十三ノ03
横から手を出す格好で胸のまんなかに左手を当ててやると、案の定と言うべきか、カイトはドキドキしていた。
「ご、ごめん。なんだか、ホントに、ドキドキしてるんだ」
「悪いことじゃない。私も少なからず、ドキドキしている」
「そうなのか?」
「そういうこともある」
私とカイトは、勧められたソファに並んで座っている。いいクッション性、安くはないだろう、ベージュのものだ。「囚人さんのを買ったんだ」と、おばちゃんは言った。なるほどと唸る。彼らが仕上げるものも質がいいというのがもっぱらの評判だからだ。
「ほんとうに、座り心地はいいよ。おばちゃん」
「あんたはえらい美人さんだねぇ。かわいい上にきれいだものねぇ」
「そんなふうに言われると、照れるんだけど……」カイトはてへへといった具合に右手で後頭部を掻いた。「それで、旦那さまはどうしてるんだ?」
「会わないって言ってるよ」
「えっ」
「でも、待っていたら下りてくるさね。行儀を知らないヒトじゃないし、いまごろ、きちんと身なりを整えているんだろうさ」
「立派な旦那さまなんだな」
カイトは苦笑のような表情を浮かべた。
「おや、お嬢ちゃん、どうしてそんな顔をするんだい?」
「僕は最近まで、他人と接するのを怖がっていたんだ」
「僕?」
「お、おかしいかな?」
「いや。素敵さね」
照れたように、また頭を掻いた、カイト。
――くだんの旦那さまが階段を下りてきた。アイロンのきいたきちんとした黒ズボンをはいて、白いチョッキを身につけている。カクシャクとした感じとは、こういうことを言うのだろうか。
旦那さまは上座のソファに座り、睨みつけるような目を向けてくる。私は彼のほうを向いたまま、改めて、カイトの胸元に手をやった。やはりドキドキと鳴っていた。
「お、おじいさん、僕、その、よくわからないから、なんて言ったらいいのかも、わからないんだけれど……」
カイトにそう言われると、旦那さまは「小娘ごときになにを話せばいいんだ?」と発した。「あ、あのっ、ごめん」と言い、カイトは目尻に涙を浮かべる。私は「じいさん、たかがガキの言うことだ。目くじらを立てるなんて、みっともないぞ」と伝えた。旦那さまは舌打ちをしたように見受けられた。
「今日で勤務が最後だったのだと聞いた。そうなのか?」
「だから、小娘ごときがわしのなにを知って――」
「小娘かもしれんが、私だってニンゲンだ。軽んじてもらっては困る」
また舌を打ったような旦那さま。
すっかり禿げ上がっている頭をつるりと撫でた。
「わしの生き甲斐だった」
「そば屋が、か?」
「悪いか?」
「だから、そうは言っていないし、そうは言わない。ただ、そば屋になる前は、もっとこう、大きな仕事に身を投じていたんじゃないかと思ってな」
「おまえは賢いようだ、小娘」
「こんなことくらい、誰にでも見当がつく」私は肩をすくめて見せた。「前職は? ぜひとも、答えてもらいたい」
旦那さまは「おまえのような小娘に、昔話をする日が来ようとはなぁ」と笑った。私は「そういうこともあるんだろう」と微笑んだ。
「わしは言ってみれば、不動産屋だった。沿線、まあ、細い道でしかないが、ニュータウンまで続く道については、わしらが売って、見守った。悪いことばかりだったように思う。身を粉にして売った物件、それは安値で買い叩かれるようになってしまったんだからな」
それはままあることだろう? 私はそう言って、身を前に乗り出した。しっかり聞こうと思ったからだ。
「だがな、小娘――」
「いい加減にしてもらいたい。私には鏡花という名前がある」
「だったらな、鏡花、ニュータウンというものは、実ることのほうが珍しいんだ。聡明そうなおまえさんのことだ。わかるだろう?」
わかる。私は馬鹿でもなければ物を知っていないわけでもないので、旦那さま――じじいが言っていることはよくわかるのだ。
「それでもわしは、勤め上げた。みなには悪いと思いながら、な」
「みなとは誰のことだ?」
「当然、顧客だ」
「じじい、あんたは悪い人物ではないようだ。そば屋になった理由は?」
「定年を迎えてリタイアするか、それともまだ働くか、そんな簡単な選択肢があったんだよ。わしは後者を選んだ。まだ誰かのために、ヒトのために働きたかったからだ」
「駅そばは確かにうまい。尊い仕事だと言える」
じじいは笑った。
「俺の後輩みたいな奴がときどき食べにくる。家が一軒も売れないと、愚痴をこぼすんだ。わしはそういうニンゲンの気持ちがわかるから、話を聞いてやることにしている」
「それもまた、尊いことだ」
「小娘――いや、鏡花よ」
「なんだ?」
「わしはそば屋の仕事すら失ってしまった。だったら、これからなにをすればいい?」
私は「ふっ」と笑った。
「そんなの簡単だ。あんたは社会人として、十分、戦った。だったら、女房とそのへんを、毎日、散歩でもして暮らせばいい」
「それは、わかる。ただ、そうなると毎日が暇だろうと思ってな」
「じき、慣れるさ」
立ち上がり、私はじじいに向けて、深々と頭を垂れてみせた。「労いたい。あんたみたいなヒトがいるから、世の中は回っている」と謝意を伝えた。カイトも続いた。「ありがとう」を連発した。
「じつはあんなもの、誰でも作れるんだ。手順書どおりだからな」
「でも、僕はあなたのこと、忘れない」
「いい娘さんらに出会ったものだ」じじいは「はっは」と笑った。「また来なさい。じつは、明日からそば打ちの教室に通うんだ。最初はヒトに出せるものでもないのかもしれんが、そのうち、うまいものを食わせてやる。だからまた来なさい」
――暗い帰り道。カイトはめそめそ泣き、実際、幾度も右の前腕で涙を拭った。
「わかった、わかったよ。ああいうヒトも世の中にはいて、鏡花はそれを私に教えたかったんだな?」
「そんな大それた思いなんて抱いていない」と本音を語る。「ただ、戦い続ける男もいるんだ。自らの自己や自尊心を蔑ろにしても――犠牲にしても、立派に事を成し遂げる男はいるんだ」
「鏡花の周りには、そういう男はいないのか?」
「いたら私は、すでに独身ではないだろうな」
カイトが顔を上げ、私のほうを見てきた。
「僕……そんなにうまくやれる自信はないけど、あんなおじいさんみたいなヒトを、旦那さまにしたいんだ」
「だったら、自分のことは安売りするな。それは私と約束しろ」
「鏡花に言われたら、約束するしかないじゃんか」
「今日もイカせてやろう」
「そそ、それは、や、やだぁ。いやだぁ……」
「私の中指自体が魔法なんだ」
「だから、やだぁ……」
「まあ、ついてこい」
手を引いて歩き出すと、カイトは「あははっ」と愉快そうに笑った。「僕、鏡花と知り合いになれてよかったよ!」と声を弾ませた。「ホントにホントによかったよ!」と心底、嬉しそうに笑ってくれた。