四十一ノ04
岩、あるいはコンクリート片、そういった物を落下させたような物音が続く。「こっちに来るな、来るな」、そんなふうに謳っているようにも感じられる――気のせいだろうか。
――二階に上がった。
まるで物音がしなくなった。千鶴が手分けして散策しましょうと言い、カイトはそのあとに続くと言い、私は一人で調べると言った。
暗闇にもだいぶん、目が慣れてきた。月明かりが差し込むだけでも、周囲はよく見える。見事なまでの廃墟だ。ソファやベッドは置きっぱなしで、床は埃に覆われている。この旅館がこのまま売れるとは思えない。それでも土地代くらいなら得られそうなものだ。
「うひゃぁっ!」
特徴的かつ個性的なカイトの悲鳴が、空間を支配した。私はそちらに向かって一目散に駆ける。すると、男が千鶴のうえに馬乗りになっている場面に出くわした。千鶴は両肘をうまく使って、相手が首を締めに来るところを耐えている。千鶴ごときに阻まれる。残念ながら、男は相当非力なのだろう。
「えいっ、えいっ」とカイトががんばって、男の身体を蹴っている。「えいっ、えいっ」と続ける。
私はカイトを押しのけて、男の身体を正面から蹴飛ばして、男が倒れたところに、げしげしげしとストンピングを浴びせる。
「ま、待ってください、お願いですから!」
男はそう言ったのだが、「年端もゆかぬガキを襲っておいていまさらなにを」と私は忌々しげな顔を崩さない。「お願いします! やめてください!」と大きな声で弱味を見せたところで、なんとまあ私はストンピングをやめてしまった――千鶴が「鏡花さん、やめてください。私はなんともありませんし、だからこそ、この男のヒトの思いを聞いてみましょうじゃありませんか」などと進言してきてきたからだ。
千鶴がしゃがんで、ランタンの灯りを使って、起き上がった男の顔を照らし出す。中年と思しき男だった。四十過ぎくらいだろうか。もはや土下座をしている。「ごめんなさい」の連呼、平謝り。一歩間違えばこのおっさんは危なっかしい行動に手を染めるところだったのだ。おっさんは温厚な私たちに感謝したほういいし、また、感謝すべきだ。
「さて、問おうか、おっさん。目的はなんだ?」
「ここは、この旅館は、もっぱら肝試しのスポットとされていて……」
「それは知っている。その先の話だ」
「とっとと取り潰してしまえればいいんですけれど、潰してしまうにも多くのお金が必要で……」
「ああ、そうだろうな。それで?」
「そのいっぽうで、私にはこの旅館をなくしたくないという思いがあるんです」
「まあ、それも理解できない話じゃない」
おっさんはしくしくと泣きだしてしまった。
まったくもって、うっとうしい――口にはしないまでも。
「若造どもが酒を飲んで騒ぐんです。私の大切な旅館で」
「なるほど。そういう目的で、おばけ騒ぎにて来訪者を排除しようとしていたわけだな?」
「なんの役にも立たない方法なんですけれど」
苦笑のような顔をしたおっさん。
「明確な効果は?」
「一見さんを追い払うことくらいしか、できていません」
「身の回りのニンゲンには?」
「迷惑をかけたくありません」
「一つ、提案がある。潰すくらいならリフォームすればどうだ? この建物はまだまだ頑丈そうだ。アリっちゃアリだろう?」
「リフォーム、ですか? でも、そうするにしたってお金が――」
「たしかに金がかかるだろう。イニシャルだけを見ても高いものになるはずだ。しかし、前を向くという観点においては、そのほうがいいんじゃないのか? なおツッコミは承らん。私は一般人でしかないんだからな」
オレンジ色の火に頬を照らされつつ、男は悩んでいるようだ。そも、悪い男には見えない。むしろ顔には途方もないくらいの愛嬌がある。「やってみろ」と伝えると、「はい!」と返事があった。どうやら楽観的な人物でもあるようだ。半べそをかきながら「無理です」などと訴えてくる輩よりはよっぽどいい。
「湯量の多い立派な温泉なんだ。だったら、がんばり甲斐もあるというものだろう? 私はあえて無責任なことを言っている。だが私の言葉一つでなにかを感じ取るような人物がいるのであれば、私はそれだけでいいと考えている」
「もし改装できたら、そのときは、泊まりにきていただけますか?」
「客室に露天風呂をつければいいと考える。いっそ高級志向のほうがいいと思うぞ」
千鶴が「鏡花さんがおっしゃるのであれば、がんばれなのです」とわかりやすいことを言い、カイトは「ああ、そうだよ。がんばれよな、おっさん」などと快活に述べた。
おっさんは正座したままぽろぽろと泣いたが、その態度からは前向きさが窺えた。時間を費やすことにはなるだろうが、きっとがんばり抜くだろう。
私はニンゲンというものに、さほど絶望はしていない――ような気がする。
なお、おっさんの頭上の吹き出しにある漢字は「気」だった。やる気の「気」なのか、気合いの「気」なのか、そのへんはわからないが、まあ、少なくとも、明後日の方角は向かないことだろう――ということにしておこうではないか。