三ノ05
襟元に白いレースがあしらわれた薄緑のキャミソールの上にクリーム色のカーディガンを羽織り、それなりに短い丈の黒いスカートを着けているカイトは、ちゃぶ台に突っ伏して、しくしく泣く。その背をさすってやるのは千鶴。私は腕を組み組み、「いったい、なにがあったんだ?」と訊ねた。
「やっぱり、いやらしい視線には耐えかねたようなのですよ。むなしい話なのです」千鶴はそう話した。「しかし、年頃の男子にとって、大きな胸は甘美なスイーツなのです。あるいは凶暴な果実なのです。やむをえないことなのですよ」
それはまあ合点のいく話だと納得し、私は「耳は? 晒したのか?」と訊いた。
「さすがにそれは。キャスケットはかぶりっぱなしだったのです」
おいおい泣くカイトの猫耳に触れてみた。不覚筋動なのだろう。やはりぴょこぴょこ跳ねるのだ。ラブリーだ。じつに程良く尊いのだ。
「男なんて要らない。大嫌いだ。僕は男の評価を誤っていたんだ……っ」
突っ伏したまま、右手でちゃぶ台を何度も叩くカイトである。
「ですから、そのへんは覚悟して我慢してくださいと言ったではありませんか。くどいようですけれど、十代の男子なんて、エロスにしか興味がないのですから」
「それは知ってる。っていうか、わかってたけど……」カイトはゆっくりと身体を起こした――が、すぐにまためそめそし始めた。「正直言って、幻滅した。僕はもう、結婚しなくたっていい。ずっと一人でいいっ」
結婚という具体的な単語が飛び出してきたので、キャスケットをかぶったままウエディングドレスに身を包んでいる様子を私は想像した。なかなかにシュールな絵であり、またかわいらしい光景だ。どう考えたところで、アリだろう。
「ですけど、ずっとヴァージンは嫌なんですよね?」
「その考えも改めることにする。僕は一生、処女でいい」
呆れたような表情を浮かべつつ、千鶴が視線を送ってきた。やれやれと私は肩をすくめ、首を小さく横に振る。
見知った男が姿を見せたのは、そのときだった。人懐っこい笑みを浮かべ、「お邪魔しまぁす」などと言いながら、この茶の間に入ってきた。細かいことは気にしないわたしとは言え、いきなり上がり込んでくるのだから、さすがにいきなりは許容しがたい。
私は顔をしかめ、「おい、勝手に入ってくるな」と注意喚起。しかし、男――楡矢ときたら、「店、開いてるんやもん。それで返事がないんやったら、お邪魔したってええやろぉ」と、のたまった。まあ、そのとおりではある。やむなく大目に見てやろうと判断した次第だ。
小さなちゃぶ台を今度は四人で囲む。楡矢のほうに目をやり、「おにいさんはじつに男前なのです」と千鶴が感想を述べた。「おおきに」と笑んだ楡矢である。カイトはというと、まるで親の敵でも見るかのような目を楡矢に向ける。両手で胸の前を隠すあたり、性的な目線で見られることが、よほど堪えるということなのだろう。そのへん、楡矢はニンゲンがよくできているので心配ないのだが。実際、「そない構えんでもええやん」とニコニコ。「俺、まだきみになぁんもしてへんやんか」と続けた。
カイトは顎を引き、楡矢を睨みつける。
「男なんて、どうせ女の身体が目的なんだろ? ヤ、ヤりたいんだろ? 僕のことも、そうしてやりたいんだろ?」
「おぉ、僕っ娘なんかいな、きみは」
「だ、だったら、なんだっていうんだよ」
「いやぁ、メッチャかわいらしいなぁおもて」
「ぐっ、ぐぐぐ、ぐっ……」
楡矢ののんびりとした言い方にはまるで他意も悪意も感じられない。だったら油断したくもなるし、逆に身構えたくもなるというものだ。悪い男ではないので、女の本能が働くのであれば、害はない、もっと踏み込んで素敵な男性だと思うかもしれない。
