五ノ01
新聞と一緒くたに、近所にスープカレー屋ができたというちらしが入っていた。我が古書店――「はがくれ」も店を構えている「きずな商店街」内のことだ。第一声的思考、開業した者は馬鹿なのではないかと感じた。昭和の香りしかしないこのアーケードにおいて新しい商売を始めるなど酔狂以外のなにものでもないからだ。――が、私は興味を引かれた。食べたことがないからだ。一度、北海道に旅行したことはあるが、その際は口にしなかった。とにかく縁がなかったのだ。
行ってみるか。
そう考え、昼の時間帯、一旦、店を閉めた。
到着してみると、今日からの開店だというのに閑古鳥。先が思いやられる。絶対、早々に潰れることだろう。ただ、なんともいい雰囲気が漂っているのだ。食べてみるまで味はわからないが、匂いだけなら百点満点。店に入ると、ドアベルがカラコロカランと鳴った。「らっしゃい!」と威勢のいい声。ともすれば面倒事が発生する二郎系のラーメン屋のようなリアクションである。にしても、有名ラーメン店の主はどうして揃いも揃って腕組みをして偉そうに広告におさまっているのか。客商売である以上、高圧的な態度は許されないし、許してはならないと思うのだが――さあ、思考は今日も元気良く脱線した。元に戻そう。私がいまいるのはスープカレー屋だ。ラーメン屋ではない。
極端に狭い店舗であり、カウンター席しかない。どこでもいいと言うので、ど真ん中に座ってやった。「なんにいたしやしょう?」なる訊き方は、やはりラーメン屋っぽいではないか。男はねじり鉢巻きまでしている。スープカレー屋とは、もう少し、いや、大衆的な場所には違いないのだが、それでも幾分くらいは、おしゃれであるべきではないのか――というのは考えすぎか?
スープカレー屋なのに、ルゥカレーがある。そちらのほうが好みなのでオーダーしようかとも思ったのだが、スープカレー屋を謳っているのだから、スープカレーを頼むべきだろう。チキンカレーにした。バターライスかポンデケージョか迷った挙句、後者にした。ブラジルのパンだったか。確か、しょっぱいものだ。カレーに合うものなのかという興味から注文したわけだ。セットメニューでちょうど千円。ランチメニューとしては、そこそこの値段だ。高くもなければ安くもない。
品が出された。私が無垢な乙女なら、その豪勢な具合に「わぁ」とまあるい声を広げたことだろう――と言うとおり、私は無垢な乙女ではない。口広の壺みたいな器に入ったカレーを睨みつける。スパイシーな香りが鼻孔をくすぐる。いかにもうまそうだ。皿に二つのっているポンデケージョも存在感がありあり。やはりこちらもうまそうだ。
カレーをスプーンですくい上げ、一口、すすった。うん。悪くない。むしろ、うまい。ポンデケージョを齧る。絶妙にマッチする。この店主、なかなか見込みがあるようだ。見所があるとも言う。
「い、いかがですか?」おっかなびっくり、そんな店主。「まずくないですか?」
私はパンをちぎって、それをカレーにつけて食べた。「どうして卑屈になる?」と問い、「自信があるから店を出したんじゃないのか?」と続けた。
「まあ、それはそうなんですけれど……」
「すでにそうなんだが、タメ口でかまわんか?」
「それはもう」
「正直、うまい。いや。驚いた」
「ほんとうですか?!」
「だから、自信はなかったのかと訊いた」
「なかったんですよ」苦笑じみた表情を、店主は浮かべた。「何度も味見はしたんですけど」
まあ、客にうまいと言ってもらえるまでは安心できない、か。
そんなふうに考え、納得した。
「年は? 若いように見える」
「三十五になりました」
「ああ、失礼した。私よりもずいぶん年上だ」
「いえ。いいんですよ。すごく迫力がありますし」
「私の胸の話か?」
「確かに、とても大きいですね。大迫力です」
「わかった。気に入った。無駄にスケベでない点は買える」
「巨乳恐怖症なんです」
