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彼女は脳にティアマトを抱えている  作者: XI
四十四.プロレスラー
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四十四ノ02

 夕刻、着衣――上から下まで真っ黒なマスクマンを、私は茶の間に迎えていた。キンキンに冷えた我が家自慢の一品――麦茶を振る舞ってやった。なにせ「マーライオン」みたいなデザインなのでそんなマスク越しにでも飲めるのかと一ミリグラムほど気を揉んだのだが、きちんと器用に飲んでみせた。案外、利便性に優れたマスクであるようだ。


「うぅぅっ、ありがとうございます、ありがとうございます!」と言い、大きな大きなマスクマンはしくしく泣きながら右の前腕で両の目元を覆うのである。「逮捕されたらヤバかったです。俺、プロレスが大好きなんで……」


 私も麦茶を一口飲んだのである。


「それは聞いた。そもそもの質問だ」

「はい、なんでも」

「おまえはどうしたって目立つ。絶対に一見さんだろう?」

「はい。間違いありません」

「どうして訪れようと思ったんだ?」

「とぼとぼと歩いていたんです」

「ごつい男がとぼとぼか。周りからするとそういうのが一番剣呑なんだ」

「そうなんですか?」

「そういうものだ」


 このマスクマン、正座をしっぱなしなのである。だからまずは「膝を崩せ」と伝えた。素直に言うことを聞いてくれたマスクマンである。しかし、女みたいな座り方だ。感心できない。


「このへんをうろついていた理由については、もういい。あらためて確認だ。プロレスラーなんだな?」

「はい」

「やれるほうか?」

「大手です。地上波でもやります」

「結構なものじゃないか」


 マスク越しであっても、しょぼついているのは把握できる。男が肩を落としているところを眺めるのは、女としてあまり気持ちがいいものではない。


 私は腕を組み、顎を持ち上げた。


「おまえ、名前は?」

「えっ」

「リングネームでいいぞ」

「『ブラックジャガー』です」

「となると、ベビーフェイスがいるわけだな。『ジャガーマスク』とでもいうのか?」

「ご、ご存じなんですか? ウチの団体のこと」

「だから知らんよ。だが、プロレスは嫌いじゃないんでな。予想くらいはつくんだよ」私はふんと鼻を鳴らして肩をすくめた。「それで、もはや言わずもがな、おまえはなにかを抱えて苦しんでいるというわけだ。御託はいい。話してみろ」

「う、うぅぅぅぅっ、ごめんなさい!」

「マスクを涙で濡らすな。マスクとはこのうえなく高貴なものだ」

「それは、そうですね。そのとおりです……」


 私は「悩みがあるなら、しゃんと背を正して、ちゃんと話せ」と言った。ブラックジャガーはまた正座した。


「俺、えっと、その、あなたがおっしゃったとおり――」

「あなたでなくていい。私は三上鏡花だ」

「わ、わかりました、三上さん」

「鏡花と言ってもらったほうが、私は喜ぶぞ」

「えっ」

「ありがたい話だろう?」

「わ、わかりました。鏡花さん」

「なんだ?」


 俯いていたブラックジャガーが、バッと顔を上げた。


「俺、こう見えても、結構、年を食ってるんです」

「そうなのか? 若い印象を受けるが」

「三十もなかばを過ぎるとロートルなんです」

「それは言いすぎだろう? ちょうど脂がのった時期であるはずだ」


 ブラックジャガーは肩を落とした。


「俺には仲間が、ライバルがいたんです」

「だから、ジャガーマスクだろう?」

「はい。彼とは最初、敵同士でした。だけど、和解して、それから長らくタッグを組んできて……そんななかでもタイトルマッチをやって、勝ったり負けたりして……おかしいですか?」


 自虐的な笑い方に思えた。


「プロレスには『ブック』があると言いたいわけだな?」

「それ、信じますか?」

「そのへんは、おのおのの自由だ。ただ私は、プロレスには流れがあると考えている」

「と、いうと?」

「最後の最後で最も説得力のある技を出せたほうが勝つんだ」


 ブラックジャガーがこちらを見上げた。笑ったように見えた、そんなはずはないのに。


「ジャガーマスクは死んでしまいました。交通事故でした。横断歩道を渡っている幼稚園児をみんな弾き飛ばして、死んだのだと聞かされました」


 誤解を生みそうな言い方であり、また言葉足らずでしかないが、そこは脳筋だからだろう。突っ込んできたトラックなりなんなりから守るためにやむなくタックルのようなかたちで飛び込みみなを突き飛ばしてその結果として自らが撥ねられ犠牲になってしまったということなのだろう。残念だ。プロレスラーには無敵で不死身であってもらいたい。私の切な願いである。


「その後は? おまえ、試合は?」

「出ていません。ショックからは立ち直ったつもりです。でも……ああ、俺はこれから、なにを目標にがんばればいいんだろう……」


 遠い目をしている――と思しき、ブラックジャガー。


「タッグはともかく、個人のベルトを目指せばいいんじゃないのか?」

「タッグ戦線ではいつもトップだったんですけれど、シングルについて注目を集めていたのはいつも相棒のほうでした。事実、俺はいいとこまで行っても負けてしまって」

「いまのおまえには、なにもない?」

「そう、考えています……」


 私は二つ三つと頷き、「おかわりの麦茶を入れてやろう」と席を立った。「あっ、いいです、もう」と恐縮してみせる素直な大男だからこそ、次を用意してやろうと思うのだ。


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