三十七ノ01
まさに、ひゃーって走って逃げてきたんだよ!!
我が家の茶の間にて、興奮した様子で、カイトはそう切り出したのである。身を翻し、「見てくれよ」と言う。ミニスカートのうしろをナイフで切られたらしい。「うひゃぁっ!」とカイトが叫んだのは、私が彼女のスカートをたくし上げてやったからである。カイトは「や、やめろよぉ」などとのたまいながらスカートの裾を押さえるのである。私が「そうか。下着の色は黒か」と知り得た情報を満足げに提示してやると、カイトはぺちゃんと畳のうえに座った。「ひどいよぅ、ひどいよぅ……」と言って、めそめそ泣くのである。ただ、嘘泣きなのはわかっている。いまさら私に下着を見られたところでなんとも感じないはずだ。
「黒の下着はいいと思うぞ」
「ほほ、ほんとうか? 着けるほうとしては勇気がいるんだけど……」
「たとえばだ」
「た、たとえば?」
「男がおまえを抱こうとするわけだ」
「だ、抱こうとしたら、それがなんなんだ?」
「黒を着けていたとなると、エロい女だと察して喜ぶことだろう」
カイトは「アホかぁっ! そんなことを平然と言うなぁっ!」とわめいた。だが、「だったらどうして黒なんだ?」と問うと、「ぐぬっ、ぐぬぬぬぬぬっ」と言葉をうまく発せないでいる。「おまえは男に抱かれたいんだよ」と言ってやると、「そんなのやだぁ、やだぁっ」と背けた顔を両手で覆った。その様はなかなかにラブリーだ。
まあ、そういった無駄で無益なやりとりはさておき――。
「おまえ、ほんとうにスカートを切られたのか?」
「嘘を言ってどうすんだよ。切られたよ。もうちょっと深かったら、おしりまでやられてたよ」
「警察に連絡は?」
「まだだよ」
「どうして?」
「鏡花のほうが頼りになるかな、って」
「ふむ。まあ、おまえのスカートが切り裂かれたことはよしとしよう」
「よ、よしとすんな!」
「最悪、おまえがどこかで犯されたとしても、それはそれでよしとしよう」
カイトが「やだぁっ、そんなのやだぁっ!」とさらにラブリーな声を発した。カイトは気づいたほうがいい。自身の存在そのものがエロいのだと。
「課題自体は理解した」
「警察は捕まえてくれるかな?」
「捕まえてもらわなければ困る」
「で、でもな、鏡花ぁ」
私は深く頷いた。
「たしかに、エロい美少女をおとりに使うのは気が引ける」
「びびび、美少女?!」
「きっぱり言う。おまえは美少女だ」
「そそそ、そうなのか?! だけどおとりとかっ!?」
「おまえを使う線で、警察と話そう」
「だからやめろぉぉっ! そんな線を消せぇぇっ!!」
「やれやれ。おまえはわがままだな」
「当然、わがままにもなるだろうがぁぁっ!」
両手で顔を覆い、すんすん鼻を鳴らしながら泣くカイトである。
「わかった。おまえをおとりにする案は取りやめよう」
するとカイトは、ぱぁっと顔を明るくして。
「そ、そうだよ。やめてくれよ。もっとこう、正当性のある建設的な手段で捕まえようぜ」
私は「ふむふむ」と頷いた。
「だがしかし、やはりおとりをやったほうが、話は早いと思うんだよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「わかった、こうしよう。出勤時と退勤時は、私が一緒にいてやる」
カイトは馬鹿みたいにキラキラと目を大きくして、「いいのか?」などと訊ねてきた。「おまえが先に言ったとおりだ。嘘をつく理由がない」と言ってやると、右の前腕で涙を拭いながら、「ありがとう」をくり返した。大げさな話ではあるが、カイトはじつに健気な少女だと言える。
「わかった。それならだいじょうぶだ」とカイトは言い。「明日、ウチに来てくれよ。朝ごはんくらいなら振る舞うぜ」と続け。
「おまえが家に帰るまでが私の宿題だと言った」
「へっ? それって今日からなのか?」
「大人が言葉を吐いた以上、そこには責任が伴うんだよ」
「大人って、たいへんなんだな」
カイトが立ち上がった。
私も麦茶を飲み干し、腰を上げた次第である。