十一ノ04
防犯カメラに見つめられているのかもしれないが、ガキんちょ――サキの住まいに至った。二駅離れた地域――高級住宅街、そこにある一軒家だった。私はサキの右手を引いてゆっくり歩いた。サキはめそめそ泣いていた。「帰りたくない、帰りたくない」と泣いていた。
家のインターホンを鳴らそうとしたとき、サキは両手で私の左手にすがり付いてきた。
「おねえちゃん、おねえちゃん、しんどいよぅ、嫌だよぅ、怖いよぅ、怖いよぅ……」
しくしくと泣いてやまないサキの頭を私は柔らかく撫でた。仮にこれが母性ゆえの振る舞いだとするなら、私は女として、まだまだ捨てたものではないということなのだろう。
「ごめんなさい。やっぱり私、おねえちゃんと一緒に暮らしたい。それってダメなことなの?」
「ダメだとは言わん。だが、おまえにはきちんとしたかたちで強く育ってほしいんだ」
「どういうこと?」
「とにかく任せておけ。おまえに悪いようにはせん」
――いよいよ、インターホンを押した。
父親と思しき、七三分けの人物が出てきた。中年だろう。年齢的にはサキの父親でもおかしくないように思う。実際に訊ねてみたところ、激しく目を見開き、怒りの表情で「お、おまえか! ウチのサキをさらったのは!」と言ったのだった。
「サ、サキッ、こっちに来なさい!」
「やだっ!」
すぐさまサキは、私の後ろに隠れた。
そのうち、母親らしき人物も姿を現した。若く見える。どうだっていいことではあるが。
「ご両人、このコが――サキが帰宅を嫌がる理由について、あなた方には心当たりがあるんじゃないのか?」
父親は少なからず身を引き。
「あ、あんたの知ったこっちゃないだろ? しかもなんだ、その言い方、偉そうに!」
「偉そうになりたくもなるんだよ。虐待の事実を目の当たりにしたんだったらな」
目を逸らした、父親。母親も同様に。
サキは「えーんえーん」とまた泣き出してしまった。
「見るに一人娘なんだろう? だったらどちらの祖父母も、話はわかってくれるはずだ。私は彼らに預けたい。サキ、それは嫌か?」
するとサキは一転、目をぱちくりさせ。
「おじいちゃんとおばあちゃんのところで暮らせばいいの?」
「嫌か?」
「う、ううん。どっちのおじいちゃんとおばあちゃんも、とっても優しいよ?」
「お二方、私はそうしてやりたいんだが? 問題があるなら言ってくれ。最大限、努力はするし、それでも了承が得られないようであれば、結構キツく、暴れてやるつもりだ」
「お、おねえちゃん、でも、私はおねえちゃんと一緒に――」
「だから、ただの甘ったれに成長してほしくないんだ」私は微笑んだ。「おじいちゃんとおばあちゃんは二組、いるわけだ。いきなりの質問で悪いが、考えてみてほしい。おまえはどっちと暮らしたい?」
んとね、んとね。
そんなふうに考える素振りを見せたのち、サキは「長崎!」と答えた。この地からは途方もつかないような田舎だろう。だからこそ、そこに魅力を見るのではないだろうか。――否、どちらも優しいから、がんばって思考した結果なのだろう。短いあいだに判断できる。サキの脳は優秀だ。
「このまま、空港に行こう」
「えっ、もう?」
「いろいろとうまくやる男がいる。奴さんに任せておけば、間違いはない。それでいいな? ご両人!!」
私がそう声を張ると、父親も母親も俯き、すすり泣きを始めたのだった。
――チケットを買い、長崎の祖父母の家までご一緒させてもらうことにした。サキは祖父母宅の電話番号を記憶していて、私のケータイから前もって彼らに連絡を入れたのだ。祖父母はそれはもうびっくりしていたが、私が――それなりの誠意をもって事情を伝えると、まずは会いたいと寄越してくれた。祖父母は空港まで車で迎えに来てくれた。私たちが移動しているあいだに、サキの父から電話があったと教えてくれたのだった。
祖父母の家は、大きな平屋だった。農家らしい。米を作っているらしい。長崎産の米など聞いたとことがないが、それは私の無知さがなせるわざなのだろう。
祖父母――特に祖父は、おいおい泣きながら、サキのことを抱き締めた。自らの息子の不出来をとにかく嘆いた。私に礼を言ってくれた。お茶まで振る舞ってくれた。着の身着のまま出てきたわけであり、だから「どうしたらいいか?」と祖父に訊ねられたわけだが、「うまくやるニンゲンがいます。あとはその男に任せてください」と答えた。祖父母とも、訝る様子を見せなかった。祖父母だってニンゲンだ。なにか感づいていた部分があったのかもしれない。
話が一段落したところで、私は腰を上げた。サキが「えっ、おねえちゃん、もう行っちゃうの?」と訊いてきたが、長居をすることでこれ以上懐かれてしまうのも面倒な話だ。あとは「楡矢」に任せればいい。
「覚えておけよ、サキ。いつかおまえの両親がおまえに詫びに来るかもしれない。そのときは自分の目で見極めて、帰るか帰らないかを決めるんだ。いいか? 自分の目で、心で決めるんだぞ?」
ばふっと抱きついてきた、サキ。
「おねえちゃん、ありがとう。その、助かりました」
「五歳のガキが吐くセリフじゃないな」
私は笑った、高らかに。
空港まで送ろうと、祖父は言ってくれたのだが、私は玄関先で見送られることを良しとし、そうしてもらった。ぐねぐねとくねった坂道を下り、下り――下り切ったところで、多少、絶望した。タクシーなど通りそうもない田舎道だからだ。しかし、「やっぱり送ってください」と言いに戻るのはありえない、ダサすぎる。私は大きな道路まで歩くことに決めた。
その最中、楡矢から連絡があった。
『どない? うまいこといった?』
「非常に良心的な祖父母だった。問題なくやるだろう」
『お疲れさんでした。あとはこっちでなんとでもするわぁ』
「期待している」
『女のコを一人助けたんや。誇ってええと思うで?』
「長崎はいいところだな」
『いきなりなんの話?』
「カステラでも買っていってやろう」
『うに豆もお願い。好物やねん』
「甘えるな」
そういえば、別れ際、祖父母とサキの漢字を見るのを忘れたな――などと思ったのも束の間のこと、わかりきっていることは、べつに確認しなくていい。
私は空を見上げた。
真っ青な晴天。
晴天だった。