五十ノ02
温もりの中で目を覚ました。左手がなにかに包まれているようで、とても温かい。私の左手を両手で握り締めている男の「漢字」を確認する。フツウであれば頭の上に吹き出しが浮かんでなんらか見えるはずなのだが、その人物についてはなにも見えない。まあ漢字が見えたからといってどうだというんだか。さほど意味はないな。というかまるで意味がないと言っていい。そこにいるのは赤いジャケットが特徴的な若者――楡矢だとわかった。
パイプ椅子の上の楡矢はぽろぽろと涙をこぼしながら、私を見て、悲しげに笑ってみせた。
「やっと起きたね。おっはぁ」
「なにを泣いているんだか」私は深呼吸をして、それから微笑みをこしらえた。「私は危なかったのか?」
「せやないと俺かて泣かへんわ」
私は枕に頭を預け直し、それから右手で前髪を掻き上げた。
「もともと、奴に私を殺す気はなかったように思う――というより、女は殺せんタイプだろう――そんなふうに映った」
「俺もそないに思うけど、せやかて女を傷つけることはできた」
「それがゆるせなかった?」
「鏡花さんのことやさかい、なおさらな」
私の左手を両手で包むと、今度は愛おしそうに頬ずりをする楡矢。たぶん、私が眠っているあいだに幾度もしたことだろう。気持ちのいい真似とは言えないが、まあとにかく、助かったのだから良しとしようと考える。
「それで? 問題のスーリヤ殿はどうしたんだ?」
見る?
そんなふうに楡矢が訊いてきた。
なんとなく悪戯っぽい表情に見えるのは気のせいか。
楡矢はジャケットの左ポケットからスマホを取り出した。
そして私に画面を見せてきた。
白い長髪を乱し、ぼろ雑巾のような姿で――どこぞのゴミ捨て場だろう、ブルーや白のゴミ袋の上に身を投げ出しているスーリヤがいた。明らかに絶命している。あの凛々しかった御仁がこのザマ、か。不甲斐ないというか、美しくないな……。
「おまえが?」
「俺以外の誰に動機があるんさ」
「手強かっただろう?」
「じつは身体中、傷だらけ。痛いけど、鏡花さんのことおもたらな」
私が少しだけ笑って見せると、楡矢は満面の笑みを見せた。
「身体を起こしたい。手伝ってくれないか?」
「だいじょうぶなん?」
「平気だよ」
楡矢に肩を貸してもらって、身体を縦にした。
窓の外を眺める。
先程からカラスの鳴き声は聞こえていたのだが――。
夕焼けだ。
「あー、ホンマ、鏡花さんが死んでしもたらどないしようかおもたわ」
「どうしようと思ったんだ?」
「あらゆる痛みを与えた上で、俺は俺のことを殺した思う」
「馬鹿だな、おまえは。間の抜けたことを抜かすな」
楡矢は小僧のように「へへっ」と笑った。
「これで俺はまたツゲさんから一つ奪ってしもた。狙われるぞぉ」
私はふんと鼻を鳴らして、肩をすくめた。
「つまるところは異性に執着している。浅いんだよ、ツゲという女は」
「かもしれへんなぁ……」目線を上にやってぽかぁんとそう言うと、楡矢は悲しそうに「俺が妙な気ぃ起こさんかったらよかったんや」と俯いた。
「しかしもうどうにもならん。もはやおまえは負け犬なんだよ」
「負け犬かぁ。手厳しいなぁ」
「さっさとカッコつけてこい。おまえにならできるはずだ」
「なんで、そう?」
「そうだろうと信じているからだ」
楡矢はいっそう俯き、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らした。
「鏡花さん」
「なんだ?」
「鏡花さんが動けるまでにはもうちょい時間がかかるそうなんやけど……」
「確かにまあ。すぐにでも元気にはなれそうではあるが」
「旅行、付き合ってくれへんかな?」
「旅行?」
「北海道」
「だとすると、それは興味深い提案だな」
楡矢は幼子みたいに「にひひっ」と笑った。
「空港から車走らせんねん。洞爺湖まで行くねん」
私は明後日のほうを見やり、その無邪気さに肩をすくめた。
「二人きりがいいのか?」
「二人きりがええ」
「わかった。付き合ってやろう」
おおきに、おおきに。
そう言って、楡矢はしくしく泣いた。
奴さんにとって、なにが苦しいのか、なにが悲しいのか――。
本人もそのへん、きっとよくわからないのだろう。
夕焼け空ではやっぱりカラスが鳴いた。
なんだか私たちを、あほぅあほぅと嘲笑っているようにも感じられた。