三十八ノ01
我が店を訪ねてきた千鶴が「今日は試験を受けたのです」と言った。なんの試験かと思いを巡らせた結果、きっとそうなのだろうと考え、「来るものが来なかったのか。だとしたらたいへんだ」と口にした。きょとんとした顔を見せてから、千鶴はころころと笑った。
「違いますよぅ。塾で実力試験だったのです」
なるほど、そういうことか。
「夏ももう、終わりが見えているのです」
たしかにそうとも言える。
「いつも麦茶を振る舞っていただき、感謝なのです」
千鶴はそんなふうに言うと、座礼をし、畳に額をこすりつけた。大げさな所作としか言いようがないのだが、このあたりの天然さを、私はことのほか高く買っている。久しぶりに漢字を見てやった。「楽」だ。なにか楽しいことでもあるのだろうか、あるいはあったのだろうか。
「ところで鏡花さん、鏡花さん」
「二度も呼ばれなくたってわかる。なんだ?」
「ちょっとこれから、見学会に行きませんか?」
「新しい家を買うつもりなんてないぞ」
「そういう見学会ではなくて」
「だったら、なにを見学すればいいんだ?」
千鶴は悪戯っぽく笑った。
「私、これから学校に行くのです。仲良しの野球部の男のコがグラウンドで練習試合をやっていて、私が顔を出すと、それはもう喜ぶのですよ」
「まあ、おまえは美少女だからな」
「わっ、照れるのです」
「胸は洗濯板だがな」
「わっ、ひどいのです」
私は顎に右手をやり、くりっと首をかしげた。
「私が行っても喜ばんと考えるが?」
「特に男性たちの目の保養になるのですよ」
「言うようになったな、千鶴」
あとで主に下半身を折檻してやろうと考える次第だ。
「行きましょう、鏡花さん。かびくさいお店で佇んでいたら、かびくさいニンゲンになってしまうのですよ」
「それでもかまわんと言っているつもりなんだが?」
私は苦笑した。仲のいい輩には、しばしば話の腰を折られたり、自らの価値観に踏み込まれたとしても、それはしかたのないことだと、割り切れるように、最近、なった。
「私は自分がクラゲみたいなニンゲンだと思っているんだがな」
「なんの話ですか?」
「外見は優雅だが、めんどくさいことがあれば、容赦なく毒手で刺す」
「よくないのですよ。世の中、ラブ・アンド・ピースなのですよ」
「ふざけて言っているんだよな?」
「もちろんです。そんなもの、ファッキューです」
千鶴が真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、私は少々、笑ってしまった。千鶴はぺっちゃんこの胸をえっへんと張った。まったく愛らしいことである。
「わかった。私の負けだ。今日の私は、おまえに付き合ってやろうと思う」
千鶴の頭の上の漢字、「楽」は「愉」に変化した。「楽」しいし、「愉」しいのだろう。
「ついでに学校を案内してさしあげるのです」
「わかった。早急にそうしてもらおう」
「アメリカンドッグでも買っていきましょう。駅前に屋台があるのですよ」
「買い食いはいかんと思うが?」
「難しいことは、言いっこなしなのです」
千鶴はお上品に口元を押さえ、くすくすと笑った。