二十五ノ02
店の出入り口――ガラス引き戸が完全には閉められていなかったからだ。猫が入ってきた。この商店街の顔役だと私が勝手に決めつけている黒猫だ。しかたないなと思い、買い置きしているツナ缶をくれてやった。ばくばくがっつくので、まあ、気持ちはいい。猫は食事を終えると、死体らしい人物――女の弟の匂いを嗅いだ。くんくん、くんくんと鼻を動かす。「なおーん」と鳴いた。その一言だけ残して、店を出ていった。猫がなにを言わんとしたのか、そんなの、誰にもわかるはずがない。
一人の女と一つの死体を茶の間に上げてやった。死臭がしないから少し不思議に思う。その旨、伝わったのか、「毎日、お風呂には入れてあげていますから」と返ってきた。それでも漂ってくるものは漂ってきそうなものだが――。謎めいた二人である一方で、わかることもある。こんな状況、他人には見せられないはずだ。だったら二人はどこかアパートでも借りて静かに暮らしているのだろう――となる。
「さて、あらためて問わせてもらおう」私は麦茶を一口飲んだ。「どうして私を訪ねてきたんだ?」
「ほんとうのことを言いますね?」女はにっこりと笑うと、「私は以前から、あなたのことを知っていました」と答えた。
「どういうことだ?」
「花屋でアルバイトをしていたんです」
「ああ、そういえば、この商店街にはそんなものが一件だけあるな」
「以前、あなたは一度だけ、来てくださったことがあるんですよ?」
「祖父にそなえるものでも買いに行ったんだろう」
「なんてきれいなヒトだろうと思いました」
「世辞はいい。以前ということは、もうとっくに辞めてしまったのか?」
女は「花屋のお給料だけではやっていけませんから」と苦笑のような表情を浮かべた。「じゃあ、なんの仕事をやっているんだ?」とは問わなかった。どうせ風俗かなにかだろう。そんなふうに見当がついたからだ。
「傀儡使いか。興味深いな。何人でも操れるのか?」
「いえ。一人だけです。それも距離的な制限があって」
「だったらおまえが仕事に出ているあいだは――」
「はい。弟は糸が切れてしまった人形のように、眠っているだけです」
「眠っているんじゃない。それはまさに死んでいるというんだ」
私は少々眉をしかめ、鼻から息を吐いた。
「誰も幸せにならんやり方だと思うが?」
「少なくとも、私は幸せです」
「おまえは死体に抱かれるのか?」
「それがもっぱらの趣味です」
やめておけ。
なぜだろう、かまってやる義理も意義もないのに、つい口に出してしまった。しかし女はすべてを理解しているような顔をして、「それでもいいんです」と笑った。
「これは私の弟にする償いなんです。私との関係を苦に思い、自殺してしまった弟へのせめてもの贖罪――」
「馬鹿かおまえは」私は一蹴した。「苦に思い自殺したんだったら、その苦から解放されたいがために死んだはずだ。そこにおまえの意図が介入してしまっているというのなら、それはおまえのわがままでしかない。目を覚ませと言っておく。死体に抱かれることを良しとする。やはりおまえは異常者だよ」
「でしたら、そこまでおっしゃるんでしたら、私を現実に引き戻してください。私を夢から覚ましてください」
なんともわがままな言い分である。
――が。
「私なら力になってくれる。そう考えたのか?」
「そのように言ったつもりです」女は疲れたように肩を落とし、静かに頷いた。「ほんとうに、それしか頭に浮かばなかったから……」
「そう考える根拠はなんだ?」
「美しいヒトは美しい行動ができると考えているんです」
だから買いかぶりすぎだ。
私はそう述べ、吐息を漏らした。
「もっとも簡単な方法を話してやろう」
「それは?」
「夜、人気のない公園にでも連れていって、そのまま置いてくればいい」
「だけど、それではあまりにもかわいそうではありませんか?」
「その考えを動かせんうちは、なにも解決せんだろうな。そもそもだ」
「そもそも?」
「死体なら、なんでも操れるのか?」
「私が動かした死体は、数が知れています」
「まあ、フツウに思考したら、そうだろうな」
女はこっくりと頷き。
「まだ小さなとき、母方の祖父を動かしてしまったことがあって――」
「それはみな、驚いたことだろうな」
「私がしたとはばれなかったんですけれど、祖父は私をとてもかわいがってくれて、だから、死なないで死なないでと願っているうちに――」
「死なないでもなにも、もう死んでいたわけだがな」
私は鼻で笑ってやり、肩をすくめてみせた。
「脳があれば動かせるんじゃないか。私はそう考えています」
「さすがにそこまで実験したことはない、か……」
「あるいは火葬場で働けばいいのかもしれませんね」
「それでなんの役に立つ?」
「言ってみただけです」
女が悲しげに微笑む様子が、私からするととても気に食わない。
「結局、おまえはどうしたいんだ?」
「本音を言って、いいですか?」
「言えと言っている」
「もうじゅうぶんです。もうじゅうぶん、私のわがままに付き合ってくれました。だけど、弟を優しく殺してあげるすべが見当たらないんです」
「殺すもなにも、死んでいるんだろう?」
「こういうことには、区切りがひつようなのだと思います」
「弟の死を、ちゃんとしたかたちで、目に焼きつけたいということか……」
まあいい。
乗りかかったなんとやらだ。
協力してやろう――と考える私はなんとヒトのいい――。
私は腰を上げ、納戸からリング状のビニールテープを二つ持ち出し、そのうちの一つを女に渡した。「手伝え」と告げると、「えっ」と声を上げ、女は「わけがわからない」といった感じの顔をした。
私は早速、建物の窓という窓の隙間にビニールテープを貼る作業を開始する。
デニムパンツのポケットに突っ込んでいたガラホが鳴った。
「おぉ、鏡花さん、俺のコールに応じてくれるなんて、珍しいやん」
運命も宿命も信じないがタイミングだけはいい。楡矢に連絡を入れるつもりだった。こういう場面で頼れる奴を、残念ながら、私は奴さん以外に知らない。