二ノ04
「決してちっちゃくはない男を簡単に家に上げるとか。まるっきり警戒されてへんのが、ありえへんくらいおもろいなぁ」ぽかーんといった感じでそう言うと、緑茶をずずっと飲んだ楡矢。「鏡花さんはなんや、格闘技の心得があるわけやないやろ?」
「ブルース・リーは好きだがな」私も茶をすする。「私の場合、なにかが飛び抜けてこうだということはないんだよ。図抜けているのは外見だけだ」
「気が合うね。俺も自分のこと、そないなふうにおもてるんやわ」
「ただ、どうあれ私は尊いぞ?」
「わかってるって」
「わかっていない顔だ」
「未来からの訪問者なんやろ?」
「そういうことだ」
楡矢はちゃぶ台に置いた黒い湯飲みに目を落とし、そこに書かれている文字を見て、「熊出没注意て」と笑った。「鏡花さん、北海道に行ったことあるん?」
「一度だけな」私の湯飲みは空色である。「私の内面にあっては珍しい、数少ない楽しい思い出の一つになっている」
「誰となにしに行ったん?」
「女友達と温泉旅行だ。ちなみにその女は、私が二度目の露天風呂を味わっているあいだに、部屋でマッサージ師の男二人と性行為に及んだ」
「とんでもない話やんかぁ」楡矢は大笑いした。「そのヒト、いまはどないしてはんのん?」
「あらゆる女からあらゆる男を寝取った挙句、宗教に目覚めてな。怪しげな壺を売る一方で、高級車を乗り回している」
「意味不明」ますます笑う。「会うてみたいなぁ。きっとええ友だちになれると思うわぁ」
「そう思うよ」と言い、私は肩をすくめた。
古い柱時計が鐘を鳴らす。きちんと十二回。
「茶も飲んだことだ。そろそろ帰ったらどうだ?」
「もうちょいおしゃべりしたい。ええ?」
「話してみろ」
「自慢と主張って、どこが違うと思う?」
「広義に捉えれば違いはない。だが、物事の定義は限定的であるべきだ」
「と、いうことは?」
「私にとってはどちらも愚かしいことでしかない」
「結局、そうなんのん? 雄弁は銀、沈黙は金ってやつ?」
「概念的にはそれに近いが、既存の物差しでしか物を語れないニンゲンは、魅力にも説得力にも欠ける」
楡矢は腕を組み、右手を顎にやった。「うーん」と首を捻る。
「鏡花さんとしゃべってみて思たんやけど、ヒトに飽きられるんが嫌やから、俺は突飛なことばっか言うたりしたりするんかな、って」
「そう考えてしまう時点で著しく論理の飛躍に欠ける。感情を置き去りにするくらいの気概で思考しなければ、快楽的愉悦は得られない」
「快楽的愉悦?」
「男は割れ目を見ただけで押し込みたがる。なぜだかわかるかね?」
「単純に、そういう生き物やからちゃうのん?」
「欲に身を委ねるか、欲に負けずに自らを律するか。はたしてどちらのほうが快楽的かな?」
「ヒトによるんちゃう?」
「おまえはどちらだ?」
「うーんとね、ハイブリッド」
私は楡矢の頭に右手の人差し指を向け、「そう回答できる脳は、それなりに愛おしい」と評価した。楡矢は目を細め、「おおきに」と口元を緩めてみせた。
「優れた思考には優れた精神性が伴うものだ。そこにこそヒトの価値があり、むしろそこにしか価値はない。Aではないのだから、これはBだろう。AでもBでもないのだから、Cとしよう。妥協という単語は語意も語感も素晴らしい便利な道具に違いないが、そのじつ、ヒトから自由を奪っている。そのことに自覚的であるニンゲンは、物事を深くまで追求することの重要性と意義を認識し、理解もしている」
じっと見つめ合う。楡矢がなにか言おうとして、やめた。だから私は結論として、「ニンゲンは奇跡の集合体だ。生も死も奇跡なんだよ。だったら、自らの構成要素の大部分はプリミティブな快楽と定義すべきだ」と告げた。
すると楡矢は一度大きく頷き、苦笑じみた表情を浮かべた。
「鏡花さんの考え方を完全に理解しようとするなら、外部記憶装置が必要やわ。せやけど、俺がカメラやボイスレコーダーでも持ち込もうもんなら――」
「ああ、そうだ。当然、私は残念に思うだろう。表情も言葉も生物だからな」
「あかん。俺、鏡花さんにハマってしもたわ」ぶるるっと身体を震わせた楡矢。「いやぁ、この感動、誰かに伝えたいなぁ」
「私は私で、これほどヒトと話したのは久しぶりだ」
またじっと、見つめ合う。
「恋人はなにをもって選ぶべきや思う?」
「だから、そこに宿っている精神性だよ」
楡矢はにっと笑った。ジャケットの胸ポケットから茶色いレンズのサングラスを取り出し、かける。座布団から腰を上げると、「いろいろとごちそうさまでしたぁ」と言った。
「次に来るときは、プレゼント持ってこなあかんね」
「牛丼をテイクアウトしてこい。歓迎してやるぞ」
「鏡花さんに必要なんは、絶対に甘いもんやよ」
「頭を使いすぎだと言いたいのか?」
「ちゃうかな?」
「違わない」
私は鼻から息を漏らし、しっしと右手を振る――出て行けのジェスチャー。楡矢は「おおきにでした」と小さく頭を下げ、場をあとにした。
あくびが出た。両手を突き上げ伸びをする。店を開けるのは昼寝をしてからにしようと思い直し、ぬるくなった緑茶を飲み干してから二階へと続く階段を上った。知らず知らずのうちに、「授業料を取ってやってもよかったな」と漏らしていた。桑形楡矢。ほんとうに、冗談みたいな名前だ。