九ノ04
青年は足しげく我が古書店――「はがくれ」を訪ねてくるようになった。本人としては目につくのか、ハードカバーの棚を物色しては、時折「わぁ」とまあるい声を出し、文庫本のコーナーを見てはやはり「わぁ」と言う。青年とはいえ、いい年であることは間違いない。そういった人物が「わぁ」とは。可愛げがないどころが、多少ならず気味と気色が悪いのである。
「鏡花さん、どうして本の修繕をしないんですか? いい物がいっぱいあります。なにもしないのは、本に失礼ですよ」
一気にむかついた。「はがくれ」は私の店だ。とやかく言われる筋合いはない。それでもまぁ、一度は「かわいらしい」と判断した人物だ。買っているし、無視するわけにもいかない。
「青年、おまえは進むことができた、あるいは前に踏み出すことができたのか?」
「言ってもいいですか? むしろ、言いたいんですけれど」
「手すきだ。聞いてやろう」
「この商店街からは多少距離があるんですけれど、まめまめしくやっているたった一つの店舗が、コンビニがあるのはご存じですか?」
「ほぅ。恐らくだが、心当たりくらいはある。あそこで勤め始めたのか」
青年ははにかんだ。
「一からやろうと決めました。もう薬の飲みすぎはしません。ほんとうに、ポジティブになれたんです」
「コンビニ、か。一からとカウントされるコンビニにとっては。むなしい話なのかもしれんな。――さておき、昨今の当該事業については物申したいことがある」
「それって、なんですか?」
「愛想が悪すぎる阿呆がいるんだよ。べつに満点の接客を望んでいるわけではないんだが、こちとら物を買ってやっているわけだ。阿呆は阿呆と割り切ることもできる。だがしかし、頭に来ないと言ったら嘘になる」
青年は、にこりと笑った。
「そういうふうに受け取るヒトもいるんですね」
「馬鹿者。そんなのあたりまえだ。くだんのブンブンはなんとかならないものか」
「僕、そのブンブンの店員なんです」
「だから、知っていると言っただろうが」
「そうでしたね」青年はくすくす笑った。「いつか他店としのぎを削る日が来ればいいなぁ」
「しのぎを削る削らんはどうだっていい。店が生き延びることがだいいちだ」
後頭部を右手で掻いた、青年である。
「鏡花さんはホント、厳しいなぁ」
「厳しくない。私は事実を述べているだけだ」
「そのあたりが好きなんです」
「なんの話だ?」
青年は口元を弛緩させ。
「真実はヒトの数だけあるといいます。なのに、その点、取り違えているヒトが、とっても多いんです」
「ソースは?」
「内緒です。ただ、ほんとうに多い。彼らは自分が馬鹿だって、気づかないのかなぁ」
「つまらん主張だ。しかし、異議はない」
「ホント、どうして馬鹿が多いのかなぁ」
「そんなふうに言っているうちは、おまえは大物にはなれないな」
「やっぱり、そう思いますか?」
「ヒトを感じるのは、そのヒトの思考を知ることから始まる。ヒトを一方的にカテゴライズすることほど、理解から遠ざかることはない。いまのおまえはしょせん、頭でっかちのおぼっちゃまなんだよ」
そうかもしれませんね。そう言って、青年はレジ台の向こうで、にこりと笑ってみせた。
「本、買わせてください。作者の名は回文で、それは非常にくだらないんですけれど、僕は嫌いじゃないんです」
どこかで聞いた話だなと思いつつ微笑み、私は「おまえという湖の底は、案外、浅いようだ」と容赦のない評価をした。くそったれだ。誰も望まない本など、誰も望まない。それでも――。
「今一度、述べておいてやろう。コンビニのアルバイトとはいえ、それは尊いことだ。内心、私はおまえのことを敬ってしまうし、さらに言うと、素晴らしいとも考える」
てへへっ。そんな具合に、再び青年は頭を掻いた。てへへはうざい。――が、私だって大人だ。だからこそ、うざいくらいの感想に留めておく。
「いま、今回、鏡花さんのことを知ったばかりですけれど、どうしてそんなに優しくあれるんですか?」
「だからそれは、私が意外と世話焼きだからなんだろう」
「今度、僕の趣味に付き合ってください。これ、かなり思い切ったセリフです」
「趣味とは?」
「キャンプです」
「ああ、私には合わないな。そこにいるであろう細かい虫が大嫌いなんだ」
青年は朗らかに笑った。
「とても楽しいことになりそうなのに」
「馬鹿を言うな。うぬぼれるな」
「ごめんなさい」
青年はもう一度、笑った。
頭上に発生した漢字は「謝」。
感「謝」しているということなのだろう。