「ヤリモクが横行してんのは認めるさかい、否定はせぇへんわ。せやけど、そんな奴は総じてガキやって知っといてほしいな」
「お、おまえ、名前は?」
「先に名乗りぃや」
「……カイト」
「俺は楡矢。よろしゅうな」
楡矢が差し出した右手を、カイトは握った。握手、握手。
「で、なんやろ? 葬式みたいな雰囲気やけど」
「ですから楡矢さん、カイトちゃんは深く傷ついているのですよ」
「せやから、なんで?」
「いろいろあるのです」
「ふぅん。それで、や、カイトよぃ」
「な、なんだよ、楡矢。なんかあるのかよ」
「せやせや、その調子。俺のことはそのとおり、楡矢でええさかいな。で、なんなん? その猫耳じみた猫耳は」
そのときになって、カイトはようやく自らの耳が空気に晒されていることに気づいたらしい。「ひゃっ、ひゃぁぁぁっ!」と悲鳴を上げて、頭を抱えた。下を向く。なかなかキュートなリアクションである。
「やめろぉっ、楡矢ぁっ、見るなぁぁぁっ!」
あははははと楡矢は阿呆か馬鹿みたいに笑った。
「無理やって。もう見てしもたもん、あははははっ」
「ぐぐぐぐぐぅぅ……っ」
「そない隠しなや。俺は否定もせぇへんし、そのへん、理解的やぞ?」
「う、うぅ、ぅっ」
「ええから、見せてみぃ」
カイトは隠すために使っていた手を解いた。正座したまま、ぎゅっと目を閉じる。「変だろ? 結局のところ、変なんだろ?」と言い、「いいよ、もう。なにを言われたっていい」と開き直ったようだった。
「おもろい、おもろい」楡矢は手を叩き、わりと喜んでいるようだった。「猫耳の獣人かぁ。長生きはしてみるもんやなぁ」
「な、長生きって、楡矢は若いじゃんか」
「まあ、そうなんやけどな」
「軽蔑するだろ? するんだろ?」
「なんでそないな真似せなあかんねんな」
「だ、だって」
「愛おしいわ。ああ、もはや愛おしい。こっち来ぃや。抱き締めたるさかい」
「だだだ、抱き締めるとかっ」カイトは目を白黒させた。「やっぱりヘンタイだ、楡矢はヘンタイだっ!」
「そないなこと言うて、楡矢楡矢言うてくれてるやん。親愛を感じるなあ」
カイトは「ぐっ、ぐぬぬっ」と喉の奥で鳴らし、果ては泣きそうな顔をした。背景はさておき、カイトと楡矢は子どもと大人だ。楡矢がカイトをうまくあしらっている。
「だだ、だからって、僕は、楡矢のこと、好きになんかならないぞ」
「誰が好きになってくれって言うたんさ」
「だ、だから、おまえは、楡矢っ――」
「あんまり深くへたに考えんなや。世の中、ガキに冷たいもんやないし、せやから世界にあんま、絶望してほしくないな」
まったく、楡矢は勘が働くから大したものだ――としか言いようがない。カイトはまたちゃぶ台に突っ伏し、泣きだしてしまった。ちゃぶ台を右手でドンドンと叩く。「うぇぇ、うえぇぇぇぇっ」と泣き声を漏らす。
「まあ、ええわ。とりあえず俺は、なんかの役に立ったみたいやね」と、楡矢は言い。「ちゅうたかて、俺は鏡花さんに会いに来ただけなんやけど」
私は黒縁眼鏡を押し上げ、あらためて腕を組んだ。
「聞いてやろう。何用だ?」
「いや、せやさかい、鏡花さんを拝みたかったんやってば」
「それは用事とは言わん」
「そない言われるやろうとは思たけど」楡矢は何度「あはははは」と笑えば気が済むのだろう。「最近、暇しててさ、ホンマ、なんかないんかなって感じなんや」
「ああ、そういうことなら、聞いてもらいたい」
「おぉっ、なんやろ」
仰々しく正座した楡矢である。腕を組んだまま、私は「本を読んだんだ」と応じた。当然、「鏡花さん、本なんかいつでも読んでるやんか」と指摘された。「そうじゃないんだ」と言い返した。「意味わからんけど」という物言いはじつに正しい。
「ジャック・ザ・ポエティカル・プライベート」
「森博嗣かぁ」
「ほぅ、わかるのか?」
