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彼女は脳にティアマトを抱えている  作者: XI
十.強盗未遂のハゲオヤジ
35/158

十ノ01

 珍しく街に出て、ファストファッションの店の戸を叩いたのである――もちろん、実際に叩いたわけではない。戸などないのだから、叩きようがない。要するに、新しい服が欲しくて、訪れたわけである。


 私は黒いタンクトップと白いシャツとデニムパンツを好む。むしろそれ以外を身に着けようとは思わない。言わば、ユニフォームなのだ。会社勤めをしていた頃はしゃんとした恰好をしていたのだが、あいにくいまの私はその立場にない。だから、都合のいい軽装で良いのである。


 ファストファッションの店なので、無意味かつ無暗に店員が声をかけてくることはない。いろいろ持って試着室に入り、その名のとおり、試着する。デニムパンツはサイズがあるのだ。タイトな物もある。ストレッチ感がある素敵な一品にして逸品だ。しかし、白いシャツのボタンをしめようとしたところで、どうにもならない息苦しさを感じてしまう。ボタンをしめられないからだ。この調子ではタンクトップも窮屈なことだろう。どうしてそうなのかというと、問答無用でそういうことだ。それでも溢れんばかりのそれについて妥協すれば着られないこともないので、涙を飲んで、それらを購入した。まあいい。いつものことだ。オートクチュールをオーダーするような気概も資金もない。胸がキツいくらいは受け容れようと思う。


 そのファストファッションの店のロゴが入ったごつめのビニール袋を左手に提げ、ちょっと寄ってもいいかと思い、近所において奇跡的に経営を継続している喫茶店「キューン」に入った。マンダリンを頼んでみた。濃いやつだ。そういえば、むかし読んだ小説で、まだ若い男と女が付き合っていて、女はマンダリンが好きでミルを使う本格派で、しかしなんだかんだで両者は別れてしまう――そんなビターなシーンが印象的な作品を読んだ覚えがある。作者が誰であったかすら記憶していない。絶妙に心をくすぐりながらも、決しておもしろい小説ではなかったのだろう。男女のあれこれを描く物語など、総じてそんなものだ。頭に留めておく価値はない。心を揺り動かされるだけの感動もない。


 マンダリンをすする。苦い。やはり濃厚だ。だからこそ、コーヒーを飲んでいるという気になる。私はこの気持ちを尊重したい。それはなぜか。わかったら苦労しない。私は私だ。変幻自在に明日を見る。


 慌ただしく、ドアベルが鳴った。阿呆なのだろうか。「お、俺は強盗だ!」などと口にした。やはり阿呆なのだろう。自ら「強盗だ!」と名乗って、どうなるのか。ただでさえ、場末の喫茶店だ。金などあろうはずがない。


 男はいわゆる黒い目出し帽をかぶっている。私はマンダリンをすすることをやめない。対応すべき人物がいるのであれば、それは店主の老人だろう。ちなみにくだんの老人は、「笑ゥせぇるすまん」に出てくるバーのマスターに非常によく似ている。「笑ゥせぇるすまん」? 私が知る情報は、案外どころか、かなり古ぼけているように思う。改善しようとは考えないが。


 私はマンダリンをすすることをやめない。つまらない事象に遭ってそのせいで冷めてしまったら残念だからだ。客は私一人しかいない。マスターはコーヒーカップを拭くことをやめない。なんとも滑稽な様子だが、最も滑稽なのは、やはりこの店に押し入ってきた強盗だ。男であることくらいはわかっている。声の感じからして中年だろう。男は私に近づいてきた。私に拳銃を向けてきた。おぉと思う。大口径だからだ。頭くらい吹き飛ばせるだろう。


「た、立てよ、おまえ。人質くらいにはなれ!」


 男の言い分は中途半端に正しいのかもしれないが、私はマンダリンを飲むことで忙しい。「まあ、待て」と告げ、続きをすする。カップをソーサーに戻したところで、「おまえは阿呆だろう?」と身も蓋もないことを言ってやった。


「ば、馬鹿だとぅ!?」

「だって、馬鹿だろう? この店に蓄えがあると思うのか? もっと言うと、この商店街で営業している店にあからさまな儲けがあると考えているのか?」

「そそ、それは――で、でもおまえは胸が大きいじゃないかっ!」


 まるで関係のないことをいきなり言われたので、私は瞬時に盛大にマンダリンをぶーっと吐き出してしまった。それが男のチノパンに飛んだ。チノパンを汚した。


「胸がどうした? 拝みたいのか? 触れたいのか? 揉みたいのか? 挟んでほしいのか?」

「ち、違う! 俺は強盗で、だから金を奪いに――」


 私は「マスター!」と大きな声で呼んだ。「見てのとおり、この男は強盗らしいぞ!」


 するとマスターは首を横に振り。渡す金などないと突っぱねているのだろうか。それとも渡す金なんか元から持ち合わせていないということだろうか。たぶん、後者だろう。こんなよぼよぼした店が儲かっているわけがない。


 私は口元をおしぼりで拭うと、強盗に向けて、「まあ、座ったらどうだ?」と告げた。やはり強盗は怒って、「お、おまえはもっと怖がったらどうなんだよ!」と返してきた。


「いいから、座れ」

「だだ、だからっ!!」

「座れ。話を聞いてやると言っている」

「う、ううぅぅぅ……っ」

「まず、拳銃をテーブルに置け」

「な、なんでそんな真似をしなくちゃならないんだ?」

「確認したいことがあってな」


 男は気圧されたように向かいの椅子に腰掛けた。言われたとおり拳銃を置いたあたり、素直な男なのだろう。少なくとも、悪い奴ではない。私は拳銃を手にした。デザートイーグルだ。しかし、思ったより軽い。銃身を観察すると、そこには英語で「レプリカ」と記されていた。


 私は笑った。「どうせこんなことだろうと思ったよ」と笑った。男は、今度は肩をすぼめて、恐縮そうな態度を見せた。


「目出し帽を取れ。二度言わせるな。話を聞いてやると言っている」


 間もなく、男は「ご、ごめんなさい……」と潔く謝ったのである。


「だから、かまわんと言っている。おまえはまだなにもしていない。警察に突き出す理由もない。未遂にはなるんだろうが、私もマスターも寛容だ」


 男が目出し帽を取った。

 禿げ頭にうるうるとした目。


 いい年こいているであろうぶさいくなおっさんの顔が、そこにはあった。


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