二十ニノ03
駅前にある、シアトル産のコーヒーショップでのことである。この店にチョコパフェはないはずだが、団地妻が「ここがいいです! ここにします!」と声を上げ、だから無駄な衝突を避けるべく、黙って当該に入った。
団地妻は立ち上がるなり、いきなり夫の頬を右手でぶったのである。夫は椅子ごとひっくり返ったのである。ストローですすっていたアイスコーヒーをぶちまけ、派手に後方へと転んだのである。
「だからあなたはちっちゃいのよ!」
肩ではあはあ息をつきながらの団地妻の言い分はまるで理解しがたい。とりあえず、私は夫に手を貸した。クレリックシャツは黒い液体で汚れてしまった。だがそれ以上に、相も変わらずぺしょぺしょ泣き続けるのが不憫であり――。
鼻息が荒い団地妻に、「まあ、落ち着け」と告げ、「座れ」と促した。夫もなんとか席についた。ぽろぽろと涙を流すさまは、ほんとうに悲しげだ――が、男なのだから泣いてばかりいずにもう少ししっかりしろとも言いたい。
「教えてくれ。私のなにが気に入らないんだ? いいんだ。清掃業者の彼……不倫のことは、もういいんだ。だから、せめて私のなにが悪いのかを教えて――」
「あなたのは小さすぎるのよ!」
「小さいって……?」
「そのくらいはもう察して!」
見ていられない。夫は太ももの布をぎゅっと握り締め、いよいよしゃくり上げる。「小さい」なる言葉を連呼されるのは、男にとってはあるいは「死ね」と言われてしまうのと同義なのではないだろうか――いや、それは考えすぎだろう。小さい大人物だっているはずだ――ああもう、自分でなにを言っているのかわからなくなってきた。
カンフル剤が必要だろう。
「だったら、団地妻よ、情けないこの男は、私がもらい受けよう」
「えっ」
「もらい受けると言ったんだ。私のカラダをもってしてなら、この情けない男にも深い満足感を与えることができるだろう」
「き、きぃぃっ! む、胸が大きいからって、調子に乗らないで!」
「そうだ。私の胸は著しくでかい。団地妻、おまえのは小さいな」
「うっ……!」
「そうだ。大きい小さいの議論に意味などないんだ。いいかげん、理解しろ」
今度は団地妻が泣き出した。テーブルに突っ伏してしまったのだ。突っ伏したまま、テーブルをがんがん叩くのだ。
「私だって夫といたいんです! でも、いつまで経っても子どもができないから……っ」
私は眉をひそめ、「ん?」と首をかしげた。話が違ってきた。
「おい、団地妻、当該の問題は、そもそも子どもができないことにあるのか?」
「そうです、そうですよ! 悪いですか!?」
「いや、悪くない」私は少し、ほっとした。「そういうことなら、きちんとした努力のしようがあるだろう?」
団地妻が上半身を起こした。
「あなたは私に原因があると思われますか? それとも、夫……?」
「そのへんわからんから、しゃんとしろと言っている。仮に、仮にだ、清掃業者の男とのあいだにできてしまった場合、どうするつもりだったんだ?」
「それは……」
「いまなら、まだ間に合うんだろう?」
「はい……」
だったら。
そう言って、私は団地妻の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「時期等を考慮して行為に及べば、その確率だって飛躍的に向上することだろう。これから励め。応援してやる」
またテーブルに突っ伏した、団地妻。向かいの席で、夫も同じく。私は二人が泣きやむまで、席についていてやった。泣いている大人をほうっておくのは、さすがに忍びないし、気が咎めた。
――少しのちの話である。
団地妻が、また我が古書店を訪ねてきたのである。土曜日のことだ。「一人で来たのか?」と訊くと首を縦に振り、「夫はどうした?」と訊ねると、「仕事です」と返ってきた。生真面目そうな男だった。休日出勤であろうとがんばるということなのだろう。
私が「察するに、妊娠の兆候でも?」と問うと、「はい」と、はにかんで見せた。「出来たんじゃないかなって思います。そんな予感が――いいえ、確信があるんです」
二度頷き、私は「よかったな」とだけ伝えた。団地妻ははつらつと「はいっ」と言い、満面の笑みを見せ。「鏡花さん」と呼ばれたので不思議に思い、「ん?」と首をかしげる。すると団地妻は「じつはあなたのこと、知っていたんです」と打ち明け。
「ま、そんなことはどうでもいいな」
そう言って私が頭を掻くと、「どうでもいいですよね」と「ふふ」と笑い。団地妻は深々と礼をした。
「また来ます。今度は夫と、客として」
「ああ、一応、告げておこう。エロ本はないぞ?」
「エロは足りています」
たしかに団地妻は、満ち足りた顔をしていた。