一ノ01
春になっても新緑の香りなど漂わないが、昭和の匂いには満ち溢れている「きずな商店街」なる胡散臭い名のアーケード――。その一角にある我が城――古書店「はがくれ」を、セーラー服姿の千鶴が訪ねてきた。千鶴からすれば放課後のことだ。店は閉めた。顔立ちは多少整っていてもそれ以外は突出したところがまるでないおかっぱ頭の女子高生の相手をするためにその日の商売を切り上げるなど、私はなんと優しいのか。万能性すら窺えるというものだ。私は誰より偉く、誰より尊い。この普遍的な事実は国家元首の口によって啓蒙されてもなんらおかしくはない。
六畳の茶の間に通してやり、丸く茶色いちゃぶ台の上に温かい緑茶を置いてやった。黄色い文字で「熊出没注意」と書かれた黒い湯飲みを両手で持ち上げると、「いただきます」を言ってから口にする。礼儀正しいのは美徳と言えなくもないが、褒め称えるようなことでもない。むしろ、「ファック・ユー、千鶴」である。私は誰に対しても突拍子もなく殺意を覚えることがある。このあたりの奔放さも、私が私である所以だ。
「ふぅぅ。生き返りましたです」
おまえは死んでいたのかと問いたい。
「外は結構、寒いのです」
だからって、なんなのか。
「春はまだまだ遠いのです」
それでも逃げたりはしないだろう。
ちゃぶ台を挟んで千鶴の向かいに座る私は、「それで、なんの話だ?」と早速先を促した。ときを同じくして腹がぐぅと音を立てた。早いところ終わらせて、晩飯にしたい。献立はもやし炒めと白飯だ。燃費がすこぶる良いのでそれで事足りる。基礎的な栄養としては物足りないのかもしれないが、そこは気合いと思い込みで乗り切ろうと思う。湯水のように使えるほどの生活費は計上していないので、やむをえない選択であり、仕方のない措置とも言う。
「ドウガミさんというおうちをご存じですか?」
「知らないな」
「お堂の堂に方向の上なのです」
「やはり知らないな」
「この商店街の近くに家があるのです。大きいのです。資産家なのです」
私は眉根を寄せる――などという怪訝な表情は見せない。わかりやすいリアクションは誇りにかけて好みではない。
「その堂上とやらがどうしたんだ?」
「飼い猫がいなくなったそうなのです。三毛猫で、ジェロニモというのです」
想像もつかない切り出しであり、ひどくつまらない話であろうことを予感させてくれた。どう予測しても愉快な気分に浸れる気はしない。それにしてもジェロニモとは、またアグレッシブな名前をつけたものだ。どう考えてもオスの名だが、三毛猫なのだからメスである確率が極めて高い。
「私は堂上さんとおつきあいがあって……あっ、娘さんが同じクラスにいるのです」
「予備知識の共有はもういい。ジェロニモとやらがいなくなったらどうなった? 聞かせてみろ」
「娘さんはとても悲しんでいるのです」
「そう謳った上で、千鶴、おまえはなにが言いたいんだ?」
「ジェロニモのこと、一緒に探してくださいませんか?」
目眩を覚えるほどどうでもいい依頼ではないか。――というか、こちとら探偵業を営んでいるわけでもないのに、なぜ話を持ち込んだ? おまえは馬鹿か阿呆なのかと問い――否、罵りたくなる。だが、せっかちなところがある私の切り替えは早い。日頃から暇と言えば暇なので、「まずは娘とやらを連れてこい。話はそれからだ」と知らせてやった。千鶴は手を合わせると「わあ」とまあるい声を出して「やっぱり鏡花さんは優しいのです。とても助かるのです」と言い、恍惚の表情を浮かべたうえでにこりと微笑んでみせ、それから「あの、ここからは別件なのですけれど……」などと急にもじもじし始めた。
「早く帰れ。私の腹が鳴ったのを聞いていないはずがあるまい」
「でも、下半身がやけにむずむずしてしまって……」
「わりとどうでもいい課題だな。家で自慰に耽るといい。今日はしてやらん」
千鶴は目にじわりと涙を溜めた。私に泣き落としなど通じないことはわかっているだろうに。期待できない結果を期待してどうするというのだ。
「だったら、鏡花さんがお食事を終えられるまで待つのです」
「食べ終わる頃には明日になっているかもしれない」
「そんな……」
「冗談だ。中指だけで昇天させてやろう」
「ほんとうですか!?」
「ああ」
私はこのようにすぐに前言を撤回することがある。掌もくるんくるんと返す。優秀すぎる頭脳の賜物だ。当該のような現象を「突発的な事由がもたらす束縛的思惟」と呼ぶことにいま決めた。
座布団から腰を上げ、茶の間と接している台所に立つ。流し台の下の収納から櫃を出して少々の米を早炊きし、もやしについては――賞味期限が過ぎていた。しかも一週間。存在を失念していたわけではない。その間、興味がなかっただけだろう。それでも食べるのだから、私は逞しい。博愛的とも言える。
食事を盛った御飯茶碗と皿を持ち、箸は口にくわてちゃぶ台に戻る。千鶴は文庫本の文字を目で追っているようで、「誰のなにを読んでいるんだ?」と訊ねると、「言ってもわからないと思うのです」と返された。ともすれば生意気なことを言ったように聞こえなくもないが、千鶴は私が小説そのものに疎いことを知っているので、他意はないのだろう。
「ジャンルくらいは教えてほしいものだな」
「純文学なのです。一つ、よろしいですか?」
「言ってみろ」
「文学についての鏡花さんのイメージを伺いたいのです」
私はもやしをおかずに白飯を二口、三口と食したところで、考えを述べてやることにした。
「くだらなくて馬鹿馬鹿しくて小賢しくて作者の自惚れが見受けられる作品はすべて文学だ」
「うわぁ。ばっさりですね」
「蔑んではいない。私の思考回路そのものが純文学的だからな」
「考え方に脈絡がないことは知ってますけれど」
「無性に自分を嫌悪したくなってきた」
「どうしてですか?」
「わざわざ話すつもりはない」
私が「そろそろ脚を開いて待っていろ」と告げると、千鶴はザリガニみたいに顔を真っ赤にした。
もやしはうまくなかった。
やはり腐っていたようだ。