはないからな」
私はゆるゆると首を横に振る。男二人と同時に行為に及ぶニンゲンのなにを信じろというのか――否、それとこれとは話が別なのだろうが。
「用件を話せ。手土産なしで来たわけではあるまい?」
そりゃあね。そう言うと、マキナは笑んだ。私が言うのもなんだが高圧的な態度に見えなくもないので、どちらかと言うと嫌いな笑みだ。
「ちょっとね、会ってほしいニンゲンがいるの」
「どんな奴だ?」
「獣人」
「獣人?」
「そ。獣人」
怪訝に思いつつ、黒縁の眼鏡を押し上げた、私。
「間違いないのか?」
「ないと思う。頭の上に大きな猫耳がのってるからねぇ。ボンドでくっつけたわけでもなかったし」
「入信希望者か?」
「イエス。ウチに来るのは弱音を吐きたい、もしくは弱ってるニンゲンだから、まあ、そういうことなわけ。興味湧くでしょ? 湧くよね?」
「一向に湧かないな」
「連れてきていい? いいよね?」
私は右手で顎をさすった。「ダメとは言わん。暇だしな。この際、目的も問わん」と言い、「ただし、なにも期待するな」と伝えた。
「私の期待って、なんだろう?」
「そんなもの、自分で考えろ」
「話はまとまったってこと?」
「連れてこられる分には対応する、いや、対応してやろう」
マキナは「やりぃっ」と声を弾ませた。「それじゃあ、早速明日、一緒に来るから。いいよね?」
「いいと言った」
「良かった。来た甲斐があったみたい」
ほんとうに訪れた際には、出涸らしの茶を振る舞ってやろうと思う。私は今日も明日もフラットで、明後日以降もきっとそのままで、一生ずっとその調子なのだろう。だからといって、文句を言われる筋合いはない。あいにく私は万能だ。