三十九ノ02
「スーリヤさんが?」
茶の間で麦茶を振る舞い事の次第を話してやると、楡矢はそんなふうに、驚いたように、臆したように、結果、虚ろな顔をした。それでもなんとか持ち直したように笑顔を浮かべるあたり、それは楡矢の本質というか、精神的に強いところなのだろう。
楡矢は口元に右手をやり、しかめ面をした。
「まいったな。ツゲさん、本気なんかいな」
「どういうことだ?」
「スーリヤさんは壁を走り抜く。その角度たるや七十度」
「は?」
「走り抜けんねよ。のぼりもくだりも、な」
私は「ほぅ」と口をすぼめ、感心した。
「だったら、おまえは勝てないな」
「そない思うんやけど、死にたくないわなぁ」
「どうしてだ?」
「俺、まだなんにもしてへんもん」
「合点の行く理由ではある」
楡矢が「たぶんやけど」と前置きした。
「うまいことやってれば、ウチの組織はIAEAから平和の使者扱いされてたんかもな」
「なんのせいでそれがならなかったんだ?」
「いや、結局のところ、査察は乗り越えたんやけど」
だったらどういう話なんだ?
そんなふうに訊いたが、無意味な問いだと思い、私は目を閉じてかぶりを振った。
「なあ、鏡花さん」
「なんだ? 今日はいささか気分がいい。行く先々に累々と死体が転がっていようと、協力は惜しまんつもりだ」
「せやったら、聞いたってや。なんでツゲさんは、ここまでしはるんやろう」
「おまえがかわいいからだろう」
「かわいいのに殺すん?」
「かわいいが、視界に入れることすらうっとうしい存在というものは、ある」
「せやから、俺は殺されるん?」
「ヒトまで使っているんだ。やはり相応の思いがあってのことなんだろう」
楡矢は「しょうがないなぁ」とでも言わんばかりに眉尻を下げた。漢字を見てやった。相変わらず、見えない。楡矢は四六時中、そういう男なのだろう。
店の出入り口、ガラス戸を開けて入ってきた気配があった。静かに開いて、静かに閉まった。
「楡矢、いるんだろう! 出てこい! その女まで殺したくはない!」
壮年の紳士が発するような渋い声。。
比較的高いトーンの、イケてる男性声優のようなそれだった。
楡矢は「ちょい待ってぇやぁ」と笑いつつ、「丸腰なんやけどなぁ」と苦笑を浮かべつつ、茶の間から店舗のほうへと出た。私は続く。レジの向こうに長い白髪をうしろに流しているスーリヤが立っていた。今日も腰に一振り提げている。
「スーリヤさん、刀はずっこいわ。俺なんて格闘だけで殺れるやろ?」
「刃があったほうが確実だ」
「ツゲさんは、ホンマにそこまでして俺を殺したいん?」
「俺が遣わされている時点で、言わずもがなだろう?」
肩で大きく息をついた楡矢である。
「スーリヤさんがおらへんとなったら、マザーベースの士気、下がると思うんやけど?」
「その心配はない」
「ないん?」
「ここは狭い。表に出よう」
「スーリヤさん、俺はやり合う気なんか微塵もないんやけど?」
「もうダメだ。こっちはとっくにできあがっている」
楡矢はゆっくりと革靴を履くと、いきなり駆け出した。スーリヤを突き飛ばして、店から出ていった、逃げだしていった。スーリヤはゆっくりと身を翻した。「この場を逃げたところで、逃げようなどないんだが」と呟いた。
「囲い込んで殺す気か?」
「二度も言わせるな。言わずもがなだろう、鏡花嬢」
「楡矢は恐らく、恐ろしくはしこいぞ」
「とっとと殺す」
「なら急げ」
「おまえは楡矢のなんなんだ?」
「単なる友人だよ」
スーリヤは笑った。「この国の、ビジネスホテルというのか? 悪くないな。屋上に温泉がある」と言って、笑った。
「愚図なクズは土に還す。それだけだ」
去っていった、スーリヤである。