八ノ03
宛てもなく、河川敷沿いの遊歩道を、千鶴のスマホいわく五キロ近く歩いた。帰宅するまでにまた五キロ歩かなければならないと考えると頭が痛くなった。意識がわずらわしくもなった。
私は今日も黒いタンクトップに白いシャツを羽織っているだけなのだが、全然、寒くはない。しばらく経てば、夏が来るのだろう。千鶴は極端な黒のミニスカートなので、下着が見えてしまいそうだ。馬鹿なのかと言いたい。阿呆なのかと問い詰めたい。
散歩の最中にあって、途中でコンビニに寄った。仕入れたのはおにぎり四つとペットボトルの茶を二つ。河川敷に下りて並んでベンチに座り、梅が入ったそれをほおばる。抜けるような青空。じつに気持ちがいい。たまには外に出るのもいいのかもしれない――明日には違うことを主張しているように思うが。
千鶴は鮭おにぎりを咀嚼し終えると、「おにぎり、おいしいですね、とってもとってもおいしいですね」とピュアな感想を述べた。確かにうまい。そうでなくとも、梅と明太子というゴールデンコンビだ。愛おしくも尊い食物である。
正面には草野球の光景が広がっている。スコアボードに目を移してみると、三回を終わったところで、十五対零。一方の守備の時間が長いと見ているほうもだらけてきて、興味を失う。しかし双方のチームとも、楽しくやっているように映る。試合が終わったら、どこか早くからやっている店に入って、みなでビールでも飲むのだろう。おっさんどもの草野球とは総じてそういうものだ。
「鏡花さん、鏡花さん」
「一度呼べばわかる。いつも言っているだろうが」
「そうでした」と千鶴はぺろっと舌を出して笑った。「私はさっぱりなのですけれど、鏡花さんは野球にお詳しいのですか?」
「これほどわかりやすい競技はないだろう。だから、年をとったジジイどもでも、なんとかやれるんだ」
負けているほう――の先攻チームのサードがトンネルをした。へたくそだ。私でももう少しやれるだろう。
「どっちのベンチも楽しそうですね。スゴい声援です。奥さまや娘さんでしょうか」
「もしそうなら、幸せな家族だな。特に子どもなんて、父の遊びに顔を出したりはしないだろうからな。千鶴は? 好きなスポーツはないのか?」
「ありません。でも、跳び箱だけは得意なのです」
「跳び箱?」
「はい」と深く千鶴は頷き。「そのむかし、裸足で跳んだのは、いまとなっては良い思い出なのです」
訝しみ、私は眉をひそめた。
「どういうことなんだ?」
「中学生のとき、イジメに遭っていたのです」結構キツい事実なのに、千鶴は眉をハの字にするだけで、事もなげに述べた。「上靴を隠されてしまったのですよ」
「陰険なものだな。靴は? 見つかったのか?」
「結局、見つかりませんでした。だから、イジメている側がやったとは言い切れなかったんです」
私は青空を仰ぎ、吐息を一つ、ふぅとついた。
「子どもがやると深刻なものになる。大人がやると馬鹿なことでしかない。イジメとは、そういった性質を持つものだ」
「当時の私が弱かったのです。実際、いま、高校ではうまくやれています」
「打ち明けられたほうは、どうしたらいい?」
「えっ?」
「だって、そうだろう? 聞いたほうは気分が悪い以外のなにものでもない」
「そういうことでしたら、謝るのです」
千鶴はぺこりと謝罪した。
「つらい思いをしたことがないニンゲンなどいない」
「鏡花さんの持論ですか?」
「違う。一般的な事実だ。おまえは偉い。つらいことを一つ克服した」
途端にうるうると涙を浮かべた、千鶴。
「鏡花さんの大きなお胸に飛び込みたいです」
「やめておけ。癖になる」
立ち上がると私は両手を突き上げ、うんと伸びをした。
「かわいそうだったおまえに、アイスを買ってやる。ついてこい」
「ガリガリ君を食べたいのです」
「安いな、おまえの舌は」
ふっと笑い、私はさらに微笑を深くした。
「鏡花さん、いまの私の漢字はなんですか?」
「「楽」しいと、「嬉」しいが交互に現れる。そういうことなんだろう」
「鏡花さんのようなお姉さんが欲しかったのですよ」
「いまでもそんな感じだろうが。なお、私は妹なんて要らん」
「えーっ、ひどいですよぅ」
「やかましい」
気の置けない仲になりつつあることは、私にとっては稀有なことだ。