一ノ03
「きずな商店街」の店舗は日曜祝日を休みとしているところも多く、問題の印鑑屋――「久方はんこ店」もその一つだった。
店主の久方久寿夫を、聡子に呼び出してもらった。久寿夫は聡子から見て義理の伯父にあたる。近くに住んでいることもあり、二者のあいだに交流はあるらしい。聡子いわく、伯母が亡くなってからは疎遠になりつつあるという。女房の死をきっかけに久寿夫が引っ込み思案になってしまったことが原因のようだ。
私は商店街の中にある老舗の喫茶店「キューン」で会うことに決め、いま、当該店においてテーブルを挟んで久寿夫と向かい合っている。千鶴と聡子は別席にてこちらのことを窺っている。すっこんでろと言いつけた次第だが、どうしてもと言うから許してやった。邪魔はするなと注意したし、邪魔にはならないだろうと判断した。
久寿夫は五十がらみの男だ。ひどく肩幅が狭く、そのせいで頭が大きく見える小男で、言ってしまうとなんだかとてもみすぼらしい。痩せた豚とでも名づけよう。醜いとまでは言わな――否、少々、醜いとしておく。俯き、恐縮するように肩をすぼめ、ちらちらと上目を寄越してくる。私はコーヒーに口をつける。カップをソーサーにゆっくり戻すとずしりと重い乳房を「よっこらせ」とテーブルにのせた。途端に久寿夫の視線がその谷間に注ぎ込まれる。白いシャツから覗いている双丘はたわわに実りすぎていて白いシャツのボタンを弾き飛ばしてしまいそうなのだが――ということもあり、目を釘付けにせざるを得なくなるわけだ。男の意識を誘導するにあたってはほんとうに役に立つ。
黒縁眼鏡を押し上げ、私は「そろそろこちらを見てくれないかね」と告げた。すると久寿夫ははっと目を見開き、それから瞳を横に逃がした。顔が赤い。痩せた豚が頬を赤らめたのだと考えればまだかわいげがあっていい――なんてこともないか。
「久枝だったか――ああ、久枝だったな。細君のことは残念だった。お悔やみ申し上げる。癌だったそうだな。近所で葬儀があったというのにまるで無視してしまった私のことは許さなくていい。まあ、無視したのではなく、聞き及んだうえで失念してしまったというのが事実なんだろうが」
久寿夫は苦笑交じりの表情を浮かべ、「もういろいろと割り切れています。一年近くも前のことですし」と言い、「妻が旅立った先は、きっと天国でしょうから……」と締め括った。
私は口元をゆがめて、心の中で嘲弄した。舐めていた。見た目以上のロマンチストらしい。油断したら腹を抱えて笑ってしまいそうだ――笑ってやってもいいのだが。
「私がなんの用事を携えているのか。聡子から聞かされているだろうか」
「いえ、なにも……」
「ジェロニモ」
猫の名を出しただけなのに、久寿夫の両肩はびくりと跳ねた。
「やはりそうか」私はくすりと笑った。「ジェロニモはやはり、おまえの手に落ちたのか」
「き、決めつけるのか?」と突っかかってくる。「ジェロニモがいなくなったのは知ってる。でも、だからって――」
「声を荒らげるな、見苦しい」
にぃと笑ってやると、怯んだように身を引いた。
「この一件を解決したところで私にはなんの得もないが、こういうのを乗りかかったなんとやらと言うのだろうな」
前髪を掻き上げ、椅子の背もたれに身体を預ける。肘を抱えることで再び胸を強調したのだが、久寿夫はもう、凝視してこない。顔を俯けたまま、右足で貧乏ゆすりをしている。能力をオンにした。久寿夫の頭上に「苛」の文字。「苛」ついているというわけだ。
「受験生を二人も抱えている個人商店の主。その情報だけでピンと来たよ。しがない古書店の主人が謳うのもなんだが、今日日、はんこ屋の稼ぎなんて高が知れているだろう。家計は苦しいはずだ。しかし、なんとか進学はさせてやりたい。違うかね?」
「それだけで犯人扱いするのか?」
「意外だ。一転、冷静な口調で話すじゃないか。おまえは度胸があるらしい」
「おまえ呼ばわりするな、小娘のくせに!」
「いいや。おまえはおまえだよ」私はいよいよゆがんだ笑みを浮かべる。「どうやってジェロニモを捕らえた? 家族にしか触らせないと聞いたが?」
久寿夫が睨みつけてきた。
「捕まえてなんかいない」
「答えろ」
「答えてる」
「網、だろうな」
「網?」
「餌で釣って網を広げた。投網の要領だ。違うかね? 沈黙は正解と判断する」
黙り込んだ久寿夫。
戸「惑」っている。
「しかし、捕まえたところで触らせてはくれないわけだ。喚くし、引っ掻くし、噛みついてくる。だったらどうするか。簡単だ。おまえは殺してからロケットを取り上げた。その手段については問うまい。結論だけを優先する」
「焦」っている。
「無鉄砲で向う見ず、そのうえ、かなり衝動的な犯行だった。なんともおそまつな計画だ。解錠方法がわかったところで、金庫にまでたどり着けなければ意味がない。金持ちの家だ。防犯の仕組みくらい取り入れているだろう。おまえはどうするつもりだったんだ?」
「困」っている。
久寿夫は慌ただしく立ち上がり、こちらに背を向け、出入り口に向かって駆けだそうとした。――が、その直後、私は後頭部目がけて角砂糖が入った瓶を投げつけた。店内には私たち以外に千鶴と聡子、それにマスターしかいない。二人は「あっ」小さな声を上げが、マスターの老翁はカップを拭く手を止めなかった。
椅子から腰を上げ、歩み、前のめりに倒れた久寿夫の背に、私はどっかりと腰を下ろした。近づいてきた千鶴は泡を食ったような顔をして「瓶なんかぶつけたらまずいのですよ」と潜めた声で言った。聡子は悲しそうな目をしている。左の目尻から頬へと涙を伝わせ、両膝を折った。でもって、「ほんとうに、そうなんですか? 伯父さんが犯人なんですか?」と訊いた。久寿夫は答えない。私は右手を伸ばして後頭部――患部に触れた。出血はしていない。こぶができる程度で済むだろう。
「ごめんな、聡子ちゃん。伯父さんにはどうしても、お金が必要だったんだ……」久寿夫は観念したようだ。「久枝と約束したんだよ。娘二人の幸せは、俺がきちんと見届けてやるから、って……」
「それはわかります。だけど、ひどいです。ジェロニモは私の大切な家族だったのに……」
細かく震え始めた聡子の肩を、千鶴が隣から抱く。
猫が一匹死んだだけの事件だったが、なんだかメチャクチャ後味が悪い。どうやら私は猫が嫌いではないようだ。それがわかっただけでも関わった甲斐はあった――とは言えない。無報酬なのだから――まあいい。
私はガキ二人の「哀」しみを確認したのを最後に、能力をオフにした。