四ノ04
「楡矢、飲みに行かないか?」
「おぉっ、喜んで。高い店でも喜んで」
「安い店だ。そのかわりと言ってはなんだが、奢ってやる」
「えっ、ホンマにぃ?」
「心底、意外そうなツラだな」
「そりゃそうやろ。まさか鏡花さんに限って奢るとかっ」
「いいからついてこい。ここいらにだって、飲み屋はある」
「ほなら、ごちそうになりましょうかね」
そんなやり取りを経て、私たち二人は近所の居酒屋に入った。チェーン店だ。どうしてこんな寂れた商店街に店を構えたのだろう、どうしてやっていけるのだろう、そのように感じさせるペイはしないであろう不思議な店舗だ。魚料理をメインとしている。こまいやアジの開きが好みだ。ほっけは脂っこくてうまくない。ほっけという概念に、本州のニンゲンは幻想を抱きすぎだ。
「最近、大衆的な居酒屋とは疎遠やったわ」
「やはり、金持ちなのか?」
「そうは言わんけど、いろいろと付き合いっちゅうもんがあってね」
瀬戸物の茶碗に、芋焼酎を足してやった。楡矢はお湯を注ぐ。文字どおり、お湯割りを好むらしい。
「ひょっとして、こないだの件なんかな?」
「ああ、そうだ。私が強姦に遭いそうになった話だ」
「強姦とか、あんまり具体的な単語を出すんはやめようや。だぁれも喜ばへんさかいね」
「どうしてそう思う?」
「なんとなく、嫌なんやわ。こう見えても、潔癖なんや、俺」
「そうは見えん」
「せやろうね。ともあれ、俺にはどうしたって、鏡花さんがそうなったとは思えへんわ」
「いざとなったら、舌を噛み切ったかもしれないな」
「そうならへんで、良かったわ」
私は芋焼酎をストレートであおり、「それで、犯人は捕まったのか?」と訊ねた。
「捕まったっちゅうか、捕まえたよ。ご丁寧にも、実行犯のスマホに首謀者の連絡先が残ってた。十八になったばっかのガキんちょやった。高学歴やよ。どこで鏡花さんのこと、見つけたんやろうね。ま、ゆがんだ性癖持ってたんは間違いないわ。レイプ。ホンマ、嫌な言葉や。反吐が出るわ」
「私だって外を出歩くこともある。運悪く、見つかったんだろうさ」
「新聞、見た?」
「見てないが、それがどうした?」
お湯割りをすすると、刺身に手をつけた楡矢。赤身を食し、「やっぱ、あんまりうまいもんやないね」と軽い毒を吐いた。
「ほら、成人年齢、引き下げられたやろ? せやさかい、くだんのガキ、名前が掲載されたんやよ。不幸な話やと思う?」
「思わんさ」と答え、私は小さく肩をすくめた。「くだらんことをしでかしたんだ。その恥、一生、背負い、引きずっていけばいい」
「同感」しきりに酒をあおっているわけだが、楡矢の表情にはまるで変化がない。「まあ、とりあえず、鏡花さんが襲われる心配はなくなったわけや」
「だったら、私の家で寝泊まりするのはやめろ」
「はなからそのつもりやよ。せやけど、なんかの折には、また呼んだってほしいな」
「考えておく」
私はこまいを剥く。食べやすいサイズにむしる。手は著しく生臭く魚臭くなってしまうが、手でやるのがもっとも手っ取り早い。
「なんとも色っぽいね。鏡花さん、ほっぺたが赤い」
「酔っているように見えるか?」
「うんにゃ。そういう体質なんやろ?」
「そういうことだ」
箸を使って白身魚の刺身をごそっと拾い上げ、私はそれを口に放り込んだ。
「うまくないな。ほんとうに平目なのかね」
「せやさかい、そないなふうに言うなら、高い店に案内したったのに」
「ワインレッドのドレスをまとって、高級ホテルの屋上か?」
「あかん?」
「むかしは会食の席によく顔を出したものだ。味は覚えていない。楽しくなかったんだろう」
「いまは?」
「そのときと比べると、幾分、楽しい」
「お褒めいただいたようで」
「錯覚だ」
なあ、鏡花さん。そう呼びかけられた。真剣な顔をしている。だからといって、真面目に取り合うつもりはない。酒の場で打ち明けられることほど信用ならない事象はないからだ。私はまだ二十八だが、それなりに年を重ねたつもりではいる。人生経験も少なくないということだ。
「楡矢、おまえは赤ん坊が欲しいか?」
「えっ?」
「赤ん坊が欲しいのかと訊いた」
「うーん、どうやろ、まあ、欲しいかな。俺の子どもなんやから、ちゃらんぽらんに育つことやろうけど」
「私は欲しくない。その時点で、すでに気が合わないんだよ」
「なんで欲しないのん?」
「面倒だろう?」
「母親になったら、考え、変わるかもやで?」
「私に限って、それはない。私は自分のことで手一杯なんだよ」
「そうは見えへんけど?」きょとんとした顔を見せると、楡矢はまたお湯割りを口にした。「たぶんやけど、鏡花さんみたいな女を知った以上、俺は鏡花さんとしか結婚できへんわ」
私は口をへの字にした。呆れたのだ。プロポーズじみたセリフは一般的には嬉しい文言とされるのかもしれないが、私は嬉しくない。一人でいることほど気楽なことはないからだ。誰かの世話をするとなると、そこには必ず責任が生じる。いかにもめんどくさい。私は私というニンゲンを貫き通したいから、完遂したいから、私をやっているのだ。
そのへん打ち明けると、「俺もそうやわ」と返ってきた。「たとえばさ、俺はけんかが大好きやねん。なによりも好きなんやわ。暴力が好き。大好き」
「空恐ろしい話だな」私はまた、半ば、呆れてしまった。「ともあれ、そういった言動は、おまえにふさわしい感じもする」
「せやろ?」楡矢はクックと喉の奥を鳴らして笑った。「まあ、ポーズってのもあるんやけどね。俺かてええ大人なんやさかい。それにしても、俺の関西弁って結構キツいのに、鏡花さんは事もなげについてくるね。なんでなん?」
「さあな。意外とむかし、そういう男と付き合っていたのかもしれないぞ」
「せやったら、妬けるわ」
「ああ。せいぜい、そうしていろ」
楡矢がなんの前触れもなく、「こまい」と言い、それを指差した。だから私は、「こまいがどうした?」と訊ねた。
「こまい、おいしい?」
「まずくはない。だから、それがどうした?」
「ちょっとちょうだい」
言うので、皿に一匹、のせてやった。
「剥いてくれてもええのに」
「甘えるな」
「そないなこと、むかしから親によう言われてる気がするわ」
頭に七味マヨネーズをつけ、豪快にかぶりついた楡矢である。
「やっすい味や。うまいことはないな」
「価値観が合わんようだな」
「それでも俺は、鏡花さんのことが好きやよ」
「言ってろ」
私はつぶ貝の刺身をごっそり取って、口に入れた。
「豪快なこって」
「黙れ」
うまくはないが、こりこりとした食感は健在。楡矢が次の芋焼酎を注いでくれた。なんともいいタイミングだったので、私は右手の親指をビッと立てた。あははははっと笑った楡矢だった。