三十九ノ03
夕暮れどき、店の出入り口ではなく、反対側、玄関のインターホンが鳴った。内心、面倒だなぁと思いつつも、打ち水をしがてら、顔を出してやった。
楡矢がいた。
楡矢ときたら、「よっ」と笑み、右手を上げた。特になんの変哲もない。お気楽そうな表情、振る舞いである。
「着替えてきたのか」
「汗かいたさかいね」
茶の間に入れてやり、店を閉めた。楡矢は麦茶を飲み、やはり麦茶を飲むだけだ。私に対して欲情したりはしない。まあ、そうであってくれると助かるというより興味深いのだが、それはそれで自信をなくしそうになる――などということはない。楡矢には楡矢の正しさと美しさがあり、それはそれで、それだけだ。
特にケガもしていないようなので安心し、私は私で麦茶を飲む。その瞬間のことだった。なんだか妙な気配を感じた。それはそう――血の匂いがしたのだった。私は左右にゆっくりと首を振って、匂いの根源を探した――じつは探すまでもなかった。私は両手をつき、女豹のように背をしならせ近づき、楡矢の背を右手でばしっと叩いてやった。すると、「いったーい!」と叫びながら立ち上がり、どたどたと地団太を踏んだ楡矢である。
「そうか。背中を斬られたのか」
「わかってるんやったら叩くことないやろぉっ」
「心配してやったんだよ」
「せやったら、叩かんといてよぉ」
「しかし、背中の傷は恥だというぞ」
「スーリヤさんが相手なんやもん。逃げるわいさぁ」
楡矢はしくしく泣き出した。
無論、嘘泣きに決まっている。
「おまえ、足は速いだろう?」
「スーリヤさんには勝てへんわ。あのヒト、フツウに走っただけで世界記録出すで」
私の太もものあいだに顔をうずめてきた楡矢である。そこで私が「人類の行く末について、私は興味などないぞ」と言ってやると、ばっと身体を起こした次第である。弱いのか強いのかわからない。だからまあ、なんとなく、惹かれているのかもしれないが。
楡矢はにわかに俯き、とてもつらそうに目を伏せ、ぎゅっと顔をしかめた。
「俺は満たされたガキやった。なんも不自由なく暮らしてたガキやった」
「だったら、どうしてPMCなんかに加担したんだ?」
「そのまえに、軍属やったっていう歴史がある。ニッポンの軍隊や」
「ああ、そうだったな。それで?」
「ツゲさんを殺らんことには、なんにも終わらんと思うんやわ。そないな調子やさかい、殺さんと殺される。いまの俺のいるところが、まさにキリングフィールドなんやよ」
「格好をつけるな」
「あはははは、ごめん、かんにん」
私は「せいぜい、戦え」と、最大限のエールを送った。
「楡矢、おまえの正義とはなんだ? おまえが目指した理想とはなんだ?」
「それはまあ、弱いヒトを救いたかったとか、なんとか……」
「だったら、その『弱いヒト』のなかには私も含まれるかもしれん。なにがあっても帰ってこい。生きているうちは相手をしてやる。まあ、当然、死んでしまえば、生身のおまえとはしゃべれんわけだが」
楡矢は難しい顔をした。
「難儀やなぁ。どうあれば、暮らしやすくなるんかなぁ」
「おまえから首を突っ込んだんだ。やむをえないと諦めろ」
「まあ、そういう生き方をするしかないんやけど」
「自分の仕事、役割に、誇りを持て」
「命令?」
「教訓だよ。誰だって自分を否定されるのは嫌だろう?」
「そりゃそうや。ええこと言うなぁ」
苦笑いを浮かべた、楡矢。
「で、スーリヤは、どうしたんだ?」
「帰りはった。ツゲさんへの報告もあるんやろうし、そうやなくたって、あのヒトがおらへんと、組織自体が不安がるさかいな。集団をやっていくうえでは、得難い存在なんやよ」
「やはり世界中に派遣している、と?」
「そこなんよなぁ」楡矢は頭を抱えた。「ちょいややこしいことになってる。俺が望んだところで、ツゲさんには、会わしてもらえへんやろうし」
私はきょとんとなった。
「会えないのか? もしそうなら、どうしてだ?」
「次に会うときは殺し合いになるって、言うてるんや思う」
「ほぅ、なるほどな。それならそれで、ありがちな未来だ」
「ホンマ、なんの因果か」
「スーリヤ。奴さんに勝たなければ、ツゲもなにもないと考えるが?」
「どないなんかね。そのへんわからへんわ」
楡矢は少々、不機嫌そうな顔をして、玄関から立ち去った。
楡矢が遊びに来るぶんにはかまわない。ただ、涙ながらに懇願してまで帰還を求めようとは思わない。
そう。
私は薄情なニンゲンだ。