三十六ノ03
我が家の茶の間である。赤ん坊を抱いて訪ねてきたくだんの女に、麦茶を出してやった。
「彼のもとから出ました。ヤスオと、それに私のためにならないので」
「ヤスオ、ヤスオ、か」
「そうです。ヤスオです」
「いまどき、ぱっとしない名をつけたものだな」
「キラキラネームを考えた時期もありました。その頃は、彼も嬉しそうにしてくれました」
「だから、その彼とやらのことは忘れろ」
「だけど、私と彼のコですから」
私は自らの発言を恥じた。
「すまんな。親になったことがないと言った。だから、当てずっぽうでしか言えん」
「あなたはとても優しいヒトだと思います。いいおかあさんになれますよ」
「しかし、私は母親にはならんだろうな」
「どうしてですか?」
「面倒だからだ」
女は「あははっ」とおかしそうに笑って。
「でも……」
「でも?」
「じつは彼に呼び出されていて……」
「なんだ。まだ完全決着ではないのか」
「最後に一度だけヤスオの顔を見たいと言われました」
「だったら、私が関わるほうが望ましいな」
「助けて、いただけますか……」
「いいぞ、連れていけ。阿呆な男に、私は倒せん」
女がじゅじゅっと鼻をすすった。
「あなたはどうしてそこまで強いんですか?」
「だから、それは大切な家族を持ったことがないからだよ」
――駅からそう離れていないアパートだ。家賃は十万もするらしい。裕福ではないらしいのにどうしてかと訊くと「みすぼらしいのは嫌だから」などと男のほうがのたまったと聞かされた。その時点で男に対して嫌悪感を覚えたのだが、対応してやると言った以上、そうしてやらないわけにはいかない。
私の振る舞いがいかついからだろう。男は正座し、申し訳なさそうな顔をしている。それができるならもっと早くにしていろという話だ。連れの女は苦しんでいる。思い詰めている。その暴力に怯えて、その恐怖に晒され、子をコインロッカーに突っ込んでしまうくらい。
「おまえ、ほかに女がいるんだろう?」私の勘はよく当たる。「だったら、この女は自由にしろ。これ以上の言葉は持たん。別れろ」
「で、でも、向こうの女のコは俺なしじゃ生きていけなくって」
「馬鹿か、おまえは。こっちの女も赤ん坊も、おまえを信じていたんだぞ」
「そ、それは……」
「いちいち口ごもるな。殺意を覚えるくらいに腹が立つ。さて、どうかね? 気に入らんことを言う女をこの場で叩き伏せてみるかね? あいにくと私はそうはならんぞ。身を滅ぼすことになろうが受けて立つ」
「わ、わかったよ。こいつらの面倒を見ていけばいいってんだろ? そんなの簡単――」
私は立ち上がると、アイスコーヒーの入ったグラスを男に叩きつけた。思いのほか強く顔面に当たり、男は仰向けに倒れた。私は顔をしかめるだけだ。
「おまえは馬鹿なのか? 阿呆なのか? どうして自らの子を生んでくれた女を愛せなかったんだ? もう取り返しはつかない。そんなところまで来てしまったんだ。二度も言わせるな。身を引け。ふざけるなという話なんだよ」
「お、おまえ……っていうか、あんた……」
「なんだ? 言いたいことがあるなら、言ってみろ」
「あんた、どうしてヒトんちのことなのに、泣いてんだよ……」
私は右手の甲で涙を拭う。
「悲しいんだよ。自分の赤ん坊すら愛せない男がいるなら、それは悲しいことでしかないだろう?」
悪かった、悪かった!
男は立ち上がり、幾度も頭を下げた。どうしたらいいのかよくわからないのだろう。膝を落として、泣いた。「ごめんな」を連発し、赤ん坊のことも女房のことも抱き締めた。
だけど、もうダメだ。ダメなのだ。すでに終わった関係なのだ。それがわかっているから、女は子を抱いたまま、男から離れたのだ。「あなたのことは、もう愛せない」と、しっかり言ったのだ
男は床に突っ伏し、大きな声で子どもみたいに泣いた。償えない罪はある。あるのだ。そのことを思い知った一件だった。