十三ノ02
「スゴいスゴい! メチャクチャおいしかった!」帰りの電車の中、椅子に座ると、カイトはバンザイをした、しかも大げさに。「そばつゆにコロッケって、合うんだな!」
「そうなんだ。不思議だろう?」
「なんで鏡花はコロッケを頼まなかったんだ?」
「私はそばそのものを味わいたいからだ」
「そっちのほうが乙だっていうのか?」
「乙だなんて、カイトは難しい言葉を知っているな。しかし、バンザイは寄せ。目立つぞ? おまえの巨乳も好奇の目に晒されるぞ?」
「はっ!」驚いたような目をして、カイトはしゅんと俯いた。「で、でも、ほんとうにおいしかったんだ。それはほんとうのことなんだ……っ」
「そう言ってもらえると、連れてきてやった甲斐もあるというものだ」
で、でもと、カイトはまたどもった。
「どうして駅のホームなんだ? そば屋なんて、他にもたくさんあると思うんだけど……」
「あの店がここいらでは一番、うまい。電車賃と合わせても、十分に許容範囲というわけだ」
「僕、また来たいよ。また連れてきてくれよ。だけど、疑問はもう一つあって」
「それはなんだ?」
「だから、鏡花はどうして僕を連れて歩いてくれたんだって話だよ」
「きまぐれだ」
「それだけなのか?」
「たまにはかわいがってやろうと思ってな。また来たいと言ったな?」
「う、うん」
「駅そば屋はいつだってやっている。なにせ、駅そば屋だからな」
「じゃあ、ぜひともまた来たい!」
「だったら、連れてきてやろう。ただし、条件がある」
「そ、それってなんだ?」
私は「いいから、ウチに来い」と告げた。「そ、そんなのでいいのか?」とカイトは言ったわけだが――。
――カイトを茶の間に連れ込んで――そう連れ込んで、私は彼女の身体の"開発"に取り組んだ。「や、やだぁ……っ」とか、「いやだぁ、やめろぉぉ……」とか弱々しくも色っぽい声を発するカイトに、筆舌に尽くせないくらいの卑猥な真似をした。カイトの漢字は「悦」だったので、いやいやをしながらも、そのじつ、「悦」んでいたのだろう。千鶴に続き、私の快楽を満たすお相手が一人増えたというわけだ。なんとも喜ばしい。
次の日――。カイトときたら、白いノースリーブのシャツを着ている。「えへへ」と頭を掻く。「えへへへへ」と頭を掻く。もしや前日の"行為"によって、いよいよ新たな道に目覚めてしまったのだろうか。それはいろいろと良くないのではないかと思い、私は「肌を露出しすぎるのは褒められないな」と注意した。「だ、大丈夫だ」とカイトは答え、「こんな恰好、その……鏡花の前でしかしないから」とまた答え。とにもかくにも性なる概念に興味を示しつつあるようだ。それはそれで朗報なのかもしれない。
電車の中――。
「うきうきするよ。またコロッケそばが食べられるんだって思うと、ドキドキする」
「おまえは簡単な女だな。ああ、まったく、安い舌だ」
「そ、そう言うなよ。来る数は? 頻度は高いのか?」
「昼食には結構、食べている」
「まあ、安いしな」
「カイト、おまえ、私が著しく貧乏だと思っているだろう?」
「えっ、違うのか?」
「違わん」私はため息をつきつつ、肩を落とした。「ただ、裕福さが尊いことだとは思わん」
「それは、そうかもな。僕の家は裕福だけど、だからって幸せばかりじゃないもんな」
「おまえ、ナチュラルに私のことを馬鹿にしたな?」
「そそ、そんなことないよ」
「わかっている。冗談だ」
――「おばちゃん、また来たよーっ」くらい、明るく朗らかに言えたらいいのだが、カイトは私の背に隠れたりする。そのへんの奥ゆかしさが、かわいかったりもするのだが。
私が「今日は卵を落としてもらいたい」と言うと、おばちゃんは目を大きくして、「あら、珍しいねぇ」と言った。「そっちのお嬢ちゃんは? 昨日と同じでいいのかい?」と訊ねた。
カイトは自分を覚えてくれていたことに感動したらしい。感涙するような勢いで、「コロッケそばが食べたいですっ」と絞り出した。女として扱ってもらえたことも嬉しいのだろう。あははははと豪快に笑ったおばちゃんである。
しかし、なぜだろう、その大笑いは、やがてしぼみ……。そのうち、涙を流しながら、そばをこしらえだした。
「お、おばちゃん、どうしたんだ?」カイトもびっくりしたようだ。「なな、なにかあったのか?」
おばちゃんはカイトに目をやると、それから私に視線をくれた。
「今日で仕事はおしまいなんだ」
「えっ」カイトはとにかく驚いたみたいだ。「おいしいのにダメなのか? もしそうだとしたら、なにがダメなんだ?」
すると、おばちゃんは眉をハの字にして笑み。
「私がじゃない。旦那が、店じまいなんだ」
カイトはわけがわからないといった具合に、目を白黒させる。
「おばちゃん、どういうことなんだ? 僕は、僕はなにも知らないけれど、おばちゃんの力にはなりたいよ」まったく、いいことを言う。「旦那って旦那さまのことだろ? だったら、それが店じまいって……?」
「ここは五番ホームで六番ホームだ」
「う、うん。それくらいはわかるよ。それがなんだっていうんだ?」
「ウチの旦那は一番ホームと二番ホームのあいだで、そばを作ってるんだ」
うんうんと頷き――カイトはすべてを察したようだ。
もともと、頭の悪いガキでもないのだ。
「旦那さんと一緒にそばを作ってたんだな。感動するし、それってスゴくいいことだと思うんだ」
「お嬢ちゃんに慰められるとはねぇ」おばちゃんは語る。「旦那はなにを悲しんでいるのか、教えてやろうか?」
「うん。聞きたい。おばちゃんが言うことだったら、知りたい」
「旦那はそば屋をするのが好きなんだ」
「それはわかるよ? その先が知りたいんだ」
客観的に訊ねていい、これは興味深い――否、深くまで知りたい話だと考えた。
「おばちゃん」
「なんだい、美人さん?」
「私は美人だが、それはさておき、興味を持てる事象が発生した」
「それはなんだい?」
「旦那に会わせてくれ。事の次第をきっちり聞きたい」
おばちゃんはぐすぐすと泣き出した。
「ごめんね? お嬢さん方。今日はおばちゃん、そばを作れないよ……」
「とっとと店じまいをしてしまえ。ときには業務を放り出すのも悪くない」
「そこまで言ってくれるなら、案内してやるさね」
おばちゃんはすべての火を切り、ふぅと息をつく。精神的に疲れているのだろう。そんな吐息だった。