四ノ01
それが終わると、千鶴は「えへへ、えへへ」と心底嬉しそうな顔をしながら黒い下着の上にセーラー服をまとったのである。それから勝手知ったるといった感じで台所に立った。冷蔵庫から冷たい麦茶のボトルを取り出し、それをコップに注ぎ、ぐびぐびと飲んだ――その量、二リットル。
私も黒いタンクトップの上に、白いシャツを羽織った。ただ単純に底無しのテクニックで中指にて奉仕してやっていただけなので、汗すらかいていない。まだ効きっぱなしなのか、千鶴は心許ない足取りで茶の間に戻ってくると、ちゃぶ台の前にぺちゃんと座った。「今日も幸せなのです」と言い、笑う。「今日も麦茶がおいしいのです」と言い、笑った。
「千鶴は私になにか用なのか? それとも卑猥な行為そのものが本題か?」
「うーん、なにかあったようにも思うのですが、忘れてしまったのですよ」
「なんだ、それは」
「てへへ」
てへへじゃないだろうとツッコミを入れたくなったが、やめておいた。無駄な労力は費やさない主義だ。思い出せない以上、どうせつまらない用件だったのだろう。
「では、帰るのですよ。今晩はビーフシチューなのですっ」
軽やかに語尾を弾ませるあたり、率直でかわいいとか、素直で微笑ましいとしか言いようがない。私は千鶴を店先で見送り、それから茶の間に戻ったところで、今度は玄関のほうからのチャイムを聞いた。もう夕方だ。闇が迫りつつある。べつに誰の訪問であろうとさほど警戒するつもりはないのだが、そんなことはさておき、めんどくささが私の顔をゆがめる。それでも出向き、引き戸を開けてやった。私はなんとできた人物なのだろう。表向きだけの話ではあるが。
茶色のサングラスに赤い革のジャケット。
楡矢がいた。
「やっほ、鏡花さん、元気?」
私はいよいよ首をもたげてきた面倒さに、しかめっ面をした。
「なんだ? なんの用だ?」
「そない邪険にせんといてや。せっかくおしゃべりしに来たんやからさ」
「そんなこと、誰も頼んでいない」
「上がってええ?」
私は肩をすくめ、肩を落として、吐息をついた。
「茶など出さんぞ」
「ええよ、それで」
愉快そうな顔をして、楡矢は部屋に上がり込んできた。二人して座る。楡矢がちゃぶ台に煙草を置いた。
「アメスピか。メンソールライト」
「よう知ってるね。いまはオーガニックほにゃららいうんやけどね」
「むかし、嗜んでいた時期があってな」
「吸う?」
「要らん。そしてここは禁煙だ。用件を話せ」
「用件はね、ないんよ」
「だったら、なにが目的だ?」
「用件はね、あるんよ」
「言ってる意味が、よくわからんな」
楡矢は口元だけで笑んだ。たまにこういう笑い方をする。嫌な笑みではない。一般的な女であれば、そこに魅力を感じるのではなかろうか。
「せやさかい、おしゃべりしに来たんやってば」
「だから、なにについてしゃべりたいのかと訊いている」
「んーと、たとえば、そうやなぁ。たとえば、そうやなぁ」
「たとえばたとえば。二回も抜かすな」
「たとえばやなぁ」
「三回目か。呆れたくもなる」
そのとおり、私は呆れた。
「ほら、前にちらっと話したやろ? 小説家になってみたいなぁ、って」
「聞き覚えがある。で?」
「どないなジャンルがええんか、迷てんねん」
「自分が思うとおりに書いたらいいだろうが」
「それがそうもいかんくてやなぁ」
私は「どういうことだ?」と眉根を寄せた。
「早速、投稿してみてんよ」
「投稿? ネットのサイトかなにかか?」
「そういうこと。短編、書いてみてんよ。文学ジャンルでアップしてみた。ポイント評価ってのがあって、日間でも週間でもトップとってしもてさ」
「めでたいな。どうでもいい話には違いないが」