「それは笑える」
実際、軽く笑って、カレーをすすった。口が舌が味に馴染んできて、さらにうまく感じられる。フツウ、リピーターになることだろう。それくらい絶妙のテイストなのだ。かなり研究したに違いない。暖簾分けかなにかだろうか。その旨、訊ねてみると、そうであるとのことだった。
「しかしだ、こんな寂しい商店街で店を開いたところで、先は明るくないぞ。ただでさえ、ここいらの住民はスープカレーなどといった気取ったものに縁がない。馴染みもない。もう一度、言う。売れんぞ」
「この商店街に、ぼくの実家があったんです。フツウのカレー屋だったんですけれど」
「過去形か。気になるな」
「言葉のとおりです。とうのむかしに潰れてしまいました」店主は残念そうに笑んだ。「店は父と母の生き甲斐そのものでした。一方で、商店街が廃れていくのも仕方のないことだと諦めていました」
「誰にも染まらない。その心意気は尊いな」
「ああ、あなたはそんなふうに言ってくれるんですね。素敵だなぁ」
最後のパンを口に放り込んだ。マンゴーラッシーもうまい。ただ、他の客はいない、入ってこない。開店したばかりなのに、やはり先は思わしくないのだろうか。
「おまえの――ああ、おまえでいいか?」
「かまいません」
「じゃあ、おまえだ。おまえの商売の一丁目一番地がここなのはわかった。女房は? いないのか?」
「います。最近結婚して、身重だったりします」
私は顔をしかめた。
「だったら、もっと儲けが出る商売に精を出せ。女一人食わせていけない男ほど情けない者はいないぞ」
「妻は応援してくれています」
「利益を度外視にしているんだ。自殺行為に過ぎん」
「それでも、それでも、これがぼくの夢だから……」
キュンとはしないが、むぅと唸りはした。現実より大切なものはないのだが、夢を追いかける男というのも、決して悪い者ではない。そう感じてしまうあたり、私は男に幻想を見る女だということなのだろう。
「手伝いたいな」
「えっ」
「なにか手伝いたいなと言ったんだ。立地が立地だ。しかし、一度、名が知れてしまえば、客が押し寄せるケースも考えられなくはない」
「そ、それはそうかもしれませんけれど」
「店が破滅に向かうのを手をこまねいて見ようとしていたわけではあるまい? なにかカンフル剤になるような計画があるんだろう? 一生懸命に、なにか手を打とうと考えているはずだ」
「よくわかりますね」
「当然の話だよ」
店主は顎に右手をやり、「うーん」と首をかしげた。「計画、じつはあります」と言ったのだった。
「話してみろ」
「近所の公園で屋台を出そうと思うんです。この時期になると、恒例の春祭りがあるので」
そういう催しがあったなと思い出す。春祭りを謳っているくせに、いつも桜が散る段からやるのだ。たこ焼き屋、焼きそば屋、ヨーヨーすくいに金魚すくい、輪投げ等がある、ごくごく一般的なイベントだ。
「屋台でスープカレーか。斬新だな」
「ぼくもそう思っています」店主は照れたように笑った。「ただ、男が一人で店先に立っていたところで、お客さんは集まらないかなっていうのが、不安なんです」
「奥方に手伝ってもらったらいい……って、身重なんだったな」
「はい」
「わかった。手伝おう」
私の即断即決に、店主は「えぇっ!?」とあからさまに驚いてみせた。「で、でも、悪いですよ、そんなの。給料だって――」
「のっぴきならない理由があれば、ただ働きも悪くない。協力してやる」
「そりゃ、あなたみたいな美人が接客をしてくれたらと思いますけれど……」
「決まりだな」らしくもなく、私は微笑んだ――カレーがうまかったせいだろう。「おまえ、名前は?」
「ツツミです。堤防の堤」
「違う。下の名前だ」
「あ、あきらです。昭和の昭です」
「わかった。よろしくな、昭」
私はカウンター越しに右手を差し出す。昭は腰につけているエプロンで手を拭ってから、握手に応じてくれた。