五ノ03
土曜日の朝っぱらから屋台の設営を終え、店先に立った。馴染みの顔が結構いて、みながみな「鏡花さん、カレー屋に転職したの?」とか、もっとプリミティブに「鏡花さん、なにやってんの?」などと訊いてきた。「暇を持て余す神々の遊びだ」と答えてやると、揃って腹を抱えて笑ってくれた。今日の私は素直でピュアだ。いつになく博愛的になっていて、とにかく店が賑わえばいいなと考えている。
思ったより、客は来る。なにせ途方もなくいい匂いが紡ぎ出されているわけだから。一般的なテキ屋の仕事を否定するつもりはないが、こちとら、焼きそばやたこ焼きといった安っぽいものとは一線を画す食べ物を提供しているのだ。売れてしかるべきだし、売れてもらわなければ困る。
店頭に「休憩中」の札を立てて、昼休みに入った。店の裏手で――私がコンビニで仕入れてきたあんパンと牛乳――最高のコンビを口にする。「ちょっとね、儲かりすぎです。怖いくらいに」と昭は言い、だから私は「いいことじゃないか」と意見を述べ。
「そうであれば、目的は達したと言っていい。味が広くウケれば、今後、おまえの店は潤うだろうからな」
「まあ、そうなんですけれど、でも、僕は鏡花さんに、なんの御礼もできないからなぁ」
「いいんだよ、それは。私が好きでやっていることだ」
昭は苦笑じみた表情を浮かべ。
「ほんとうに僕は、カレーしか作れないんです」
「なにもできないよりは、よほど立派だ」
「そうでしょうか?」
「きっかけ」
「えっ」
「カレーしか作らないきっかけ」私はあんパンを咀嚼し、飲み込み終えた。「なにかあるんじゃないのか? ただただ父親の真似事をしようと考えたわけではあるまい?」
見破られちゃったかぁ。昭はそんなふうに言い、照れ照れといった具合に、右手で後頭部を掻いた。なぜ照れるのかは不明だが、ひとまず先を聞くことにする。
「北海道旅行をした折に、とても素敵な味と出会ったんです。ガーデンレストランです。野菜は自家栽培で」
「うまかったのか?」
「はい。びっくりするくらい」
「良い出会いは尊いものだ。ツイていたんだな」
「暖簾分けしてもらうまでは苦労しました。前例がなかったことなので」
「暖簾分けしてもらえただけでも、誇りに思うといい」
「まあ、そうなんでしょうけれど」
昭はにこりと笑ってみせた。
聞こえた。「鏡花ちん、来たよ、遊びに来たよぉ」と。間違いなくマキナの声だ。私は店の表に出て――やはりマキナがいた。短い髪は今日も緑色で、タイトな黒いバイクスーツに身を包んでいる。
「呼ぶ必要はなかったという結論に至った。店はすでに繁盛しているんだ」
「えーっ、話が違うじゃーん。せっかく来てあげたのにぃ」
「おまえが来たら目立つは目立つが、裏を返せば、それだけだということだ」
「ひどーい。私が馬鹿みたいな口振りじゃーん」
「事実、おまえは馬鹿だろう?」
「ぬぅぅ。言い返せないけど」
「カレー」
「ん?」
「カレー、食べるか?」
マキナはパッと顔を明るくして。
「食べる食べる。食べるよぉ」
待っていろと応え、てきぱきと品物をこしらえ、それを提供してやった。店の裏手にて三人で顔を突き合わせる。マキナを見てドキドキしているような様子の昭。奇抜なファッションもそうだが、そうでなくとも美人なので、少なからず度肝を抜かれたのだろう。「食べるね、いい? 店長さん?」とマキナは言い、昭が返事をする前にスプーンでカレーをすくった、嬉しそうに。「おぉ」と言う。「おぉぉっ!」と発する。「おいしい!」らしい。
「これは飯テロだ。いわゆる立派な飯テロだ!」
「食べながらしゃべるな。しゃべりながら食べるな。スープが飛ぶ」
「商店街に店、出してるんだよね?」
「は、はい」昭は恐縮したように頷いた。「いよいよとなったら、潰れてしまうかもしれませんけれど……」
「こんなにおいしいんだから、もったいないよぅ。なんだったら、スポンサーになってあげるよぉ」
「えっ、そうなんですか?」
「きれいなお金ではないかもだけど」
「えっ」
「ま、気になさらんことであるぞ」あっはっはと高らかに笑ったマキナである。「それはそうと、男のヒト」
「な、なんでしょうか?」
「いや、ね? あんまり鏡花ちんに深入りしない方がよいよ? このコに自覚はないけれど、このコは危なっかしいニンゲンだから」
私は「おい」と放った。「ヒトを危険物みたいに言うな」と訴えた。「そもそも深入りとはなんだ? 失礼な奴だな」
マキナはいたずらっ子のように「にひひっ」と笑った。「それじゃあ、そろそろ行こうかな。今日も壺と水を売らなきゃなのだ」
「おまえ、ほんとうにそんなもので生計を立てているのか?」
「さぁて、どうでしょうか。謎めいたままにしておきます」
「おまえはおもしろい友人だ。また顔を出せ」
「うっわ、嬉しっ。チューしてもいいですかぁ?」
「投げキスくらいに留めておけ」
「そうする」と言って実際にそうすると、マキナは立ち上がった。「カレー、ほんとうにおいしかったよ、店長さん?」と言い、赤い顔をする昭をよそに、立ち去った。
「あ、あの、鏡花さんのお友達って、あんなにきれいな方ばかりなんですか?」
マキナは特別だと答え、私は折り畳み椅子から腰を上げた
昭の思い――頭上の漢字を見てやる。
それは「喜」だった。
まったく気のいい男に掴まってしまったものだ。不思議と嫌な思いはしないものだから、私は昭のことを買っているのだろう。
「鏡花さん」
「なんだ?」
「店が繁盛したら、必ずお金を払いますから」
「そんなものは必要ない」
「でも――」
「必要ないと言ったんだ」私は珍しく、微笑んでみせた。「さあ、売るぞ。まだカレーは残っているんだからな」
昭が目に涙を浮かべたことが観察できた。
いい思いができた。
私はこのようなかたちで、売り子のような仕事をしたことがないからだ。
ただ、「いらっしゃいませ」とは言わない。
私は「食いたいならとっとと注文しろ」と言う。
そうあっても、昭はなにも言葉にしない。
それでいいからと思っているからだろう。