「ひどぉ」
「やかましい。続きはあるのか?」
楡矢は腕を組み、「うーん」と唸った。部屋の中は明るくない。それでもサングラスを外さないあたり、お気に入りなのだろうか。お気に入りなのだろう。
「鏡花さんはさ、文学って、どういうもんやと思う?」
「それは以前にも話題に上った。相手は千鶴だったか」
「どないなもんやと思う?」
「私は取るに足らないものだと定義している。それはなぜか。にっちもさっちもいかんくらいにくだらんからだ。自分の内面を露出させた、あるいは表出させたものをそう呼ぶらしいが、それとオナニーとはどこが違う? わかるのなら、ぜひとも教えてもらいたものだな」
またもや「うーん」と唸った、楡矢。「それはそうなんやけど」と奥歯に物が挟まったような言い方をすると、「そもそもさ、プリミティブな疑問があんねよ」と述べた。私は「詳しく聞いてやろう」といつもどおり上から目線で物を言い、楡矢と視線をぶつけ合った。
「たとえば掌編、短編。それらは評価されやすい。なんでかわかる?」
「簡単だ。掌編、短編だからだ。さっと読んで、さっと断じやすい。それ以外の理由はない」
「そうなんやけどさ、それじゃあ業界の未来って明るくなくない?」
「小説には多少の文化的価値があるだけだ。べつになくなってしまっても困るものではない」
「本がなくなってしもたら、鏡花さん、食えへんくなってまうで?」
「たとえそのときが訪れても、なんとでもする」私は「ふん」と短く鼻を鳴らし、それからちゃぶ台をこつこつと右手の人差し指で叩いた。「おまえはそんなつまらんことを言いに来たのか?」
「そういうつもりでもないんやけど」楡矢は眉尻を下げて笑った。「とにかくさ、なんちゅうか、その投稿サイト自体、根深い闇、あるいは問題を孕んでるんやないかってさ」
「いま、聞いた話だけから判断するが」
「なんでしょ?」
「長編の深みを味わえない、たとえば、おまえが言ったとおりだ、思いつきの短編ばかりがのさばる状況は望ましくないだろう」
「ほら、結局、鏡花さんも俺と同じ印象を抱くんやんか」
「私が述べているのはあくまでも一般論だ。総理大臣が声高に語る政策と変わらん」
「そんな中にあって、俺はどないしたらええんやろう」
私は「ネットに投稿すること自体をやめろ。ペーパーメディアの公募に切り替えたほうがいい。そのほうが幾分、有意義であるように思うぞ」と考えを伝えた。楡矢は相も変わらずぽかぁんといった感じで「やっぱりそうなんかなぁ。紙の賞のほうが高級なんかなぁ」と言い、「せやけど、プリントアウトがめんどくさいんよなぁ」と続けた。
「ああ、それは確かにそうだな」
「あれ? それくらいはやれって怒られる思たけど?」
「大事なことを忠告してやる。他の存在に怯えて主張を曲げなければならないくらいなら、自分などやめてしまえ。ヒトは常にうんと両翼を広げられるくらい自由であるべきだ。それができないようであれば、思考すらアウトソースしてしまったほうが賢明だ。それもできないのなら、いっそ死んでみたらいい」
「死ぬのは嫌やわ。まだ若いんやし」
「であれば、課題を解決すべく、あらゆる手段を実践することだな」
「わこた。そうさせてもらうわ」
「話は以上か?」
「うんにゃ。何一つとして話せてへん。せやけど、今日はもう眠いさかい、帰るわ。明日の朝一で来るわ」
「待っていよう」
「あーれま、優しい鏡花さんは珍しい。ほなね」
楡矢は立ち上がると、右手で敬礼をしてから、去っていった。楡矢は興味深いニンゲンに違いないので、どのような話題を切りだしてくるのか、多少は楽しみだったし、楽しみにしておこうと決めた。