「彼は総じてイマイチやけど、裏を返せば、ときどき、ええのがあるんや。で、それがどうかしたん?」
「ここまで目を通してきたわけだが、森ミステリーは以降も読み進める価値があるのだろうかと問いたい。ほんとうにイマイチなのか?」
「俺的にはね。せやけど、小説なんて読んでみぃへんことにはわからへんわ。大事なんは、主観やよ」
「だからこそ、参考意見を募っているわけだが?」
「ブギーポップは笑わない」
「ライトノベルだな。くだらん。軽蔑する」
「おもろいよ。間違いない。九十年代後半のラノベには、確かに力があった」
「いまはないということだろうが」
楡矢と視線を交わす。楡矢は「にひひっ」といたずらっ子のように笑み、私は肩で大きく息をついた。なんだろう。なぜだろう。楡矢という存在は、私の胸の内にすっすと入り込んでくるような気がしている。だからといって、心も身体も許してやろうとは思わないが。
「ひとまず、だ。このガキども――千鶴もカイトも、今後、たとえば顔を合わせるようなことがあれば、楡矢、おまえに挨拶をすることだろう。相手をしてやってもらいたい」
「鏡花さんよぃ、そんなん言わずもがなやわ。千鶴もカイトも、ま、二人とも、もう友だちやさかい。なんや困ったことがあったら相談に乗りますよってに」
「わぁ、嬉しいのですっ」語尾跳ねの千鶴。「カイトちゃんも、よかったですねっ」
「僕は僕だから、カイトって呼び捨てのほうがいい……」カイトは、どうやらそういうことらしい。「に、楡矢でいいか?」
「せやさかい、ええってば」
「これから……これからその、よろしくお願い、します……」
「うんうん、それでこそ年頃の女のコや。じつに萌え萌え」
私は能力をスイッチ・オン。千鶴は殊の外みだらなよだれの「涎」の字。楡矢かカイトか相手はわからないが、イケナイ妄想に浸っているようだ。カイトはというと相変わらず卑猥の「猥」、なんだかんだ言ってもエロい思考から逃れられないらしい。楡矢はというと、相変わらずなにも見えない。何者なのだろうか、ほんとうに、この男だけは判断に困る。
立ち上がった楡矢。だから私は、「もう行くのか?」と訊いた。べつに名残惜しいとかそういうわけではない。引き際があっさりしすぎているなと感じただけだ。
「じつのところ、暇潰しになるような話は持ってきてんけど、女は女でも女子高生が二人もおる場やさかいね。話せへんよ。次にするわ」
「しょうもない案件であることを祈ろう」
「退屈はさせへんつもり。退散しまぁす」
「そうしろ」
楡矢は去り際、きちっと右手で敬礼してみせた。いちいち芝居がかった真似をする男だ。好きになれそうもない――が、嫌いになる理由も、現状、ない。
「そうか。あんな男も、いるんだな」感心したような口振りのカイト。「そっか、そっか。大人、だからなのかな……?」
「楡矢は特別だろう」私は考えを口にした。「あいつは得体が知れないところがある。まともだと思わんほうがいい」
「でも、ああいうのを、魅力的だというんじゃないのか?」
「そう感じるのは自由だ」
「前を、向けそうだよ」カイトは照れくさそうに笑った。「男にも、いろいろあるんだな」
「そう解釈できたのであれば、なによりだ」私は頬を緩めてみせた。「以降、私は店番をする。きりのいいところで帰れ。これ以上はなにも振る舞ってやらん」
「カイト、どうしますですか?」
「いいよ、千鶴。家に帰る。ホント、ポジティブになれた。高校に通おうとまでは思わないけれど」
「まずは、それでよいのだと思いますですよ」
千鶴はカイトににっこりと微笑みを向け、それから二人して手を繋いで辞去した。案外、いいコンビになるのかもしれない。身体の関係にまで発展したら笑えるし、そうなることを期待したい。何度もくり返すとおり、私は快楽主義者なのだ。