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彼女は脳にティアマトを抱えている  作者: XI
二十六.ファイヤーマンズキャリー
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二十六ノ02

 朝、茶の間と店舗の境になっている引き戸を開けたところで、むわっとしていて、それでいてかなり特徴的な刺激臭と出くわすことになった。


 楡矢が死体を置いていったのだと思い出す。


 この悪臭だと今日はいつになっても店を開けないだろうなと思いつつ、紺地に白いストライプが入ったスーツ姿の死体を見下ろす。せめてうつ伏せにしていけと言ったのだが、楡矢はなぜか仰向けに転がしていった。いたずらっこのように笑っていたので――まあ、そういうことなのだろう。意地悪をされたというわけだ。


 私は右手で鼻をつまみながら、しゃがんで、死体を眺めた。息をしていない生き物をまじまじと見つめた記憶はない。そうか。死んだ魚の目。しっくり来る。黒目がぽっかりと空いた穴ぼこのようなのだ。しかし、もっと適当な言い方があるような気もする。死体にふさわしい表現方法。百パーセントそれを成せる生者はいないのかもしれない。


 ――歯を磨いていると、玄関のチャイムが鳴った。歯ブラシを加えたまま歩み、出迎えた。楡矢だった。茶色い大きなサングラスに赤いジャケット。本人は"ファイトクラブ"の"ブラッド・ピット"を意識しているらしい。エラの張りもたしかなことから「本人みたいやろ?」と笑うのだが、ブラピはディープな関西弁をしゃべったりしない。


「うわぁ、鏡花さんは歯ぁ磨いてるだけでエッチやねぇ」

「やかましい、ぶち殺すぞ。ちゃぶ台のまえで座っていろ。ハナも、もう来る」

「つめたーい麦茶は?」

「勝手に飲め」



 ――ハナがやってきたのである。


「先日はお世話になりました」


 そう言ってぺこりと頭を下げ、楡矢にもそうしたことから、私たち二人はそこまで嫌われていないようだとの結論を得る。


「すごい死臭ですね」

「そのわりには、平然と麦茶を飲んでいるじゃないか」

「変な言い方ですけれど、弟のおかげです」

「ま、そういうことなんだろうな」

「はい」


 ハナはにっこりと笑った。


「では、さっそく始めようか」

「お電話で伺いましたけど――お話のとおりにすればいいんですか?」

「そういうこっちゃ」と言った楡矢が、いち早く茶の間から店内に出た。「ついといで、お二人さん」とはなんと偉そうな物言いか。


 我が店は空間の真ん中に中途半端なサイズの棚があるだけで、だから数にすると通路は二つしかない。レジからまっすぐに見渡せる通路か、そうではない通路か、それだけである。そうではない通路のほうに、死体を寝かせている。大々的に換気を行わないと店を開けられないなというくらいにまで死臭は漂っている。


「さっさと済ませよう」腕組みをしつつ、私は言う。「まごつく理由はまるでない」


 ハナは「では」と言い、特段の素振りも見せぬまま、大柄の男の肩を、やはり人形をあやつるようにして持ち上げた。男は力なく、あぐらをかくようにして、床にぐったりと腰を落ち着けた。楡矢は「おぉ」と声を上げ、「すごいやん、自分」と笑みを浮かべつつ、ハナの頬にキスをした。


「ちょ、ちょっとやめてください、楡矢さん。こう見えても集中力が――」

「もうせーへんってば」


 ああ……と言うと、ハナは涙声を発し。


「そうです。弟をあやつっていたときも、こんな感じでした」

「中途半端なノスタルジーに浸ってくれるな。ハナ、仕事だけこなせ」

「わかっています。鏡花さんの強さに、私もあてられた身ですから」


 やがて、大柄な男の――死体の口が開いた。この先は黙っているべきだろうし、なにか心当たりができるまでは、やはり黙っているべきなのだろう。


「弟に、殺されたんだ……」


 私は眉をひそめた。向かいに立っている楡矢と、目を合わせた。


「どういうことだ?」

「言葉どおりの意味だ。俺は弟に殺された」

「そこにある理由は?」

「俺のヤクザと弟のヤクザは敵対関係にあるんだ」

「とはいえ兄弟だろう?」

「のっぴきならないケースもあるんだ」


 なんだ、その程度の話かと思い、私が「もういい、ハナ、捨ておけ」と言うと、大柄な男の身体は力が抜けたようにして、茶の間の床に崩れ落ちた。


「私は役に立てましたか?」

「ああ。しかしヤクザの話だ。すぐに忘れてしまえ。――ところで」

「はい?」

「おまえは達者か?」

「えっ」

「達者に暮らしている、あるいは達者に暮らせそうかと聞いている」


 ハナはきょとんとした顔をしたのち、花のようににこりと笑った。


「楡矢さん、ありがとうございました。弟をその……本意であろうとなかろうと置き去りにしたのに――」

「俺がそないせぇ言うたんや。気にすんなや」

「でも――」

「ハナちゃんがなあんも心配せんで暮らせていければ、それで俺は満足なんや。っちゅうわけで、ハナちゃん」

「は、はい」

「もっかい、ほっぺにチュウして、ええ?」


 ハナは少々どぎまぎした様子を見せたのち、「は、はい」と、はにかんだ。


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