九ノ01
私がわざわざ外でコーヒーを飲むことは珍しい。喫茶店というカテゴリーにおいて「きずな商店街」で唯一営業している「キューン」なる店。最近知った。店主はピアノの名プレーヤー「スティーヴ・キューン」が好きで、それで打ち出したのだという。スティーヴ・キューンはまだ存命なのか? そのへん、詳しくは知らない。知らなくてもいいと考えている。ブレンドコーヒーがうまい。一度、その味に惚れ込んでから、そればかり注文している。憎たらしい主人だ。たった一つ、コーヒーを淹れるだけで、私の心を少なからず鷲掴みにするのだから。
――商店街の屋根の下を通って帰宅する途中、事は起きた。上はデニムシャツ、下はデニムパンツ。そんな野暮ったい――じつはおしゃれなのかもしれない青年が、眼前、たった十メートルほど先でよろめき、前にばたんと倒れたのだ。さすがの私だってもろに驚いた。しかし、駆け寄るような真似はしない。そのへん、私らしいところだ。最悪、ヒトが一人亡くなったところで気にはしない。くり出すのは早足くらいだ。
声くらいはかける。シャッター街と言っていいアーケードには、他にヒトがいないからだ。やはり無視してもかまいやしないのだが、それはそれでほんの少し気が咎める。しゃがみ込んで「おい」と声をかける。今度は「おい」と背をさする。ダメだ。完全に気を失っている――あるいは死んでいる? どちらでもよいのだが、無視するわけにはいかないと考えた。なんと偉い私。国民栄誉賞を与えてもらいたい――要らんが。
ケータイを持って歩く習慣はない。だからひとまず家に帰り、それから救急車を呼んでやろうと考えた。曲げていた両膝を縦にし、それなりに帰路を急ごうとする。
――そのときだった。「救急車は、やめてください……」と聞こえた。振り返る。青年は身体を起こした。腕立て伏せの要領で上半身を持ち上げた。なんだかとてもキツそうにあぐらをかいた。顔は真っ青。しきりに額を拭う。冷や汗でもかいているのだろうか。
「少し待っていろ。いま、救急車を呼んでやる」
「それはやめてくださいと言ったんです」
「どうしてだ?」
「両親に心配をかけてしまうからです」
「いきなりばたんと倒れたんだ。心配してもらってしかるべきだと思うが?」
「よかったです。傷なんて負ったら、余計に不安にさせてしまうから」
「おい、私の尊い話を聞け」
青年は「大丈夫です。帰れます。へっちゃらです」と言い、立ち上が――ろうとした。しかしすぐに横へとよろめき、尻もちをついてしまう。酒で酔っ払っているのかとも思ったのだが、その匂いはしない。他になにか理由があるのだろう。このままほうっておくわけにもいかない。かといって、救急車の到着すら嫌がるわけだ。だったらどうしようかと考えたすえ、「よっこらせ」と肩を貸し、立たせてやった。自宅に連れていってやろうとと考えた。まったくもって無防備すぎる話だが危険はないと判断し、そういった感覚に私は優れているつもりだ、仮になにかあったとしても、それは自己責任でしかない。
青年は私の肩に身に、ぐぅと身体を預けてくる。そうしようと思ってのことだとは考えられない。ただしんどくて、だから支えてくれるものを欲しがっているのだろう。
「まったく、どこがへっちゃらなんだ」
「いいんです。置いといてください」
「それはできんと言っている」
すると青年はぐったりと俯き。
「ごめんなさい。助かります……」
「最初からそう言っていればいいんだよ」
ゆっくりと歩く。
時折、青年は右手で口元を押さえた。
吐きそうになっていることがわかった。
「戻してもいいぞ。ただ、私のことは汚すな」
「大丈夫です。でも……あとで冷たい水をいただけませんか?」
「冷水は気が利いていない。パックの麦茶がある。出してやる」
「ありがとうございます」
足取りはゆっくりだ。
なんだかんだ言っても、男という生き物は無駄に重いのだ。
「たとえば僕が、この商店街で倒れたままだったら、あなた以外の他の誰かに助けてもらえたでしょうか?」
「阿呆か、おまえは。無視できるニンゲンなどいるはずがないだろうが。まあ、それでも私は、いいとこ例外なのかもしれんが」
「いい匂いがします」
「このヘンタイめ。女は総じてそういうものだ。だからといって、なにかを望んだところでなにもしてやらんぞ」
「スゴく美人です」
「おまえのこれからの人生において、もっと美人と知り合うかもしれん」
「そんなこと、ないんじゃないかなぁ」
私は少々難しい顔をして、「どうしてそう考える?」と訊いた。青年は「ですから、とても美しいからです」と答えたのだった。
「わかった。もうなにも言うな。反吐が出る」
「そのセリフすら、美しいなぁ」
私たちは一歩一歩、前へと進んだ。