二十ノ01
初めて見る顔だった。中年と思しき女性に、七つや八つであろう女のコ。そうする必要なんて微塵もないのに、店のガラス引き戸を開けるなり、女性は綺麗なお辞儀をした。なぜだろう。女のコのほうはしくしく泣いている。手を引かれ、成されるがままといった印象。どうしてだろう。どうして泣いている?
女性がレジ台の向こうまでやってきて、「ごめんなさい。絵本はありますか?」と訊ねてきた。「ない」と答えたのだが、いくらなんでも一刀両断がすぎるなと頭を掻いた。
「そうですか……」残念そうに俯いた女性。「少しもないんですか?」と、やんわりだが食らいついてくる。
「ありません」とだけ断言してしまうあたり、やはり私は性格が悪いのだろう。「しかし、そちらのお子さんは、もう絵本という年でもないのでは?」
むっとされても仕方ないなとあえて言ったのだが、女性は困ったように微笑むだけで。
「ごめんなさい」
そう言って、女性はまた謝った。私にも常識くらいはある。立ち上がり、レジ台を半分回り込み、女性と女のコのまえに立った。
「なにかあるんですね? ただ、事情がわからないでいます。よろしければ、お話ししていただけませんか?」
「えっ、で、でも」
「上がってください。お茶くらいなら出しますから。今日は暑いですね。麦茶がおいしいと思います」
「で、でも――」
「いいんです。どうせ客なんて来ないんですから」
――女性と女のコを茶の間に招き入れ、約束どおり、麦茶を振る舞った。女性は「ああ、ほんとうに今日は冷たいお茶がおいしいですね」と言い、にこりと笑った。一方、女のコのほう、女性の娘は、正座をしたまま俯き、デニムスカートをぎゅっと握り締めている。「いただきなさい、ホノカ」と母親に言われても、まったく飲む様子を見せない。そうか、ホノカ、か。まったく、いい名前だ。
「なあ、ホノカ。なにがつらいのか、おねえさんに話してみないか?」
ホノカは話さない。ひっくひっくとしゃくり上げる。そこで仕方なく、母親のほうに目をやった。「どうして泣くんですか?」と訊くまでもなく――母親が寄越してきたのは苦笑いだった。
「あなたはなんとおっしゃるんですか?」
「私は三上鏡花といいます。鏡花でいいですよ」
「じゃあ、鏡花さん、娘がどうして泣いているのかというと――」
「やだっ、ママ! 言わないで!」
ホノカがいきなり叫んだので、私は少々、目を見開いた。なんだ。元気な女のコではないか。
「言ってもいいじゃない。ダメなんだったら、ホノカ、それはどうして?」
「だって、ママ、だって……」
私は右手を伸ばして、ホノカの頭を撫でてやった。嫌がらないあたり、私はさほど、拒まれてはいないということなのだろう。
「なあ、ホノカ。話してみてくれないか? おねえさんはなにかの力になれるかもしれないぞ?」
「なれないもん!」
「どうしてそんなふうに思うんだ?」
「だって、だって……っ」
「当ててやろうか?」
「えっ」
「ホノカは眼鏡が嫌なんだろう?」
ホノカの漢字は「悲」しいから、「驚」きに変わった。
「おねえちゃん、どうして……」
「私もホノカくらいの年から、ずっと眼鏡なんだ」私はおどけるようにして、黒縁眼鏡のブリッジ部分を押し上げた。「なぜだろう。そんなふうにどうしてとも思ったんだが、当時の私は、眼鏡っ子眼鏡っ子と言われ、からかわれたり馬鹿にされたりしたものだ」
「やっぱり、馬鹿にされたの?」
「泣くな、ホノカ、ちょっと待て」
「だって、だってぇ……」
私はまた、ホノカの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。柔らかな黒髪の感触は癖になりそうだ。
「私はな、小さい頃から眼鏡をかけなくちゃいけない状況は、やっぱり幸せではないと思うんだ」
「でしょ? おねえちゃん、そうでしょ?」
「ああ。目覚めたとき、ぼんやりとしか天井が見えないんだ。不自由だなぁと思うこともある。だが、そんなことでヒトの価値は決まったりしない」
「ヒトの価値?」
「おまえはかわいいじゃないか」私は「はっは」と笑った。「眼鏡もとても似合っている。そんなおまえを理解できないニンゲンは阿呆と切り捨ててかまわない」
ホノカは眼鏡をちゃぶ台に置くと、いよいよめそめそ泣き始めた。
「私ね? 私ね、おねえちゃん」
「だから、鏡花でかまわないと言ったぞ?」
「じゃあね、おねえちゃん、鏡花おねえちゃん」
「うん。なんだ?」
しきりに目元を拭う、ホノカ。
「私ね、鏡花おねえちゃん、私ね? クラスにいる眼鏡の女のコのこと、ずっと馬鹿にしてたの。眼鏡なんて恥ずかしいって、ずっと馬鹿にしてたの」
「なるほどな」と合点がいった。「自分も馬鹿にされるんじゃないかって、怖いんだな?」
「嫌だよぅ。もう学校になんか、行きたくないよぅぅ……」
母親が鼻をぐすりと鳴らしたのはなぜだろう。それほどまでに、状況は深刻? 違う。ホノカが笑えば、それですべてが解決するのだ。
「ホノカ、まずは馬鹿にした女のコに謝れ」
「でも、そんなの、いまさらだもん」
「その女のコは馬鹿にされて、怒ったりしたことはあるのか?」
「ないけど……」
「だったら、優しい女のコなんだ。友だちになれる」
「でも、そんなことをしたら、私はもっと馬鹿にされて――」
「二度も言わせないでほしい。馬鹿にしてくる同級生ほど、馬鹿なんだよ」
私はみたび、ホノカの頭を撫でた。
「よし。明日はおねえちゃんが学校まで迎えに行ってやろう」
「えっ、おねえちゃんが来てくれるの?」
「ああ。しつこくつついてくるような奴がいたら、ひっぱたいてやる」
「ホントに? ほんとうに?」
「そんなことには、ならんと思うがな」
私は母親のほうを向き、「いいですか?」と訊ねた。彼女は、お願いしますという意味だろう、静かに頭を下げた。
ホノカの漢字を見てやった。「期」と見えた。期待の「期」ではないだろうか。