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彼女は脳にティアマトを抱えている  作者: XI
四十四.プロレスラー
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四十四ノ03

 実家に帰ることも考えているんです。

 ブラックジャガーはしょんぼりしたふうに、そう言った。


「ご両親は? なにか営んでいるのか?」

「米農家です。でも、両親というわけではなくて」

「片親か?」

「父は、その、最近……」

「それは失礼をした」

「いえ。いいんです」

「そうか。相棒と父を、失ってしまったわけか……」


 あっはっはと、ブラックジャガーはいままでの雰囲気とは一転、陽気に笑った。その声もすぐにしぼみ沈んでしまい。


「迷っています、ほんとうに。米作りをする俺は、すごく負け組であるような気がします」

「おまえ、本気で言っているのか?」

「い、いえ、米農家のヒトたちを侮辱するつもりで言ったんじゃありません」

「だったら言うな、馬鹿が」

「ご、ごめんなさい」


 私は微笑んだ。


「わかっているよ。おまえが悪い奴じゃないことくらいはわかっている。お母上がどうお考えなのかという話だ」


 前に首をもたげた、ブラックジャガーである。


「なにが正しくてなにが間違いなのか、正直、わからないんです……」


 頷ける話だと感じた。


「帰ってきてもらえないと心細い。帰ってきてもらえると心強い。お母さまからしても、微妙なところだろうな」


 俯けていた顔を、バッと上げた、ブラックジャガー。


「鏡花さん、俺はどうしたらいいと思いますか!」


 私はまた微笑んでみせた。


「おまえの心に訊いてみろ。それはおまえの心にしかわからない」


 ブラックジャガーのマスクの瞳の光が、にわかに強くなった気がした。


「鏡花さん、来週の木曜日に、Kホールに来てください。チケットはもちろん、俺が用意します。ただ、そうだな……たとえば黒いスーツで来ていただけませんか?」

「なぜだ?」

「目立つほうがいいかなって。それに、黒は俺の色です」

「私はどんな恰好をしていても、じゅうぶんに目立つニンゲンだが?」

「それでも、一応、なんというか、こう」

「わかった。いいだろう。この際だ。言うことを聞いてやる」

「お願いします。ホールのまえに広場があるので、そこで待っていていただけますか?」

「だいじょうぶだ。任せておけ。ひきこもりに近い私だが、電車にくらいは乗れる」

「お願いします。ほんとうに、お願いします」

「だから任せておけ。その日は特別だ。試合後、おまえにビールを奢らせてやる」


 ブラックジャガーは「ありがとう」と言って微笑した――のだろう。マスクをしているから、わからんことはわからんのだ。



*****


 ――当日のKホールまえの広場。


 まだ暑い季節にもかかわらず、赤いチョッキをきちっと着込んだ老婆に声をかけられたのだった。その時点で気づいた。ああ、この人物がそうなのだろうと。会ったばかりだというのに、私はブラックジャガーの思いや気持ちといったものを適切に汲むことができたようだ。まったく、いい奴ではないか、ブラックジャガー。


 小さな身体をさらにしゅっとすぼめ、口元を小さく動かす老婆は、たしかに「三上鏡花様ですか?」と訊ねてきた。私は赤い縁の眼鏡を押し上げ、「様ではありません。あなたのほうが、ずっと立派なのですから」と答えた。老婆は笑った、「ちゃんと会えました」と。「東京へようこそ」と私は笑んだ。


 ――どでかいガタイの真っ黒な奴が走ってきた。パーカーの黒いフードを目深にかぶり、下は黒のジャージ。スニーカーまで黒であることに、こだわりを感じる。なにせでかいのだ。目立つ。だからとっとと用を済ませたいのだろう。ブラックジャガーだ。


「母さん、俺だよ、来てくれてありがとう」


 老婆の耳元で、彼がそうささやいたように聞こえたのは気のせいか。そして、ブラックジャガーはチケットを二枚、私に寄越して――それだけで立ち去った。大きな身体なのに、その足取りは軽やかだ。トレーニングの成果なのだと思う。いっときも顔を見ていないが、奴さんは生真面目である気がする。日々、一所懸命に研鑽を重ねているようにしか見えない。



*****


 ――Kホール。プロレスの聖地だ。大きな大会が催される。ウェイトに応じたタイトルマッチが行われる。ブラックジャガーが用意してくれたのは、テレビに一番映る方角の最前列だった。ブラックジャガーの母は試合における派手な技はおろか、ショルダータックルのかまし合いやエルボースマッシュのやり合いごときでも、その衝突音にびっくりして顔を覆った。まったく、いい母ちゃんではないか。穏やかなのだろうし、間違いなく優しい。そんな彼女の息子がプロレスラーを志したわけだ。その皮肉さには笑みを浮かべたくもなる。


 今夜の対戦カードを見たときから、変だなぁとは思っていたのだ。だって、肝心のブラックジャガーの名前がどこにもないからだ。


 だったら、どこで登場する?

 あいつは、なにをやらかすつもりなんだ?


 そしたら、だった。


 団体においてもっとも位の高いヘビー級のシングルマッチが行われる――レフェリーがその二人を順番に呼び込んだところで、なんとまぁ、かのブラックジャガーが乱入してきたではないか。くだんのマスクに上半身は裸、下にはテカテカした黒いジャージ、鍛え抜かれた肉体、美しい背筋、背中。


 場内からはブーイングの嵐。


 ブラックジャガーはあっという間にリング場の二人を場外へと叩き落とした。メインイベントを務める予定だった金色のガウンに身を包んだチャンピオンが、即座にリングへと舞い戻り、臆した様子なんてまるで見せることなくブラックジャガーのことを至近距離で睨みつけた。途端、相手の両肩を両手で突き飛ばしたブラックジャガーである。


 ブラックジャガーは鳴りやまぬブーイングのなかにあって、チャンピオンを右手で指差した、それから拳を握り、至極挑発的に両手の親指を下に向けた。「おまえは殺す」とでも言わんばかりに。


 一転、一気に場内は沸き立った。

 いるのだ、ブラックジャガーのファンだって。

 ジャガージャガーの大合唱。

 乱入した男が主役になった。


 左隣を見る。ブラックジャガーの母親が、小さな遺影、たぶん夫のものであろう――を抱え、感動に打ち震えるようにして涙していた。


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